第072話:セレネイアとカランダイオ
セレネイアは無視して数歩進んだものの、どこからどう見ても常習犯の手口だろう。このまま黙って見過ごすわけにもいかない。
仕方なく立ち止まると、男たちの方へ振り返った。
「おい、大丈夫か。ああ、骨が折れてしまっているな。これは大変だ。そこの女、どうしてくれるんだ。私の家臣が大怪我を負ってしまったではないか。この責任をどう取るつもりだ」
真ん中で腕組みしながら立つ男が、堂々と
それでも、セレネイアは正面から向き合った。
「それは言いがかりというものです。確かに、すれ違いざまに
引っかかったとばかりに、男は
「女、触れたことを認めたな。
男の浮かべた気持ちの悪い笑みから、何を言っているかは明白だ。その意味を決して取り違えることはない。
「
セレネイアは静かな怒りを内に秘めつつ、まずは男の話を聞いてから最終判断を下すことにした。
「簡単なことだ。私は貴族だ。これまで数多くの女と夜を共にしてきた。それらの女が発する特有の
男の声はそこで途切れた。
セレネイアは無意識下で男に向かって突進していた。男との距離は
詰め寄ること一歩間、セレネイアは
「貴男には、貴族としての教育が必要ですね」
セレネイアが剣を振り下ろす。
これこそが三大流派の一つ、ヴォルトゥーノの下位流派筆頭カヴィアーデの剣術なのだ。柔の剣術、剣から無駄な力を一切排除し、流れるままに
弾力のない鋼が、まるでしなったように見える。その動きは水が流れるがごとく、風が吹くがごとく、あるがままの自然に通じている。
切っ先が、男の
「次は、
声も出せないのか、男は尻もち状態のまま、しきりに首を上下に振るばかりだ。
セレネイアは切っ先を返して
その瞬間、男の顔が
「私を馬鹿にする奴は、誰であろうと許さんぞ」
「愚かなことを」
残るもう一人の男が、何か仕かけてくるだろうことは容易に想像できていた。そのとおりになったことで、セレネイアは落胆の色を隠せない。
貴族ともあろう者が、このような
「カランダイオ、くれぐれも手加減をお願いいたしますね」
セレネイアの
セレネイアに向けて魔術を放とうとしていた男の目前に、火炎壁が立ち上がった。
男の魔術は既に
セレネイアを襲うはずの風の
自ら放った魔術の刃を浴び、男は泣き叫んでいる。魔術の恐ろしさをまさに肌身で感じたのだ。よい教訓になっただろう。
「やれやれですね。こんな馬鹿どもの相手をすることになろうとは」
カランダイオは、尻もちをついたまま動こうともしない主犯格の男に、背後から近づく。おもむろに首根っこを
「黙って質問に答えれば命だけは助けてやろう。質問の答え以外のことや、今のような絶叫を上げた瞬間、命はないと思え」
頭を真下にして空中で静止状態の男は、顔面蒼白となってひたすら
カランダイオの問いは三点だ。家名、自身の行為について親が知っているか
全てを聞き出し、嘘偽りのないことを確認したカランダイオが、逆さ
「
そろそろ、頭に血が上がって危険な状態だろう。カランダイオは、無造作に右手を払いのける。男の身体が半回転、そのまま地面に落下した。
またもや、尻もちをついたまま、あまりの痛さにうずくまっている。先ほどとは違い、およそ一メルク近い高さからふいに落とされたのだ。
「そこのお前たち、この馬鹿を連れて早々に去れ。私は今、猛烈に機嫌が悪い。これ以上、無駄な時間をかけようものなら、ここで処分するぞ」
カランダイオのひと
「カランダイオ、有り難うございました。少々やりすぎではありませんか」
男たちの様子をしばし眺めていたカランダイオだった。セレネイアの声に視線を戻す。
「十分すぎるぐらいに手加減していますよ。私としては、あの程度で済んだことを感謝してほしいところです。それよりも、一人で出歩くなと言っておいたはずです」
セレネイアは、ここでようやく頭に
「ごめんなさい、カランダイオ。居ても立っても居られず、貴男にも迷惑をかけていますね。私を見守ってくださっていたのでしょう。王宮を出る時からずっと、私にさえ分かるようについてきてくれていましたね」
頭を下げてくるセレネイアにカランダイオは何も言えなかった。言うつもりもなかった。
主たるレスティーから、気に
そうは言っても、レスティーの言葉だ。実質的に、カランダイオにとっては命令にも等しいだろう。だからこそ、セレネイアが王宮を抜けて、従者も連れずに一人で街に行くことを察知、すぐさま後を追ってきたのだ。
「全く貴女は、自身の立場を分かっているのですか」
セレネイアに対し、ここまで対等に意見や文句を言える人間は、国王でもあり父でもあるイオニアを除けば、
セレネイアが口を開こうとしたその時、小さな女の子が
八枚花弁の大振りの花で、鮮やかな
「姫様、これ、差し上げます」
「あら、この美しい花を私に。有り難う、とても嬉しいわ。貴女のお名前は」
セレネイアは服が汚れることも気にせず、少女の目線までしゃがみ込む。少女の手から花を直接受け取る。
「ミレッタです。姫様、大好きです」
恥ずかしそうにしているミレッタの頭を
「ひ、姫様、うちの娘がとんでもないことを。ちょっと目を離した
平身低頭、ひたすら謝罪を続ける母親を見て、セレネイアは自分にもこんな時があったなと感慨深く昔を思い出していた。
「ミレッタがこの花を私にくれたのですよ。とても美しい大輪ですね。これは何という花名ですか」
ミレッタが母親の手を握りながら、その顔を見上げている。恐縮しきりの母親が答える。
「姫様、その花はサイネレイア、またはセネレリアとも呼ばれています。今の時期、最も美しく咲き誇ります。ちょうど花農家の知人からもらってきたばかりでした。そうですか、娘が姫様に。そう言えば、花名が姫様のお名前によく似ておられますね」
セレネイアは、ミレッタの顔と花を交互に見つめながら花名を口にする。
「サイネレイア、セネレリア、セレネイア、確かによく似ていますね、ふふ」
微笑を浮かべるセレネイアに誰もが魅了されている。カランダイオはまたも不覚を取りそうになっていた。
(本当にこの娘ときたら。困ったものですね)
「姫様、大変です。お
「小さなミレッタが大変な思いをして私を見上げるよりも、私がしゃがむ方がよいではありませんか。服が汚れるぐらい何でもありません」
セレネイアは、ミレッタとの出会いをきっかけに何かを見つけたような、また見えたような気がしていた。
「少し人が集まりすぎたようですね。そろそろ行かなければ。ミレッタ、このサイネレイア、大切にするわね。また会いましょう」
「姫様、さようなら」
ミレッタが小さな手を振って見送る。手を振り返すセレネイアの姿が、ゆっくりと大気に溶け込んでいく。
もちろん、カランダイオの
ミレッタは、セレネイアの姿が完全に見えなくなるまで手を振り続けていた。
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