第065話:ラナージットの傷

 レスティーの姿はゼンディニア王国にあった。十二将のディリニッツと共にだ。


 キィリイェーロとトゥルデューロをシュリシェヒリに魔術転移で送った後、再び速やかに発動、今に至る。


「ラナージットはあの小屋の中に。目覚めてからというもの、いまだ一歩も外に出ることなく過ごしております」


 レスティーから一歩下がった位置、片膝をついたディリニッツが答える。レスティーに対する畏怖いふの念か、それともイプセミッシュに対する常日頃つねひごろからの姿勢からか。いずれにせよ、遠慮している様子がうかがえた。


「そなたは、あの娘と旧知なのか。それに面白いものが娘のそばに控えている」

「私はラナージットの顔を知っていますが、彼女はまだ幼かったゆえ、私を知らないでしょう。傍にいるのはヴェレージャの魔操人形でございます。パレデュカル不在の間、ラナージットをいやすために置いていったようです」


 ディリニッツの言葉を受けて、レスティーはおもむろに歩を進めた。


 小屋の周囲には、パレデュカルによって侵入防止の結界が張り巡らされている。破るだけなら難しくもないだろう。


 破ったという痕跡こんせきは確実に残る。それを知ったパレデュカルが、どのような行動を取るか。考えるまでもなかった。


 ディリニッツが逡巡しゅんじゅんしているうちに、レスティーは既に結界に手をかけている。


「そなたも。案ずるな。痕跡など一切残しはしない」


 シュリシェヒリの結界と異なり、パレデュカルの結界は異質な存在の侵入をはばんでいる。レスティーの添えた右手を確かに押し返しているからだ。


「レスティー様、このままでは結界が破れます」

「魔力同調を知らぬのか。今、私がているのは、結界を構成している魔力の流れのみだ。その魔力と私の魔力を同調すれば、結界を破壊せずとも侵入可能だ」


 そのとおりになった。


 結界を一切損することなく、人が十分に通り抜けられる程度の穴が広がっている。


「このようなことが。レスティー様、魔力同調なるもの、初めて知りました。私にもできるものでしょうか」

「エルフ属は魔力の扱いにけている。慣れるまで訓練が必要だが、そなたなら問題なくできるようになるだろう」


 二人が通り抜けた途端、結界にできた穴がふさがっていく。


 パレデュカルがこの場にいたなら、気づけたかもしれない。少しでも距離を置いていたなら、決してとらえられない。それほどまでにわずかの間の異変だった。


 ディリニッツがレスティーに断りを入れてから扉に手をかける。


 小屋の内部は、三つの部屋で仕切られている。仕切るといっても、頑丈がんじょうな壁でへだてられているわけではない。薄い簡易な仕切り板で、便宜べんぎ的に区切った程度だ。


 扉を開けた正面中央部が、いわゆる居間と食事処を兼ねた最も大きな部屋で、その両隣が寝室といったところか。


 人の気配は右手の部屋から感じられた。中央と左手の部屋には柔らかな日差しが差し込み、ある程度の光量が確保されている。対して、右手の部屋は薄暗いままだ。


 ディリニッツが音もなく近づいていく。さすがに十二将にして、隠密兵団団長だ。こういったことはお手のものだろう。


「ラナージット、シュリシェヒリの者だ」


 まずは、安心してもらうことが肝要だ。


 ディリニッツは具体的に彼女の名前を、そして同郷の者だというあかしに里の名前を告げた。もちろん、会話はエルフ語だ。


 一瞬、ラナージットが反応したように見えた。この薄暗さでも目のよいエルフにとっては十分だった。


「ラナージット、どうか安心してくれ。お前の両親、トゥルデューロとプルシェヴィアもひたすらお前の帰りを待っている。そちらに近づいても構わないか」


 ラナージットの身体が大きくねた。両親の名前を聞いた喜びからか、あるいはディリニッツが近づくと言ったことへの恐ろしさからか。


 ディリニッツは背後にいるレスティーを振り返り、指示を仰ぐ。


≪そなただけそばへ行ってくれぬか。ゆっくりと、一歩ずつだ。彼女はヒューマン属を相当に恐れている。私が近寄れば、彼女は再びからに閉じこもってしまうだろう。最悪、壊れてしまうかもしれない。それだけはけねばならない≫

≪承知いたしました、レスティー様。それでは私が近づいてみます≫


「ラナージット、今から一歩ずつ、お前のそばへ近寄っていく。これ以上、近づいてほしくないとなったら、何でもよい。合図を出してくれ」


 ラナージットは、ディリニッツの方に向かって視線を固定したままかすかにうなづいた。目線は合っていなくとも、よい兆候には違いない。ラナージットの目には、ディリニッツが悪人だと映らなかったのだ。


