第070話:フィヌソワロの男

 レスティーが発動した魔術転移先は、ラナージットがいる小屋の中だった。一度訪れた場所であれば、周囲に結界があろうがなかろうが問題なく転移できるのだ。


 ラナージットの嬉しそうな声が脳裏に伝わってくる。


≪お帰りなさい。あの時のお姉さんもご一緒なのですね。機会があれば、ぜひお話したいと思っていました≫

≪ラナージット、私たちが再びここに戻ってくることがよく分かったな≫


 伏し目がちにラナージットが答える。その表情にはどこか寂しさがにじんでいた。


≪私には、分かりませんでした。でも、私の中のこの子が。とても喜んでいます≫


 ディリニッツは複雑な思いを抱えつつも、力強く告げた。


≪お前を傷つけた奴は、この俺が必ず見つけ出して始末する≫

≪もういいんです。それに、私をこんな目にわせた男はあの人が≫


 突然だった。


 ラナージットは両手で身体を抱いたまま、心の中で絶叫を上げた。あの時のいままわしき記憶が、ふとしたきっかけでよみがえる。それがラナージットをさいなみ続けているのだ。


 余りに悲痛な声の直撃を受けて、ディリニッツは全く動けなかった。


 いつの間に目覚めたのか。代わりに動いたのはヴェレージャだった。ラナージットにけ寄ると、すぐさま彼女を力強く抱き締める。


 泣きわめく子供をあやすように、右手で背中を一定間隔で軽く叩きながら、左手で優しく頭をで続ける。


≪大丈夫、大丈夫よ。貴女には私たちがついているから。何も心配することはないわ≫


 魔操人形トルマテージェがヴェレージャのかたわらに控えている。彼女は即座に思念を送り込んだ。


「ヴェレージャ、何をする」


 ディリニッツの声をヴェレージャは自身のくちびるに指を当てることで封じた。魔装人形トルマテージェが魔術を発動、空中にエルフ文字が描き出されていく。


 詠唱は何も声によるものとは限らない。主物質界の魔術師たちは、魔術行使に必要不可欠な詠唱という最大の欠点を補うため、様々な方法を長い時間をかけて考え出してきたのだ。


 短節詠唱もその一つだった。他にも魔術巻物や羊皮紙への詠唱転写、魔宝具などへの魔術保存が該当する。


 ヴェレージャが用いた魔術は、あらかじめ魔操人形トルマテージェに仕込んでいた幾種類かの魔術から、特定の動作をもって呼び出すものだ。


 【カヴァ】【オトロ】【ラダ】【ナーダ】【グルイェ】の五つのエルフ文字が順に並び、銀色にいろどられていく。それらがゆっくりとラナージットに降り注いだ。


忘却ぼうきゃくの内に眠りなさい≫


 ヴェレージャの魔術は速やかな効果をもたらした。銀色の光が浸透し、ラナージットのまぶたが次第に落ちていく。


「ごめんね、ラナージット。本当は魔術など使いたくないのよ」


 涙の糸を指でぬぐいながら、ヴェレージャは今一度ラナージットを抱き締めた。そのまま静かに寝かせると、下半身を覆っている敷布を胸元まで引き上げる。


「助かった、ヴェレージャ。感謝する。このとおりだ」


 深々と頭を下げてくるディリニッツに対し、ヴェレージャはただ首を横に振るだけだった。


「貴男のためにやったわけではないわ。礼など不要よ。ラナージットがあまりに可哀想かわいそうだから。私にもこの子と同じくらいの妹がいるの。妹が同じような目にったとしたら、私はその者を必ず見つけ出し、この手で始末するわ。迷わずにね」


 一瞬、寂しそうな表情を浮かべたヴェレージャだった。すぐに消し去ると、その場でひざまずく。


「そのお姿にして他を圧倒する強さ、レスティー様にございますね。お初にお目にかかります。私は十二将序列三位にして水騎兵団を預かるヴェレージャと申します。フィヌソワロの出身でもあります」


