02 探偵と助手と依頼人

 名古屋駅から名鉄あるいはJRで二駅。もしくは地下鉄東山線に乗り、栄で名城線左回りに乗り換えてから四駅。

 金山総合駅の程近く、とある雑居ビルの二階に、小さな事務所がある。

 看板は出しておらず、玄関扉の表側にレトロな風合いの小さな表札がかかっているだけ。

 そこには、こんな飾り文字が並んでいる。


『樹神探偵事務所』


 樹の神と書いて『こだま』と読む。

 密室殺人なんかとは縁がないけれど、この探偵事務所にはちょっと変わった依頼が持ち込まれる。 


 僕の名前は服部はっとり はじめ

 ここで樹神こだま先生の助手をしている、県内の私立高校に通う十八歳だ。


 さて、今回ご紹介するのは、鏡に映る醜い化け物の怪。

 あの有名な都市伝説は、いったい何を意味しているのか——?



 ◇



 その日、事務所へ顔を出すと、例によって樹神先生が出迎えてくれた。


「やぁ、服部少年。悪いね、わざわざ学校帰りに」


 いつものように洒落たスーツベストにネクタイ姿で、長めの髪を後ろで一つに括っている。

 齢三十すぎの伊達男。これが僕の雇用主であり師匠でもある、探偵・樹神 皓志郎こうしろう先生だ。


「別にいいですけど……僕、一応受験生なんですよ」

「君の頭脳なら大丈夫でしょ。なんたって天下のT高生だし」


 対する僕は、濃紺の地に金ボタンの学ラン姿。一応、県内トップの私立高校に通っている。

 高三の秋。確かに先日の模試の結果では第一志望校も合格圏内であったものの、時期が時期なので可能な限り勉強に集中したいのだ。


「今日は依頼人の話を聞くだけだよ。なんなら依頼人が来るまで勉強してたらいい」

「まぁ、そういうことなら」


 先生の言葉に甘えて、僕はリュックから参考書を取り出す。

 それにしても、相変わらず「いかにも」な感じの探偵事務所である。先生は何事も形から入るタイプなのだ。

 マホガニーの書き物机は先生の席なので遠慮して、その手前の応接セットに居場所を借りることにした。革張りの渋いソファに腰を下ろし、猫脚のローテーブルに筆記具を置く。


 部屋の奥からは、全自動コーヒーメーカーの起動音が聴こえてくる。

 普段であれば来客用の飲み物の準備は助手である僕の仕事だけれど、今日は先生がやってくれるらしい。コーヒー豆を量る長身の後ろ姿も、やたらと様になっている。

 が。


「服部少年……豆って何杯だっけ」

「……カップ二杯分なら備え付けのスプーンで摺り切り六杯です」


 何かちょっと惜しい感じになるのが、先生なのである。


 どうにかコーヒーの良い香りが部屋じゅうに漂うころ、インターホンが鳴った。

 僕はさっと勉強道具を片付け、席を空ける。

 先生が玄関ドアを引き、来訪者を招き入れる。


 その人の姿を目にした瞬間、僕はハッと息を呑んだ。

 今日の依頼人は二十代半ばほどの女性。肩までの黒髪で、モノトーンのパンツスタイル。凛とした雰囲気で、目鼻立ちのはっきりした綺麗な人である。


 しかし、問題はそんなことじゃない。


「ようこそ、美しいお嬢さん。お待ちしておりました」


 先生は片腕を腹に添えてお辞儀をすると、大袈裟なほど恭しく彼女を応接スペースへと案内する。

 あまりにいつも通りだ。気障ったらしい仕草は毎度のこと。特に、お客が美人ならば仕方ない。

 そんな様子も普段であれば「またか」と思って終わりだけれど、今回ばかりはそうもいかない。

 先生は、どうしてそんなに平然としていられるのか。


「初めまして。探偵の樹神と申します。木全きまたさん、でしたね。知人の方のご紹介でいらしたとか」

「あ、はい……木全 公佳きみかです。こちらの探偵事務所のことは、大学の後輩から教えてもらいました。都築つづきさんっていうんですけど」

「あぁ、都築さん。一年ほど前にご依頼いただいた方ですね」


 その事件のことは、僕もよく覚えている。依頼人の弟さんが異界へ『引き込まれ』て行方不明になったのを、先生と僕とで解決した。


 ごく淡々と会話の続くテーブルへ、僕はコーヒーを運ぶ。

 カップを公佳さんの前へ置く際に、ちらりと様子を窺う。

 ……やっぱり、間違いない。


「それで、ご相談というのは」

「えぇ……最近、鏡に変なものが映るんです。おかしな声も聴こえたりして。ずっと頭痛や倦怠感もあります」


 やや顔色の悪い彼女の身体を取り巻くように、どす黒いモヤ——『念』の塊が、はっきり視える。気を引き締めていなかったら、きっと怖気おぞけが止まらなかったはずだ。

 彼女が体調に異変を感じるのも無理はないだろう。


 先生にも視えているはずだけれど、やはり彼の態度は一ミリも崩れない。


「具体的にはどんなものが見えて、何が聴こえるんですか?」

「鏡に自分の顔が映り込むと、そこに化け物みたいな顔が重なって見えます。それで『ムラサキカガミを忘れるな』と声が……」

「それは、どれか特定の鏡ですか?」

「いえ、職場や家、お店や地下鉄の中、いろんなところにある鏡全部です」

「鏡だけですか? 例えば、スマホやテレビのブラックアウトした画面とか、窓ガラスとかには?」

「うーん……言われてみると、鏡だけですね。他のものでは、特に何も」

「なるほど」


 公佳さんはわずかに眉根を寄せ、低い声で言った。


「すいません、こんな訳の分からないことで。私は精神的なものだと思ってるんですけど、翼沙つばさちゃん……都築さんが、怪奇現象かもしれないからって」

「鏡を見るたびにそんなことがあるなら、さぞかしストレスでしょう。何が原因であれ、解決のお手伝いができればと思います」


 先生は誠実そのものといった表情で微笑む。


「その現象はいつからですか? 何かきっかけとか、思い当たる節は?」

「えぇっと……」


 公佳さんは少しだけ言い淀んでから、整然と経緯の説明をする。

 今年の大なごや郷土祭の三傑行列で、『千姫』の役に選ばれたこと。それを契機に、同僚から悪い噂話を広められてしまったらしいこと。

 鏡の化け物が出てくるようになったのは、そんな頃合いだったらしい。


「差し支えなければお伺いしたいんですが、悪い噂話というのは? 悪意を向けられる原因に、何か心当たりはありますか?」

「心当たりはなくもないですけど……噂の内容自体ははっきり確認したわけじゃないんで分かりません。昔からちょっと目立つと、すぐ何か言われちゃうんですよね。でも、いちいちそんなこと気にしてたら保ちませんから」


 公佳さんは軽く目をすがめて、肩をすくめた。こう言われてしまうと、突っ込んで訊きづらい。


 先生は、ふむ、と顎に手を添える。


「それにしても、『ムラサキカガミ』という言葉が気になりますね。有名な都市伝説だ。木全さんもお聞きになられたことがあるかと思いますが」

「小学生の時とかに流行った話ですよね。二十歳になるまでその言葉を覚えてると死ぬ、とかなんとか」


 僕も聞いたことがある。昔、僕の唯一とも言える友達が読んでいた都市伝説の本に載っていた。


「このフレーズは全国で広く聞かれるものです。しかし、どんな逸話があってそういう流説となったか、ご存じでしょうか」

「いえ、そう言えば知らないかも」

「地方によって謂れはいくつかありますが、大別すると有名なのは次の二つです」


 先生は長い脚をゆったりと組んだ。


「一つ目は、病気で入院していた十九歳の少女が、両親からもらった手鏡を紫色の絵の具で塗り潰してしまった、という話です。お気に入りの鏡を汚したことを後悔した彼女は、すぐに拭いたり洗ったりしますが、なぜか絵の具は一向に落ちない。直後、容態が急変して、二十歳の誕生日に帰らぬ人となった。つまり、その後悔の念が『呪い』となったという説です」


 なぜ入院中にわざわざ絵の具を持っていたのか。しかもなぜ鏡を塗り潰したりしたのか。いまいちよく分からない話である。


「二つ目は、成人式を目前に事故で亡くなった少女Aの話。通夜に訪れた同級生の少女Bが、Aの棺に入れられた紫色の手鏡を見てこう言ったそうです。『そんなものを持ち歩いていたから、鏡に魂を取られたんだ』と。すると成人式当日、Bが行方不明になった。Bの部屋からは、なぜかAの手鏡が発見された。つまり、鏡そのものに『呪い』があったのでは、という説です」


 こちらの方がまだ納得感がある。道具に特殊な力が宿るケースは、この界隈ではそこそこ散見されるからだ。


「前者は関東地方、後者は関西地方で有名な説だそうです。いずれにしても言えるのは——」

「えっ? ちょ、ちょっと待ってください」


 僕は思わず口を挟んでいた。


「どうした、服部少年」

「いえ、先生……」


 とてもスルーできない問題だ。


「この場合、名古屋はどっちですか?」


 間。


 先生は神妙な面持ちで、小さく首を振る。


「分からん。この話に限らず、議論の余地のあるテーマだな」

「あぁ、よく『名古屋飛ばし』って言いますもんね。ライブとかイベントとか、名古屋公演だけなかったりして」

「いや、それはちょっと違うでしょ……」


 ふと、公佳さんがきょとんと僕を見つめていることに気付き、かぁっと頬が熱くなった。話の腰を折ってしまって申し訳ない。


 先生が一つ咳払いをした。


「失礼。私が言いたいのは、これらの逸話を知っているか否かに関わらず、『ムラサキカガミ』が『呪い』にまつわる言葉だというのが、このフレーズに聞き覚えのある人にとっての共通認識であるということです。実際あなたも、子供のころに流行った『呪い』の話を連想したわけですよね」

「まぁ、そうですね」

「そういう言葉には特別な力が宿る。加えて、鏡は人の『念』を媒介しやすい」

「はぁ……」


 公佳さんの訝しげな表情に構わず、先生は続ける。


「つまりあなたは、誰かから何らかの形で『呪い』を受けている可能性があります」

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