 ディリニッツは音を立てずに、最初の一歩を進めた。しばし立ち止まり、ラナージットの様子をじっと観察する。そして、また次の一歩を同様に踏み出した。


 繰り返すこと五度、そこで初めてラナージットから反応が返ってきた。右手を弱々しく前方に突き出し、こちらに向けていた顔をそむけている。


「ラナージット、有り難う。これ以上は決して近づかない。約束する。だから、こちらに目を向けてくれないか。お前と話がしたい」


 ディリニッツはその場にしゃがみ込んだ。ラナージットよりも視線を低くすることで、彼女を安心させるためだ。


 彼女はひざを抱えて座り込んでいる。下半身は麻の敷布で覆われている。身体の傷は、ある一部を除いて、癒されているはずだ。わずかのぬくもりも逃したくないということか。ディリニッツには分からなかった。


「ラナージット、お前をシュリシェヒリに連れて帰りたい。里に戻りたい気持ちは、両親に再び会いたい気持ちは、あるか」


 ラナージットは思わず声を上げたくなった。それはかなわない。苦しそうに両手でのどを押さえ、涙をこらえている。目覚めて以来、パレデュカルのいないところで何度も試してきたのだ。


≪今の状態では、声は出せないだろう。直接、彼女の心に言葉を投げかけてくれないか。私の声は、そなただけに聞こえるようにしておくゆえ、心配は無用だ≫


 ディリニッツは心の中で頷くと、今度は口からの言葉ではなく、ラナージットの心に直接語りかけた。


≪ラナージット、無理はするな。今は口にする必要はない。お前もエルフ属、私と同じようにできよう。まずは伝えたい言葉を心に浮かべるのだ。それを言葉を発するのと同じように、私に向けて手放してくれ。そうすれば、きっと伝わる≫


 ラナージットは訳が分からないまま、ディリニッツに言われたとおり、心に言葉を浮かべた。ゆっくりと、慎重に、それをディリニッツに向けてみる。


≪あ、貴男は、誰、ですか。両親を、知っているのですか≫


 たどたどしいものの、ラナージットの思いがしっかりと伝わってくる。彼女の視線は力強さはないものの、ディリニッツに向けられている。


≪俺はディリニッツだ。シュリシェヒリの長老の命を受け、お前の護衛を務めている。お前を直接救出したパレデュカルが表の存在なら、俺は裏の存在だ。トゥルデューロとプルシェヴィアは、もちろん知っている。両親はもちろん、里の者がお前の帰りを待ちびている≫


 ラナージットにとって、それがどれほどまでに嬉しい言葉であったか。奴隷としてとらわれて以来、心を閉ざし、とうに忘れてしまっていた笑みをようやくにして思い出したか。彼女は微笑びしょうをもって、ディリニッツに答えた。


≪私、ようやく、シュリシェヒリに、帰ることが、できるのですね。両親に、会えるのですね≫

≪そうとも。だが、その前にやることがある。ラナージット、何よりもお前自身が生きようとする力を取り戻さねばならない。肉体的にも、精神的にもな。できるか≫


 視線を下に落としてしまったラナージットを心配して、ディリニッツが問いかける。


≪心配事でもあるのか≫

≪唯一、癒されなかったという心臓の真上の傷、それが今どうなっているか。尋ねてもらえるか≫


 レスティーの声を受けて、ディリニッツがつけ加える。


≪ラナージット、心臓の真上の傷がどうなっているか、教えてくれ≫


 ラナージットは何を思ったか、ゆっくりとした動作で肩から羽織はおっている上着を脱いだ。その下には淡い緑の上着を身につけている。首元から胸元が開き気味で、同色の紐によって交差上に結ばれている。ラナージットは、その紐さえもほどき始めた。


「待て、ラナージット。いったい何をするつもりだ」


 慌てたせいか、ディリニッツは思わず口から言葉を発していた。ラナージットは真剣な表情で告げた。


≪こうでも、しないと、傷が、見えません。それに、貴男の後ろに、いらっしゃる方にも、です≫


 きょかれたディリニッツが、咄嗟とっさに背後を振り返る。まさか、姿が見える位置に立っていたのだろうか。レスティーに限って、それはあり得ないと思いつつだ。


≪あ、私からは、えていません。でも、私の中に、いる、何かが、教えて、くれるのです≫

≪やはり、視えていたか≫


 レスティーは姿を見せると、ゆっくりとした足取りで、ディリニッツのすぐ傍にまで近づいた。


≪ラナージット、はじめまして。レスティーだ。そなたから見れば、私はヒューマン属であろう。それゆえ、そなたの前に出るのを控えていた。そなたの心を害するつもりはないが、抵抗があるなら姿を見せないようにしよう≫


 レスティーの言葉に対して、ラナージットはゆるりと首を横に振った。


≪貴男は、いえ、それよりも、私の中の、この子が、とても、喜んでいます。こんなこと、初めてです≫

≪そなたさえよければ、そなたの中にいるものと話がしたい。構わぬか≫

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