第022話:苦境のセレネイア
クルシュヴィックの両腕が、
浮いた状態の右手人差し指が握られようとしたその気配のみを察して、セレネイアは何よりも早く動いた。
余談だが、武術の達人、それも最上位ともなれば
狙うは右脇腹から左肩へと抜ける軌道、すなわち
先の先は取った。声はない。ただただ深い呼吸を繰り返す。
刹那の後だ。
最上段に移行したクルシュヴィックの剣が、セレネイアの頭上へと落ちてくる。
セレネイアは
速さで上回った。
間違いなくクルシュヴィックを
ラ=ファンデアが紙のごとく、軽々と肉を裂き、さらに
それでもなお、カヴィデーレ流の剣術では必殺には及ばない。倒せるとも思っていなかった。事実、クルシュヴィックは倒れなかった。
振り下ろしきれなかった剣を離さず、血が噴き出すのもお構いなしだ。顔色一つ変えず堂々と立っている。
セレネイアは斬った勢いを反動に変え、すぐさま剣の間合いから離れる。三歩後退、もとの位置に戻った。
手を叩く音が聞こえてくる。クルシュヴィックが平然と拍手を送っていた。
「これは想像以上ですね。
クルシュヴィックにはそれだけの余裕があった。
彼自身が言ったように、その血の色は赤だけではない。暗く濃い緑が混じっている。割合としては半々ぐらいか。
地面を濡らす赤はそのまま染み込んでいくものの、緑は異臭を伴った蒸気を発している。何とも異常な光景だった。
ラ=ファンデアに斬られた傷口は決して自然治癒しない。
今、クルシュヴィックの傷が勢いよく治りつつある。断ち斬られた
「クルシュヴィック、人としての生を放棄しましたか」
「どうでしょうね。さて姫様、少し遊んでみましょうか。次は私から行きますよ」
あまりに
クルシュヴィックはすぐ背後に立つウーリッヒの胸ぐらを左手一本で軽々と
「団長、助けてください」
ウーリッヒの懇願が突き刺さる。セレネイアはウーリッヒの目を見てしまった。それが
クルシュヴィックには、斬っても構わないと自ら告げた。いざ己が斬るとなった途端、判断に遅れが生じてしまった。
致命的ともいえる
「残念ですな。もし、ウーリッヒを迷いもなく斬り捨てていたならば、姫様にも勝ち目はあったでしょうに」
セレネイアはウーリッヒが操り人形と化している事実を知らない。だからこそ、斬れなかった。気づいた時には、ウーリッヒの身体を真正面から受け止めていた。
守るべき隊員だからという理由だけではない。
セレネイアは、自ら振るう剣で一度も人の命を奪ったことがないのだ。
「以前にも申し上げましたね。それが姫様の最大の欠点なのです。人を斬らずしては、決して強くなれませんよ」
クルシュヴィックの剣から黒い
(せめて、せめてラ=ファンデアさえあれば)
「姫様、貴女にはこのような
クルシュヴィックは舌なめずりをしながら、軽く剣を払った。セレネイアが
肌には一切傷がついていない。ばらばらになった鎧が大きな音を立てて、身体から
両手を左右に大きく開かれ、動きを完全に封じられた。セレネイアは唇を
クルシュヴィックがこれから何をしようとしているのか。うぶなセレネイアにも容易に想像がつく。恐怖、
クルシュヴィックは、これ以上ないというほどの
「姫様、実に素敵な表情ですよ。十分すぎるほどにそそられますな」
身体を覆う
セレネイアの美しい
そう思われた瞬間だった。
「何だ」
三本の
間髪をいれず、クルシュヴィックとセレネイアを隔てる氷壁が展開された。いち早く危険を察知したクルシュヴィックが、凍りついた右腕を強引に引き戻す。
直後、結界の頂点から音もなく亀裂が走る。一気に地表面まで達した後、鏡が割れるような硬質音を残し、真っ二つに
「結界が。何が、起こったのだ」
セレネイアとクルシュヴィック、二人の視線が上空に向けられた。そこには宙に浮かぶレスティーとエレニディールの姿がある。誰かがいるのは分かる。陽光を背にしている二人には、はっきりと視認できない。
クルシュヴィックは凍結した右腕を回復させようと意識を
「馬鹿な」
右腕の機能が回復しない。自己再生が働いていない証拠だった。
「無駄ですよ。ただの
いつの間に移動したのか、セレネイアの前にスフィーリアの賢者が立っている。
招かれざる客の到来を目にしたクルシュヴィックは、その顔から一切の感情を消した。油断してはならない敵だと認識したのだ。
「別の魔術を仕込んでいたということか」
「ご名答です」
覚えのある魔力だった。
「この魔力は。ほうほう、貴様がスフィーリアの賢者か。ならば、こうするまでだ」
クルシュヴィックは右腕がもはや使い物にならないことを悟ったのだろう。
「スフィーリアの賢者様」
背後から聞こえてくるセレネイアの声は、何とも弱々しい。
「これを
レスティーの声に応じて、スフィーリアの賢者が氷壁をすぐさま解除する。
レスティーはセレネイアを拘束している黒い
セレネイアは自由になった両手で、慌てて羽織を
声の主に向かって、赤面のまま小声で礼を述べる。
「あの、あ、有り難うございます」
レスティーは応えず、地面に落ちたままのラ=ファンデアを拾い上げる。
「あ、その剣は」
「心配無用です。我が友に全て任せておけば」
レスティーと入れ替わるように、スフィーリアの賢者がセレネイアの横に並び立つ。
「スフィーリアの賢者様、あの御方はいったい」
「その話はこれが全て終わった後に。セレネイア、まずはよく見ておきなさい」
ラ=ファンデアを手にする男と、スフィーリアの賢者を交互に見つめるセレネイアだった。それで疑問が
「は、はい。ですが、スフィーリアの賢者様、ラ=ファンデアの今の所有者は私です。あの御方が手にしても」
「問題ありません。なぜなら」
レスティーは既にラ=ファンデアを右手に、セレネイアを
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます