第085話:ダリニディー森林の謎

 王都ポルヴァートゥ東部に広がる雄大なデンゲーレ平原は、王国の食糧庫とも称さる。民たちにとって、欠かせない絶対生命線の一つでもある。


 その平原のどこか、忽然こつぜんと現れる不思議な森林こそ、ダリニディー森林だ。存在を強く信じる者の前にのみ姿を現し、さらには見る者によって規模も形状も異なるとさえ言われている。


 ダリニディー森林を目指してやって来る者たちの望みは、ひとえに記憶の消去、封印だ。


 眼前にダリニディー森林が狭小の隙間すきまをもって開けている。


 下馬したイプセミッシュは躊躇ためらっていた。本当にこれが正しいことなのか。自分の判断は間違っていない。そう思いたい。


 ここに来た今、中に踏み込む決意が揺らぎつつある。それを敏感に感じ取ったか、狭小の入口がゆっくりと閉じていく。強固な意思のない者には決して見つけられない。姿を見せない森林なのだ。


 ダリニディー森林の存在が薄れていく。


 この機会を逃すと、二度と目の前に出現することはないだろう。イプセミッシュは迷いを断ち切ると、閉じかけている入口に向かって身体を投げ込んだ。


 入口が消え失せる。間一髪だった。


 イプセミッシュはただ一人、道なき道を進んでいく。奥に向かっているつもりだが、森林内では方向感覚が全くつかめない。


 頭上が開けているなら、陽光を頼りにもできる。ダリニディー森林は完全に閉ざされた空間構成になっているのだ。


 あるのは、樹木が織り成す緑だけだ。不思議と恐怖感は抱かない。鬱蒼うっそうとしていながらも、心地よい風が流れ、時折、鳥たちのさえずり、虫たちの鳴き声が聞こえてくる。


 道は、人が歩く程度の幅が辛うじて確保されている。落ち葉の絨毯じゅうたんが案内してくれているのか、一本道になって奥まで続いている。


 歩くこと一ハフブル、初めて建物らしい建物が目に入ってきた。外から見る限り、樹木を組み合わせただけの簡素な小屋だ。


 窓は一切なく、屋根には様々な樹々の葉が分厚ぶあつく敷き詰められている。中に入るための扉は、正面に一つのみだ。大人なら、かがまなければ入れないほどの大きさしかない。


「中に入るところは、ここだけのようだ」


 イプセミッシュが扉の前に立つと、内側に向かって、おもむろに開かれていく。


「入れ、ということか」


≪剣やよろいなど、金属でできたものは、全て外しなさい≫


 室内から声が聞こえてくる。人の気配は一切感じられない。声は声でも、直接脳裏に響いてきている。あらがえないほどに魅惑的でもあった。


 イプセミッシュは、言われるがままに、剣、鎧、かぶとなど、身にまとった一切の金属類を脱ぎ捨てた。


≪入ったら、扉を締めなさい≫


 腰を屈め、身体を折りたたむようにして扉をくぐる。狭い、そう思ったものの、口に出すわけにもいかない。イプセミッシュは後ろ手で扉を静かに締める。


「驚いてくれたようで、何よりだわ」


 間の抜けた表情が嬉しかったのか、奥から聞こえてきたのは、紛れもなく先ほどの声と同じ、女のものだった。


 今度は脳裏ではなく、聴覚に伝わってきている。イプセミッシュは目の前の光景に、唖然あぜんとするばかりだった。


「いったい、ここは。私は、何を見ているのだろう」


 外から見る小屋の大きさは、あくまで見せかけにすぎない。室内の広さこそが、この建物の真なる姿なのだ。


 国王の私室並みの広さを持つ部屋を中心に、頑丈がんじょうな扉で仕切られた部屋とおぼしき場所が複数ある。立ち尽くしたままのイプセミッシュに、女が再び声をかける。


「私を訪ねてきたのでしょう。遠慮はりません。こちらに来なさい」


 ようやくのこと、イプセミッシュは声の主たる女がいるであろう方向に、視線を向けた。声はすれど、女の姿は確認できない。


「どこを見ているの。ここよ」


 そう言われても、見えないものは見えない。イプセミッシュは仕方なく、声の方向へと歩を進めた。


 部屋は途轍とてつもなく広い。窓が一切ない中で、十分な光が行き渡っている。これまで暗闇の世界で生きてきた自分には、まぶしいぐらいだ。


 想像を絶する世界が展開されている。見たこともない植物が所狭ところせましと飾られ、無造作でありながら一定の秩序を保っている。


 幾つかの種類の動物が、これもまた初めて見るものばかりだ、イプセミッシュの歩調に合わせて同行してくる。彼らを見て、不思議と不快な感情はいてこなかった。


「どうやら君は合格のようね。彼らが君を嫌がらず、それどころか、むしろ寄り添うように誘導しているわ」


 イプセミッシュは、たまらず虚空こくうに向かって言葉を発した。いくら探しても見つからない女に業を煮やしたか、いささか怒気どきをはらんでいる。


「私には、貴女の姿が見えません。申し訳ないのですが、姿を見せてもらえないでしょうか」

「君の目は節穴なの。私は、先ほどから君の目の前にいるわよ」


 イプセミッシュは目をらした。ようやくにして気づく。


 人の発する声だから、姿形すがたかたちも当然、人のそれだろう。固定観念にとらわれていた己をのろうしかなかった。


「貴女が、記憶の魔女で間違いないでしょうか。まさか、妖精族の貴婦人とは露知つゆしらず、大変失礼いたしました。私の言葉づかいを謝罪いたします」


 イプセミッシュは、目の前に浮かぶ妖精に対し、素直に非礼をびた。


 美しく透き通る羽が左右三対、計六枚をゆるやかに羽ばたかせ、ゆっくりとイプセミッシュのそばにやってくる。


 羽ばたきに合わせて、星が散るかのごとく、金色のきらめきが彼女を輝かせる。いっそう神秘的かつ婉美えんびに見せていた。


「礼儀正しいのね。ウェイリンドアの息子だけはあるわね」


 六枚の羽根が彼女の身体を優しく包み込む。次に羽が開くと同時、煌めきだけを残して、姿が消えた。


「えっ」


 イプセミッシュにとって、これ以上の衝撃はないだろう。無論、知識のなさも要因だ。人化できる妖精は非常に珍しく、ごく高位の一部だけがそれを可能としている。


 人族と妖精族は、全く異質な存在であり、族の垣根を越えての変身は稀有けうでもあった。


「はじめまして、イプセミッシュ。立派になったわね」


 少し離れた円卓に、女の姿があった。優雅に腰かける女の何と清雅せいがなことか。


 黄金色こがねいろつややかな髪が腰まで伸びている。身体を包む衣装は、瑠璃色るりいろとでも言うべきか、室内を照らす光を受けるたびに、その色を変化させている。


 細くしなやかな手が、こちらへ来い、とイプセミッシュをいざなっている。髪と同色の瞳には、あらがえない魅力が秘められていた。


 言葉を失っているイプセミッシュが、呆然ぼうぜんと立ち尽くす。そんな彼を、後ろからつつくものがいた。ちょうど、ふくらはぎの辺り、何か柔らかいもので、幾度となく押してくる。早く前に進め、と言わんばかりだ。


「早く進みなさいよ。妖精王女様を待たせるなんて、ほんと、人族って、失礼なのばかりね」


 振り返ったイプセミッシュが固まっている。そこにいたのは人ではない。小鹿にも似た動物だった。ここにいるのだから妖精なのだろう。その不可思議な生物が、鼻面を突きつけている。


 栗色に近い見事な毛並み、頭部からは四本の細い角が伸び、背の方へ垂れ下がっている。左右一対の前脚と後脚は、四足歩行しそくほこうの動物と変わりないものの、全く異なる特徴が一つだけあった。四本の脚のつけ根部分、そこに羽がついているのだ。


 何より人族の言葉を話している。少女の声だった。


"Toioseb oprip eujistte kiir mniwu."


 妖精王女が言葉を発した。イプセミッシュと会話していた時の言語ではない。彼には、何を言ったのか全く分からない。形容しがたいほどに、心地よい響きでもあった。


 目の前の生物が、首を上下に振って、ゆっくりと歩み出す。


「私についてきて。案内してあげるから」

「あ、有り難うございます。お願いいたします」


 丁寧に頭を下げるイプセミッシュを、面白そうに見つめている。


「何か、無礼があったでしょうか」

「いえ、いいのよ。貴男のような人もいるのね。過去、ここにやって来た人とは違っているわね」


 なぜ、案内してあげる、と言ったのか、イプセミッシュは歩き始めて、ようやく理解した。


 目で見る限り、妖精王女が待つ円卓まで、最短距離にして十歩あるかないかだ。それは、まやかしにすぎない。彼女は、右に左にと曲がり、時には前に進み、また時には後ろに戻りと、複雑に進路を変えながら進んでいく。


 室内は見た目どおりではない。魔術によって、迷路化されているのだ。


「貴女が、案内人なのですね。聞いても、よろしいでしょうか」


 イプセミッシュの問いに、歩みを止めず、了承の返事だけを戻す。


「過去、ここにやって来た者で、妖精王女様に実際に会えた人間はどれぐらいいたのでしょう」

「百人もいないわ。そのうち、妖精王女様にお会いできたのは二十四人よ。そして、妖精王女様が願いをかなえたのは、わずか六人しかいないわ。貴男は七人目になれるかしらね」


 いったい何度目だろうか。イプセミッシュは愕然がくぜんとしながらも、願いをあきらめるつもりは一切なかった。

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