第075話:恐怖心との戦い

 ソリュダリアの猛攻が続いている。二人が手にしているのは、やいばのない模造剣だった。


 普段の稽古けいこでは木剣を使用する。今、二人は剣身がはがねの剣で相対していた。刃はなくとも、はがねなのだ。当たれば怪我けがは避けられないし、場所が悪ければ致命傷にもつながりかねない。


 緊張の中での打ち合いだ。いや、セレネイアの防戦一方という状況だった。


「ソリュダリア、手を休めるな。ほら、お姫様、防戦一方ではないか。反撃してみろ」


 着座したままのヨセミナが、二人に指導の言葉を投げかける。


 結局のところ、セレネイアの決心は変わらず、ヨセミナも無理強むりじいはしなかった。妥協する形で今の形、直接の稽古はソリュダリアとセレネイアが行い、それを指南するのがヨセミナという役割に落ち着いた。


 ここでもせない出来事があった。ヴォルトゥーノ流現継承者たるヨセミナが真正面、最も高くなっている位置に着座しなかったのだ。


 稽古が始まる前に、セレネイアがソリュダリアに理由をたずねる。


「師匠、ヨセミナ様はなぜ真正面、最上位に着座されないのでしょうか」


 ソリュダリアにしても、明確な回答は持ち合わせていない。語るべきことは何もなかった。


 三大流派に上下関係はない。ツクミナーロ、ビスディニア、ヴォルトゥーノは同格だ。ヴォルトゥーノの頂点たるヨセミナ以外、着座するに相応ふさわしい者がいるとは思えない。


 普段の稽古時には、ソリュダリアが真正面に着座している。従って、常に真正面を空席のままにしている、というわけでもない。


「ヨセミナ様のなさることだ。私にも分からぬよ」


 打ち合いを始めて、およそ十メレビル、身体中に痛みを感じているセレネイアは息が上がっている。ソリュダリアの攻めも、彼女をおもんばかってか、容赦のないように見えて、どことなく手加減してしまっている。それを見過ごすヨセミナではない。


「ソリュダリア、手加減無用だ。手加減など、お姫様に失礼であろう。容赦なく叩きのめせ。できぬのなら、今すぐ私と代わるか」

「師匠、遠慮はりません」


 セレネイアの言葉を受けたソリュダリアが、無言のままにすさまじい速度で剣を突き出す。無駄な力は一切乗っていない。道場にゆるやかに流れる風に乗っているのだ。


 決して魔術ではない。自然に全てを委ねた、カヴィアーデの真骨頂しんこっちょうがここにある。


 剣はセレネイアの心臓に向かって、一直線に伸びてくる。ソリュダリアは心の中で、うまくけろと念じていた。


 セレネイアは剣を合わせようとせず、それどころか左脚を引きつつ、即座に下ろした。ソリュダリアの剣の勢いは殺せない。自分の剣がはじき飛ばされるだけだ。セレネイアは一瞬で判断した。


 それに剣を合わせていくだけの余力もない。身体の節々が痛みで悲鳴を上げている。セレネイアは、だからこそ最も力のらない楽な方法、わずかに方向移動のみを行ったのだ。


 左脚を引くとともに、ソリュダリアの剣の速度に逆らわず、添うようにして身体を半回転させた。ちょうど剣の軌道と身体が平行になる形だ。


「よし、そこまでだ。両者、剣を引いて、もとの位置に戻れ」


 ヨセミナの声が道場に響き渡った。ふらふらになっているセレネイアを、ソリュダリアが左手一本で支える。


「大丈夫か、セレネイア」

「は、はい、師匠。申し訳ございません。一人で、大丈夫です」


 手を離した途端、倒れ込みそうになったセレネイアをソリュダリアが慌てて抱き止める。


 同時に、風が来た。二人は、たちまちのうちに道場脇まで吹き飛ばされていた。


「ここは、お前のような無粋ぶすいな奴が来るところではない。神聖な道場を何と心得こころえる」


 先ほどまで、二人が立っていた位置にヨセミナの姿がある。右手に握った剣をぎ払い、美しい剣姿けんしを保っている。


 足元には、左腕が落ちていた。ひじから下、見事なまでの鮮やかな切り口で、血の一滴もこぼれていない。その代わりに、大量の粘性液体が道場の床を汚している。


 腕がなくなった程度では何も感じないのか、平然と立ったまま、顔だけを左にねじる。ゆっくりと獲物に視線を合わせていく。


「いや、いや、来ないで」


 セレネイアは恐怖から必死に逃れようと後退あとずさりしている。既に背が壁についていることにさえ、気づいていないのか。なおも後退を試みているのだ。


 まるで天敵を前にした小動物のようなセレネイアを見て、ソリュダリアはようやくにして彼女の恐怖の要因を知るのだ。


(セレネイアの心を縛る恐怖、その正体はこれだったのか)


