第088話:再び兄弟となる二人

 ザガルドアは半ば放心状態だった。


 子供時代の戯言たわごとを、ここまで信じてくれていたのか。しかも、己を犠牲にしてまでやりげるとは、イプセミッシュをいささか甘く見ていたのかもしれない。


 ザガルドアは思い出していた。彼の口から、自身の出自を知らされた当時のことを。


 記憶の封印が解けた今、はっきりと思い出せる。貴族、しかも王族の一人と聞いても、さほどの驚きはなかった。彼が時折かもし出す雰囲気から、それは持って生まれた本質だ、何となく高貴な生まれだろうと察しがついていたからだ。


 ザガルドアを驚かせたのは、それとは別の面だった。彼からは、貴族特有の傲岸不遜ごうがんふそんな態度が一切見られず、それどころか目線を下に置いた振る舞いは新鮮でしかなかった。


 ザガルドアを変えていったのは、間違いなくイプセミッシュだと断言できる。それゆえに、長らく良好な関係を築けていけたのだ。


「イプセミッシュ、お前が俺を思ってやったのは分かった。だがな、俺に無断でやったその事実は許しがたい。だから、こうする」


 突然のザガルドアの行動に、さすがのイプセミッシュも対応できなかった。


 いや、少なくとも十二将筆頭、彼ほどの武人ともなれば、奇襲にさえ対抗できて当然だ。ここはあえて動かなかったと考えるのが自然だろう。


 握り締めた右拳みぎこぶしが、一直線に伸びてくる。イプセミッシュは、その軌道を明瞭にとらえていながら微動だにしなかった。


 鈍い打撃音が響く。ザガルドアの右拳が、イプセミッシュの左ほおにめり込んだ。


「ちっ、何だよ。お前のその鋼鉄並みの肉体は。殴った俺の方が痛みを感じるとはな」


 ザガルドアは自身の右拳に何度となく息を吹きかけ、開いたり、閉じたりを繰り返している。よほど痛かったに違いない。


「いや、十分にいたよ」


 イプセミッシュが口にまった血を吐き出す。赤い絨毯じゅうたんの上だから目立たないものの、その中に白いものが一つだけ交じっていた。


「歯が一本欠けたか。ザガルドア、さすがだな。よい拳だったよ。それよりも骨折はしていないだろうな」

「当たり前だ。この俺が骨折などするはずがなかろう。よし、これで手打ちだ。俺は、お前を許す。異論は認めんぞ、イプセミッシュ」


 あっさり許すと言ったザガルドアに、イプセミッシュは納得できないといった表情を浮かべている。


「ザガルドア、本当によいのか。私は、お前に断りなく記憶の封印、さらには嘘の記憶を付与したのだぞ。大罪と言っても過言ではない。うらまれてこそ当然であり、それをこんな簡単に許すなど、私には理解できない」


