04 紫と死と
古今東西、鏡にまつわる逸話は数多く存在する。
日本神話では、
ギリシャ神話のメデューサ退治に用いられたのも鏡だ。ナルキッソスは水鏡に映る自分に見惚れたまま餓死したのだったか。
世界に救いを
神社では、鏡は神の依代として祀られていることが多い。
風水的には、邪気を跳ね返す魔除けの道具として扱われることも。
鏡とは、神聖で特別な力を持つものなのだ。
一方で、鏡の登場する怪談や都市伝説もいろいろある。
鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると、最終的に気が狂ってしまうとか。
鏡に手招きをすると、幽霊を引き寄せるとか。
夜中に鏡を覗くと、幽霊が映り込むとか。
鏡を使って憎い相手に呪いをかける方法も、検索すればいくつか出てくる。
良くも悪くも、霊的なエネルギーを持つイメージのアイテムであることは間違いない。
今回の案件はどうだろう。鏡と、依頼人を取り巻く『念』には、どんな関連性があるのか。
そしていったい誰が、何のために、彼女に呪いをかけたのだろうか。
相談の日から三日後。学校の創立記念日で休みだった僕は、昼過ぎに
授業はなくとも制服姿だ。私服よりも背筋が伸びる。
午後二時ごろ。仕事の休みに合わせて事務所へやってきた依頼人・
というより。
明らかに『念』の濃度が増している。
出迎えた樹神先生ですら、一瞬たじろいだほどだ。
「失礼ですが……体調に問題はありませんか? 顔色が優れないようですが」
応接テーブルを挟んで先生の対面に座った公佳さんは、眉根を寄せてこめかみを押さえた。
「えぇ、まぁ……できるだけ鏡を見ずに過ごそうとしたんですけど、意識すればするほど変に神経質になって、余計に気になっちゃって……メイクの時とかは、鏡見ないとどうしようもないですし……」
「あぁ、確かに。男ですら髭を剃るのに必ず鏡を見ますからね。女性は尚さらでしょう」
女性は大変だなと思っていたけれど、男でも髭剃りの必要性があればそうなるのか。
僕のように鏡を見る習慣があまりなければ、発動しようもない『呪い』なのかもしれない。
「郷土祭まで二週間もないのに。こんな状態じゃ、とても大勢の前になんて出られない……」
「木全さんを三傑行列に参加させまいとする何者かの『念』なのかもしれませんね。いずれにしても、早急に『呪い』を解きましょう」
「はい、お願いします……」
先日の気の強さは見る影もない。
最低でも日に一度、鏡に映る化け物に苛まれているのなら、無理からぬことかもしれない。いつそれを目にするかと怯える心すら、『念』を増幅させる原因になりかねないだろう。
「今日は助っ人を呼んでいます。なるべく安全な方法で行いますので、気を楽にしていただければ」
先生がそう言うのと同時に、呼び鈴が鳴った。接客中の先生に代わって僕が迎えに出る。
ドアノブに手をかける前から、誰が来たのか僕には分かった。
甘く胸を騒がせるような独特の気配の持ち主なんて、知る限り一人しかいない。
扉を開けた瞬間、優しい香りが鼻先をくすぐっていく。
「あら、服部くん。こんにちは」
「
そこにいたのは和装の美女だ。年のころは先生と同じくらい。たぶん。
今日は黒地に赤や紫の幾何学模様の着物と、黄朽葉色の帯。結い上げられた長い髪は、細い
ふっくらした艶やかな唇が柔らかく弧を描く。華奢な白い手に提げられていた紙袋が、僕に差し出された。
「はい、これお土産。昨日うちにみえたお客さんにもらったものなんだけど、みんなで食べよかなと思って」
「わぁ、ありがとうございます」
陰鬱としていた空気が、ぱぁっと払拭された感じがした。
百花さんは先生のハトコで、同業者だ。これまでに何度も一緒に仕事をした。彼女が手伝ってくれるなら心強い。
「
「やぁ百花さん。こちらこそ、よろしく頼む。そちらが今回の依頼人の木全 公佳さんだ」
