第086話:妖精王女の試練

 わずか十歩足らずに見えたものが、実際はその十倍以上も歩かされていた。


 ようやくにして、妖精王女のもとに辿たどり着いたイプセミッシュは、案内してくれた彼女に礼を送ると、無意識のうちにその細い首をでていた。


「ちょ、ちょっと」

「これは大変申し訳ございません。ついくせで。愛らしさのあまり、撫でてしまいました。不愉快にさせたのなら、謝罪いたします」


 鈴を転がすような笑い声が聞こえてくる。もちろん、声の出所は妖精王女その人だ。


「よかったわね、ヨルネジェア。貴女が、あの時の恐怖を少しでも克服できたとしたら、私も嬉しいわ」


 二人の会話に口を差しはさむ余地はない。あの時の恐怖が、何を指すかは分からない。聞いてはならないような気がした。イプセミッシュは沈黙を守り、やりとりが終わるのを待つ。


「君は優しいのね。彼女はね、ここを訪れた人族の手によって、大きな怪我を負ったのよ。それ以来というもの、私を除いて、誰にも触れさせなかったの。でも、君は違ったようね」


 イプセミッシュは、妖精王女の言葉に息をんだ。


「そ、それで、彼女を傷つけた、その者は」


 妖艶ようえんな笑みの中に、怒りの感情が含まれている。いかに妖精王女といえども、妖精を傷つけるという、まわしき行為を忘れるなどできないのだろう。


「もちろん、跡形もなく消し去ったわ。当然でしょう」


 同族の者として許せなかった。イプセミッシュは、ヨルネジェアのすぐそばかがみ込んだ。


「こんなにも愛らしい貴女を傷つけてしまったこと、人族として心より謝罪いたします。貴女への行為は、どのような理由であろうとも、決して許されるものではありません」


 イプセミッシュの真摯しんしな言葉と態度は、ヨルネジェアにも伝わったのだろう。下げられたままの頭に、鼻面で優しく触れる。


「もういいわよ、頭を上げなさいよ。貴族なのでしょう。いったい何度、頭を下げたら気が済むの」


 彼女の口調は至って柔らかい。怒りや恨みといった負の感情は全くなかった。


「貴族だから、こそです。この頭を下げることで許されるなら、私は何度でも下げますよ」


 イプセミッシュは迷いなく告げた。彼の力強い目を見て、ヨルネジェアは照れくさそうに視線をらせる。


「ほんと、変な人」


 その様子を見ていた妖精王女が、軽く右手を振った。ヨルネジェアの全身を、金色の光が包んでいく。


「イプセミッシュ、こちらに来て座りなさい。ヨルネジェア、貴女にも同席を許すわ」


 イプセミッシュの目は、ヨルネジェアに釘づけだ。妖精王女の力で人化した彼女に、心を奪われそうになっている。


 高身長のイプセミッシュに比べると、胸辺りまでしかない小柄な身体つきだ。妖精の年齢は全く分からない。見た目では十代半ばといったところか。


 美しい手足は触れると折れてしまいそうだ。栗色の髪は肩先に触れる程度で、何よりも、つぶらな栗色の瞳に吸い込まれてしまいそうになる。


 細い首を一回りしている傷だけが痛々しく、それさえも彼女の愛らしさをそこねることはできなかった。


「そんなに、じろじろと見ないで。恥ずかしいわ」


 人化に慣れていないヨルネジェアが、凝視しているイプセミッシュに抗議の声を上げる。


「二人とも座りなさい。君には、あまり時間も残されていないでしょう」


 いつの間にか、二人の椅子が用意されている。円卓には、それぞれの前にテアラモントが供されていた。湯気とともに、心を落ち着かせる豊かな香りが漂っている。


「まずは、テアラモントを飲んで心を静めなさい。そのうえで、君の願いを聞くとしましょう」


 たまらなく喉が渇いていたイプセミッシュは、すすめられるがままに、テアラモントをゆっくりと口に含んだ。温かい飲み物ながら、一瞬にして清涼感が全身に抜けていく。


「とても美味しいです。テアラモントと言うのですね。初めて飲みました」

「それはよかったわ。ヨルネジェア、貴女も遠慮しなくてよいのよ」


 あまりの緊張で、ヨルネジェアはそれどころではなかった。慣れない人化、そのうえ、すぐ横には人族の、しかも男が座っている。少し手を伸ばすだけで、触れられてしまう距離だ。


 笑みを見せる妖精王女の、悪意なき悪戯いたずらかと思えるほどだ。そう、妖精族は、少なからず誰もが悪戯好きなのだ。


「妖精王女様、先に質問する無礼をお許しください。これだけは確かめておきたくて。貴女が、記憶の魔女と呼ばれる御方であると考えてよろしいでしょうか」

「ええ。私が、貴方たちが言うところの記憶の魔女よ。この呼び名は、好きではないのだけど」


 全てを見透かすような金色の瞳が、イプセミッシュをとらえて離さない。イプセミッシュも、あえて逆らうような真似はしない。魔力がほとんどない己が、妖精王女にあがなえるとは到底思えない。


「君は、第一の試練を乗り越えてここに座っているわ。私が君の願いをかなえるためには、まだ二つの試練を乗り越えなければならない。君にできるかしら」


 イプセミッシュは覚悟を決めている。友のためにも乗り越える。首を一度だけ縦に振った。


「では、始めましょう。二つ目は簡単よ。君と君の親友ザガルドア、二人がこれまで歩んできた人生の全てを嘘偽りなく語ることよ」


 イプセミッシュも、ザガルドアに関して全てを知っているわけではない。だからこそ、妖精王女もその点は譲歩してくれた。知っている限り、ということだ。


「そのうえで、私が君たちの人生に何かしら感じ入ったら、三つ目の試練に挑めるわ。さあ、話しなさい」


 イプセミッシュは思案している。話すだけなら難しくない。


 三つ目の試練に進むためには、妖精王女を納得させるだけの言葉が必要になる。己の、ザガルドアの人生を語るうえで、そのようなものがあるだろうか。


 考えたところで最適な答えがあるわけではない。イプセミッシュは少し冷めたテアラモントを飲み干すとゆっくり口を開く。


 イプセミッシュはこれまでの人生を滔々とうとうと語った。ザガルドアの人生については、知らないことの方が多い。彼から聞いた、少しばかりの昔話、彼と出会ってからここに至るまでの出来事を包み隠さず、ありのままを言葉にするしかなかった。


 全て終えるまで、およそ二ハフブルを要していた。その間、妖精王女もヨルネジェアも一切口をはさまず、黙って聞き役に徹してくれていた。


 途中、妖精王女の魔術で、何度となくテアラモントが供され、そのたびにイプセミッシュは喉をうるおした。有り難い限りだった。


「君の人生は、およそ見てきたつもりだったのよ。やはり、本人の口から聞くのとでは大違いね。波乱万丈はらんばんじょうと呼ぶに相応ふさわしいわ。そうね。第二の試練も認めましょう。残すは、三つ目の試練ね。聞く気はあるかしら」


 即答だ。


「もちろんです」


 迷いは全て断ち切っている。どんな無理難題も乗り越えてみせる。


「覚悟はできているのね。最後、三つ目の試練は、君に支払ってもらう代償よ。記憶の封印には、相応の代償が必要なの。まずは、君の願いから先に聞くわ」


 代償に命を、と言われたら、イプセミッシュはそれを差し出すつもりだ。今の彼に怖いものはない。そして願いを告げる。


「本来、そこまでの封印を望むなら、命が代償になっても不思議ではないわ」


 以前の妖精王女なら、間違いなく命を代償に求めていただろう。イプセミッシュは己自身のためではなく、親友ザガルドアのために封印を望んでいる。


 妖精王女は、そこにこそ感銘を受けている。だからこその譲歩でもある。


「私も甘くなったのかしらね。君の命の代わりに、君の人生の一部をいただくわ。それが三つ目の試練よ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る