 今度は拳ではなく、人差し指一本をイプセミッシュの心臓辺りに突きつける。


「馬鹿野郎、何度も同じことを言わせるな。俺が許すと言っているんだ。この話は終わりだ。よいな、イプセミッシュ」


 ザガルドアはさらに力を込めて押しつけた。


「それとな、昔から決まっているんだ。弟の尻拭しりぬぐいをするのが、兄貴の役目だとな」


 胸が熱くなっていく。十年という時をて、いまだに兄弟だと言ってくれるザガルドアの存在が何よりも嬉しかった。


「まだ、私を弟と呼んでくれるのか。そうだな、兄貴、本当に有り難い。心より感謝するよ」


 二人の目にっすらと光るもの、それは何だっただろうか。しばしの余韻が二人を包んでいた。


 エンチェンツォは少し前にやって来ていた。私室内へ立ち入るのは、はばかられた。扉は無残にも破壊され、吹き飛んでいる。明らかに争いがあった証拠でもあった。


 ようやく静かになった頃合いを見計らって、エンチェンツォが恐る恐る私室内へ顔をのぞかせる。二人の様子も、明らかに普段とは異なっていた。


 筆頭ザガルドアを除く十二将がそろったことを告げるべきだ。言葉が出てこない。


 気づいたザガルドアが、無論、エンチェンツォにとってはイプセミッシュだ、気をかせた。


「俺を呼びに来たのか、エンチェンツォ」

「はい、陛下。ザガルドア様は、こちらにいらっしゃったのですね。十二将の皆様、既におそろいです。玉座の間にて、陛下の御成おなりをお待ちしております」


 エンチェンツォは何の違和感もいだいていない。国王たるイプセミッシュの言葉だと信じて疑わない。二人の過去を知らない彼にとっては、それが当たり前だからだ。


「用意をしてから行く。お前は先に戻っていろ」

かしこまりました」


 丁寧な辞儀じぎをもって、エンチェンツォが戻っていく。気配が完全に消えたところで、ザガルドアが改めて言葉をつむいだ。


「今、この時をもって、玉座に座るのはお前だ。お前こそが、イプセミッシュなのだからな。十二将の奴らには俺が説明する。奴らがどんな顔をするか、楽しみだな」


 イプセミッシュは、ザガルドアの言葉に全面的に同意できなかった。やはり、国王は自分ではなく、このままザガルドアが務めるべきだと強く確信する。


 機先を制したのはザガルドアだ。


「それにだ。昔のお前を知る者たちの記憶だ。その何だ、妖精の黄昏オルムラクヴィユだったか、それで反転したものも、俺たちの記憶が戻ったことで、元どおりになるのだろう」


 やはり鋭い。ザガルドアは、もともと頭の切れる男だ。それが国王という重責を、ほぼ十年にわたってになうに至り、さらに磨きがかかったようだ。


「そのとおりだ」


 妖精王女は別れ際に告げたのだ。妖精の黄昏オルムラクヴィユがもたらす効果は、イプセミッシュとザガルドア、いずれか一方が死なない限り、永続的に有効だ。


「あるいは、私たちの記憶が封印されたという事実を見抜き、さらに解封かいふうなしうる者が現れた時、妖精の黄昏オルムラクヴィユは効力を失う、とな」


 イプセミッシュは、そのような者が存在するのかと尋ねた。妖精王女の答えは、二人いる、だった。


「一人については、人でありながら、人ではないとおっしゃった。もう一人は、強力な魔剣士ということだった」


 二人の脳裏に、同じ顔が浮かんでいる。二人で初めて王宮に乗り込んだ際、命を救ってくれた恩人でもあり、今また記憶の解封という、実に厄介やっかいなことをしでかしてくれた男だ。


 イプセミッシュが続ける。


「私たちの命の恩人、かの者が妖精王女様が仰った魔剣士なのだろう。恐ろしい氷の魔剣使いだった。あの継母ままははたちを一瞬にして氷けにしてしまった。お前の傷口を凍結させたのも彼だ」


 ザガルドアが呟く。


「なぜ、今頃になって俺たちの記憶を解封したのか。分からないな。いずれ相見あいまみえるだろう。その時に聞くしかないか」


 騎士二人に剣で貫かれ、瀕死ひんしの重体だった自分を助けてくれた男、倒れ込む際、わずかに顔を見ただけだ。その時に受けた強烈な印象は忘れもしない。


「イプセミッシュ、俺はな、絶望しかない暗闇の中、たった一人で生きてきた。そんな真っ暗な世界で、唯一の光をようやく見つけた。それが、お前だったんだ」


 遠い昔を思い出しているのか、ザガルドアは視線をどこに合わせるでもなく、宙を見上げている。


「それからというもの、俺にとって、お前だけが友であり、信じられる存在でもあった。記憶が戻った今、この思いはこれからも変わらない。二人の関係が、入れ替わったとしてもな。それだけは言っておくぞ」


 視線を戻し、イプセミッシュに向ける。その表情は晴れやかだった。


「ザガルドア、お前という男は。私を泣かせるつもりか。くそ、もう目から何かがあふれて、前が見えないじゃないか」


 ザガルドアが笑い出した。鉄面皮てつめんぴと言われ続けた男の変貌へんぼう、これこそがイプセミッシュと出会った後の彼本来の姿なのだ。


「おいおい、貴族のお坊ちゃんが、そんな汚い言葉を使ったら駄目だろう」

「うるさいぞ、ザガルドア」


 二人は互いに顔を見合わせ、それから盛大な笑い声を上げた。


「何だか、久しぶりにすっきりしたな。奴らが待っている。俺たちも向かうとしよう」

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