 セレネイアをいっそう強く抱き締める。


「ソリュダリア、お姫様を立たせてここに連れてこい。今すぐだ。反論は一切許さぬ」

「師父、それは、あまりにも」


 思わず言葉を返してしまうソリュダリアに対し、ヨセミナは冷酷に告げた。


「二度、言わせるつもりか」


(本当に恨みますからね。あの者に任せておけばよかったではありませんか。とんだ貧乏くじを引いてしまいましたよ。これが終わったら、たっぷりお礼をしてもらいますからね、大師父様)


「余計な手出しは無用に願いたい。ここは、私に任せてもらおう」


≪承知ですよ、ヨセミナ殿。私は見ているだけなので、お気になさらずに≫


 薙ぎ払った剣が戻る。今度は、左腕の肩から先が落ちていた。目にも止まらない速度をもって、ヨセミナは目の前に立つ物体をきざんでいく。


 そう、魔霊鬼ペリノデュエズという名の汚物おぶつを。


 ヨセミナの前では、魔霊鬼ペリノデュエズなど鈍重どんじゅうそのものだ。いくら攻撃力が高かろうとも、当たらなければ意味をなさない。


 ヨセミナは自然体だ。魔霊鬼ペリノデュエズが無造作に振り回してくる腕や脚の攻撃を、最低限の動きをもって完璧にかわしている。


低位メザディムごときが、私の前に立つなど片腹痛いわ。再生もできぬほどに斬り刻み、めっしてやろう」


 言葉をつむぐ間も、剣は止まらない。風になって舞い続ける剣は、既に右腕を細切こまぎれにし、さらには両脚のひざから下をも切断していた。


 そのたびに、大量の粘性液体を床にき散らしていく。周囲で塗れていないところを探す方が難しくなっている。


 三メルクほどの高さがあった身体は、両手足を切り裂かれ、二メルクを切るぐらいの大きさになっている。横にも膨らんでいた身体は、保護のための粘性液体を失い、もはや維持が困難になってきていた。


 ヨセミナの言葉は絶対だ。逆らえないソリュダリアは、セレネイアを強引にかついで、ヨセミナの背後に控えている。ソリュダリアは、ヨセミナの剣閃けんせん一筋、一筋を必死に追い続けていた。


「こんな雑魚ざこ、弱すぎて面白みも何もない。さて、お姫様、出番だぞ。これを貸してやる。見事、始末してみせろ」


 ようやく剣を引いたヨセミナは、左肩の方向に剣身を持ち上げると、右斜め下に向けて振りきった。いわゆる血振ちぶりだ。この場合、血ではなく、魔霊鬼の粘性液体だ。


 血振りを終えた剣を、ソリュダリアに向かって無造作に放り投げる。ソリュダリアが空中でつかつかむ。


「セレネイア、心を強く持ちなさい。恐怖に打ち勝てるのは己自身よ。剣を構えなさい」


 ソリュダリアはセレネイアに剣を握らせ、自身の右手をセレネイアのそれに重ねた。


「私の気も持っていきなさい」


 セレネイアの背後に回って、魔霊鬼ペリノデュエズを仕留めるまで支えるつもりなのだ。


「お姫様、目を見開いて、よく見ろ。胴体の中央部、やや右上だ。双三角錐の黒の物質が見えるな。奴の核だ。その剣をもって破壊しろ」


 ヨセミナは、それだけ告げると、二人の後方に下がった。自分の役割はここまでということだ。


 低位メザディムは既に肉塊にくかい、いや液体塊に過ぎない。それでも、その目だけはにごった光を帯び、獲物であるセレネイアを凝視していた。


 動かせるのは、もはや体内を巡る粘性液体のみ、身体の崩壊と引き替えにセレネイアに全てを浴びせて、取り込む算段なのだ。


「最後の足掻あがきだ。気をつけろ」


 ヨセミナの声を受けて、ソリュダリアがうなずく。セレネイアはいまだ恐怖心から身体が強張こわばったままだ。これでは、カヴィアーデの剣技を活かすどころではない。


「セレネイア、目を閉じて深呼吸よ。全身に気を送り込みなさい」


 言われるがままに、セレネイアは深呼吸を繰り返す。心を落ち着かせるための彼女のくせだったはずだ。それを、今の今まで忘れていたとは。


 セレネイアは、ここにきて少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。そして、ゆっくりと瞳を閉じた。

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