第011話:エルフの娘と故郷
暗黒エルフの男が
ここは、ゼンディニア国王イプセミッシュから供与された隠れ家の一室だ。
娘は運び込まれた当日、治癒師から治癒魔術を受けてからというもの、十日間ずっと眠り続けていた。
身体は
娘に生きる意志があるかどうかも分からない。それでも、男は生命維持のための治癒を娘にかけ続けているのだ。
主物質界において、完璧な治癒魔術は存在しない。死にかけている者を一瞬のうちに平癒、完全状態に戻すといった奇跡などはあり得ないのだ。
だからこそ、男は膨大な魔力を使って、一日に何度も治癒魔術をかけ続けるしかなかった。目を閉じて、ひたすら詠唱に集中している男の
「生きてくれ。頼む。どうか目を覚ましてくれ」
どれぐらいの時間が
いつの間にか、自身の手に娘のそれが重ねられている。弱々しく、ほとんど力の入っていない状態だ。手を持ち上げるだけでも一苦労に違いない。
娘は何かを伝えたいのか、指先を必死に動かそうとしている。
「無理はするな。お前の」
娘の指先が、少しずつ動き出す。
制止しようと思ったところで、男は気づいた。文字を書こうとしているのだ。言葉を発するよりも、今はこの方が楽なのだろう。
震えながらも、ゆっくりと、文字を書き始めている。
まず最初に書いた文字は【サゥカ】だった。次に【ナヴァー】、さらに【ウルケ】と続けた。紛うことなきエルフ文字だ。
何とか時間をかけて、三文字を書き切った。そこで力が尽きた。指先からの僅かの圧が消え、手が落ちる。
娘は再び眠りの世界へと
娘が書きたかった言葉、たとえ三文字であっても、男には十二分に理解できた。
あと一文字だ。最後に【ウィファ】を加えると、エルフ語でこういう意味になる。
「俺の方こそ『有り難う』だ。よく生きてくれた、ラナージット」
言葉が伝わったのか。ラナージットと呼ばれた娘の表情は、これまで見た中で最も
「ようやく峠を越えた。これで一安心だ」
ラナージットの安らかな
「ダ・ミィーリ・レグダ・オートゥロ」
男が召喚魔術を唱える。
異界より仕えるものを喚び出す魔術だ。召喚には幾つかの種類がある。術者を基準にして己よりも上位、同等、下位によって、その難易度が変わり、要求される対価も異なる。
「汝に命ずる。この娘、ラナージットを守護せよ」
喚び出したのは下位の存在、男の
「俺は用事を済ませに出てくる。この場は任せる。侵入者は、容赦なく処分しろ」
鳴き声で男に応じる。男はラナージットの
「すぐに戻る」
男の姿が次第に闇に溶け込んでいく。結界と下僕、二重の力に守られた室内は静寂そのものだった。
同時に、外から様子を
結界に
暗黒エルフの男は、尾行できるよう意図的に魔力を
ディリニッツも動く。イプセミッシュの厳命に
影には誓約の腕輪を装着させている。ディリニッツの命令に逆らったが最後、命が砕け散る魔術装飾品だ。
ディリニッツは、王命でもない限り、イプセミッシュの
その彼が今、王から離れてまで男を追おうとしている。ここまで心を動かされるのは、自分でも意外だった。
御前で述べたとおり、生き様を知りたい思いはある。強い関心があるかと言えば、そんなことはない。それでも、彼の行動が気になって仕方がないのだ。
「貴男を見せてもらいます」
ディリニッツは影に
相手の魔力を関知するためには、こちらも魔力を使って接触する必要がある。そうなれば、当然相手にも
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
男の姿は生まれ故郷たるエルフ属の里にあった。
主物質界に住まうエルフは、フィヌソワロ、タトゥイオド、シュリシェヒリという三属に分かれている。
積極的に異属と交流を図るフィヌソワロ、異属との交流を拒絶するシュリシェヒリ、その中間にあるタトゥイオド、一長一短あるものの、エルフ属としての交流は比較的良好だった。ある時点までは。
「久しぶりに見る光景だな」
感慨深げに
シュリシェヒリは、里の内外を強固な結界で遮断し、異属との交わりを
「この程度の軟弱な結界だったとはな。かつては、恐れていたものだが」
男が結界表面に触れるや
結界には自己修復能力が備わっている。男が結界を通り抜ける方が、圧倒的に早かった。
「そこのお前、命が惜しければ動かぬことだ。既に里の者どもは異変を察知した。この場に押し寄せてくるのも時間の問題だろう。後から来る奴にも伝えておけ」
影にできることはない。男が結界内に入ると同時、修復が完了していたこともある。そして、自分はエルフ属ではない。結界を破壊して内部に入る力など、持ち合わせていないのだ。
「忠告はしておいたぞ」
機能を完全に回復させた結界を前に、影は
暗黒エルフの男は、迷わず目的地に向かっている。ある者と秘密裏に会うことになっているのだ。
道すがら、幾人ものエルフとすれ違う。誰も男に気づけない。里を出る前から、優れた魔術師として知られていた。里を抜け出てからの数百年で、男の魔術はさらに
大樹の
里内には、数えきれないほどの大樹がそびえ立ち、その中でも六本の巨大樹は聖なる大樹として
根本は柔らかな土壌で覆われ、頭上に広がる枝葉を通して差し込む陽光に照らされている。エルフの男がこちらに気づいたか、視線を向けた。
「ダナドゥーファ、娘が、娘が見つかったのか。本当に」
挨拶もそこそこに、エルフの男が尋ねてくる。無言で
「本当なのだな、ダナドゥーファ」
「その名で呼ぶな。それは里を出る時に捨てた。今の俺の名はパレデュカルだ」
強い視線で
「そ、そうか。それは済まない。では、パレデュカル、本当に娘が見つかったのだな」
「くどいぞ。お前の娘ラナージットは俺の庇護下にある。心配無用だ」
トゥルデューロは
「おお、聖なる大樹よ。我が大願、ここに
トゥルデューロは巨大樹を
「そなたにも大いなる感謝を。そなたなくして、我が大願が
パレデュカルは
(この男も長年苦労してきたのだ。こういうのも、悪くはないな)
「済まぬ。つい興奮してしまった」
パレデュカルを解放したトゥルデューロの顔は、涙で
「随分と時間がかかってしまったが、里を出る時のお前との約束は果たした。俺はもう行く。ここにいると何かとまずいからな」
「待ってくれ、パレデュカル」
背を向けようとしたパレデュカルを呼び止める。
「何だ、まだ用があるのか」
「里に戻る気はないか」
唐突な言葉が投げかけられる。
「俺はこの里を出て、あらゆる価値観が変わった。外の世界で生きて、そして死ぬと決めた。もはや俺の帰る場所はここではない」
そこまで明言されてしまえば、トゥルデューロに返す言葉はない。
「お前の気持ちは嬉しいが、そういうことだ。許せ」
「いや、俺の方こそ悪かった。つい娘のことを思うあまり、余計なことを口走ってしまった。この話は二度としない。忘れてくれ」
二人はしばし無言のまま、聖なる大樹を見上げていた。
大樹はいったい何を語りかけたのだろうか。それは二人のみぞ知るだ。
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