「こんにちは……って、うわぁ、これはちょっと、どういう……」
百花さんは
「お嬢さん、大丈夫? 身体、だいぶえらいんじゃない?」
「えっ、あの……」
「ちょっと待っとりゃあよ」
取り出したのは、小さなハッカパイプのようなもの。百花さんはそれを軽く吸った後、公佳さんの後頭部付近にふぅっと息を吹きかけた。
すると、あれだけ濃かった『念』が一瞬で薄らぐ。
「こんなんでも気休めぐらいにはなるかしらん」
「えっ? 嘘……肩が軽い。頭痛も弱くなった……」
「良かったぁ。試作品だったんだけど、ちゃんと使えたわ。あたし、調香師の百花。お嬢さんの『呪い』を解く手伝いで来たもんで、よろしくねぇ」
「あ、はい……よろしくお願いします」
公佳さんの表情は先ほどよりずっと穏やかになった。澄んだ眼差しが、ふわりと微笑む百花さんへと向いている。
こういうことに関して、先生より百花さんの方が断然
お土産は、
僕は四人分のコーヒーとまんじゅうを用意し、先生の隣に座った。
居住まいを正した先生が話を切り出す。
「あれから『ムラサキカガミ』という言葉の意味について考察してみました。前回、二パターンの逸話をご紹介しましたが、そもそもなぜそんな話が生まれたのか、と」
関東説も関西説も、非現実的な話だった。どちらも、根拠のない絵空事として片付けられる程度には。
「一説によると、『ムラサキカガミ』の都市伝説は『ハンセン病患者の
なるほど、それで紫色や死のイメージが残ったというわけか。
童謡や子供の遊びに古い時代の因習が隠れていたりするのだから、子供の間で噂される呪いの話に実在の病への忌避感情が隠れていても、おかしくはない。
「木全さんにかけられた『呪い』が周囲の誰かの嫉妬に起因するものであった場合……要するに『報いを受けろ』と誰かが念じた結果であるのなら、何となく筋は通ります。その美しさを台無しにするような報いを、と」
公佳さんが、ほんのわずかに顔を歪めた。陰口を言われる心当たりのことを考えているのかもしれない。
「木全さんが鏡を見た時に、紫色の顔をした化け物が映る。そうして
「私、報いを受けてるんですかね。そんなに悪いことしたのかな……」
俯く公佳さんの背中を、百花さんが労わるようにそっと撫でた。
「まだそうと決まったわけじゃないよ。偶然が重なって怪異が生まれるケースもあるでね」
先生が頷く。
「発信者側のことを考えてみましょう。鏡は『念』を媒介しやすい。例えば、発信者が呪詛を吐いた場所に鏡があった場合。鏡の近くで嫉妬を含んだ噂話をしたような場合も考えられるかもしれません。そうした悪感情が、まず鏡に吸い込まれたと仮定します」
「あっ……最初に陰口を聞いたのは、女子トイレでした。手洗い場の前に鏡がある……」
想像しただけで、いかにも陰湿だ。
「なるほど。もしかしたら発信者本人には『呪い』の自覚はなかったかもしれませんね。『念』には、似たような『念』を引き寄せる性質があります。それが鏡を通じて
「霊的存在? そんなの、どうやって解決するんですか?」
「霊がいる『場』へ出向いて、原因を断ちます」
『場』とは、霊的エネルギーが溜まりやすい土地や建物などのことだ。
僕は首を捻る。
「先生、今回の『場』ってどこなんですか?」
「服部少年、いい質問だ。この件に霊が絡んでいると考えたのも、『場』がどこかということに関連する。本件の怪異発現の絶対条件は『鏡に木全さんの姿が映ること』。恐らく、鏡が『念』の通り道になっている」
通り道とは。『念』は鏡のどこを通っているのだろうか。
先生は怜悧な目を
「だとすれば『場』は、鏡の向こう側の世界だ。そこに存在する何かが、『呪い』の媒体となっている。発現の仕方から見ても、その可能性が非常に高い」
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