 なぜ知っているのか聞く必要もない。彼女は出身の里を答えている。言うまでもなく、エレニディールと同郷だ。


「あの時、ディリニッツの影よりレスティー様が突然現れた時には、心臓が止まるかと思ったほどです」


 レスティーも同様に片膝をつけると、ヴェレージャの右手を下から重ね取って立ち上がった。


 重力を完全に無視した動きだ。力任せに引き上げたわけではない。風がヴェレージャの身体を包み、羽のように軽々と持ち上げたのだ。


 ヴェレージャは重ねられた自分の手を見て硬直、即座に手を引っ込め、あまつさえ身体の後ろに隠してしまった。その様子を見ていたディリニッツが笑いをかみ殺している。


「な、何ですか、ディリニッツ。しっかり笑っていますよね、ええ、間違いなく、笑いましたね」

「いや、悪い。しかし、お前、本当に相変わらずだな。そういうところ、昔から変わっていないようで何だか安心した」


 指摘が図星だったからか、ヴェレージャははぐらかすようにディリニッツから視線を外した。すかさず話題を変える。


「風の精霊ですね。行使したことさえ気づき」


 いつものごとく、言葉は最後まで続かなかった。ヴェレージャがヴェレージャたる所以ゆえんであろう。


 レスティーに相対しようと身体ごと動き出した途端、なぜか足がもつれていた。態勢を立て直そうとする前に、重力に負けてそのままあお向けで倒れていく。


「あっ」


 声がれるも既に遅し。こんな無様なところを、そう思ったところで、彼女の身体は傾いたまま静止していた。またもや風の精霊が彼女の背を押し戻すように動き、同時にレスティーの左手が細すぎる腰に回されていた。


「もう少し落ち着いて行動する方がよいのではないか」

「も、申し訳、あ」


 抱え上げられたヴェレージャとレスティーはほぼ密着状態だ。その態勢のまま勢いよく頭を下げたものだから、当然ヴェレージャは自分の頭をレスティーの胸に打ちつけることになる。


 一方的に痛がっているのがヴェレージャで、レスティーは何もなかったかのごとく平然としたままだ。


 レスティーは腰に回していた左手を外すと、一歩後退した。


「重ね重ね、大変申し訳ございません」


 レスティーが後退したことで、二人の間には適切な空間が保たれている。


「おい、ヴェレージャ。そんなに顔を真っ赤にして何をしている。お前、里には許嫁いいなずけがいただろう」

「う、うるさいですよ、ディリニッツ。許嫁と言っても、私がまだ小さかった頃に互いの親同士が決めたものです。私の意思は介在していません。そもそも、手も握ったことのない相手を許嫁と呼べるでしょうか」


 ディリニッツは、逆に問われ、たちどころに返答にきゅうする。正直な気持ちはこうだ。


(そんなこと知るかよ。お前が、それでも許嫁と思えばそうだろうし、逆もまたしかりだろう。私なら絶対あり得ないがな)


 口にすることはとてもできそうにない。この話題は避けておこう。ディリニッツは早々に切り替えるため、別の問いを投げかけた。


「ヴェレージャ、今からお前の脳裏にある映像を投影する。心当たりがあるなら、ぜひ教えてほしい。こいつだ」


 レスティーから、この件については思うようにしてよい、というお墨つきをもらっている。だからこそ、レスティーをわずらわせることなく、己の判断でヴェレージャに見せたのだ。


「え、何、これ。それに、どうしてこの男の映像が」

「知っているのか」


 ディリニッツが一瞬にしてヴェレージャとの間合いを詰める。今すぐに知っている情報を寄越よこせという顔をしている。


 ヴェレージャは急な接近に顔をしかめ、まずはディリニッツを落ち着かせる。


「ちょっと落ち着きなさい、ディリニッツ。もちろん、知っているわよ。同郷の者だもの。でも、この男がどうかしたの」

「フィヌソワロの者なのか。道理で見た記憶があるはずだ。それで、こいつはいったい誰なのだ。どんな奴なのだ。知っている限りの全てを今すぐ教えてくれ」


 いつもと全く異なる表情を見せるディリニッツが気になった。ヴェレージャも真剣な眼差しを向けざるを得ない。


「冷静沈着こそが信条の貴男がいったいどうしたというの。その説明は後から聞くとして。ええ、この男は私の許嫁」

「お前の、許嫁なのか」


 ディリニッツからすさまじいばかりの殺気が一気にあふれ出す。まるで、目の前に立つヴェレージャを敵と認め、今にも襲いかからんばかりの濃密さをまとっている。


「ちょっと、いい加減にしなさい。私は貴男の敵ではないし、人の話はきちんと最後まで聞くものよ」


 ヴェレージャは、あえて冷静な口調をもってディリニッツをたしなめる。二人のやり取りを見守るレスティーは、一切口を差しはさまない。ディリニッツに任すと言った以上、傍観者に徹するのみだ。


「ああ、済まない。こんなに早く手がかりが見つかるとは思わず、つい勢い込んでしまった。冷静さを欠いてしまったこと、改めて謝罪する」


 素直に頭を下げてくるディリニッツを見て、ヴェレージャはため息をつくのだった。その顔はまるで世話のかかる弟ね、と言っているようにも見えた。

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