ムラサキカガミに映るもの 〜なごや幻影奇想短篇〜

陽澄すずめ

01 挫けない女

 ——『ムラサキカガミ』という言葉を二十歳まで忘れずにいると、死ぬ。


 その都市伝説が流行ったのは、確か私が小学四年生の時。

 誰かがネットの掲示板でその怪談を見つけてきて、教室じゅうに拡めたのがきっかけだった。

 当時はみんな震え上がって、何とかしてその言葉を早く忘れようとした。

 だけど、忘れなくちゃと強く思えば思うほど、ずっとそのことばかりを考えてしまう。


 そうでなくとも、鏡はとても怖いのに。




「ねぇ、木全きまたさんってさぁ——」


 ある日の仕事の休憩中、女子トイレの個室に入っていると、突然名前を呼ばれて息が止まった。


「あぁ、ギフトサロン部の?」

「そうそう。今度の郷土祭で千姫やることんなった」

「綺麗だもんねぇ。千姫の衣装も似合うだろうな」


 心臓がばくばく言っていた。噂好きな同僚二人の声だ。私がここにいることを知らずに会話している。


「まぁ確かに綺麗だけどさぁ……あんた、木全さんのあの噂って知っとる?」

「えっ? 何なに?」

「ほらぁ、あの子って……」


 急に声のトーンが落とされる。そばだてた耳が切れ切れに言葉を拾う。

 ひそひそ。くすくす。下世話な好奇心の滲む嫌な空気。


 鳩尾みぞおちがきゅうっと縮んで、呼吸が浅くなった。腋の下を冷たい汗が伝っていく。

 くそ。

 嫌なものを振り解くように、私はわざと乱暴に音を立てて個室の扉を開けた。

 手洗い場の前にいた二人が、ハッとして振り返る。


「あっ……そろそろ休憩終わってまうよ」

「早よ戻らんとかんわ」


 バタバタと、足音が遠ざかっていった。


 馬鹿みたい。面と向かって言えない陰口なんて、微塵も気にする必要ない。


 さっと手を洗い、顔を上げる。


「……ん?」


 何度か目をしばたかせる。

 あぁ、なんだ、ただの見間違いか。

 さっき一瞬、鏡に映った自分の顔が紫色に見えた気がしたんだけど。


 シミ一つない白い肌に、くっきり二重でアーモンド型の目。肩までの艶やかな黒髪に、適度に流行りを取り入れたメイク。

 良かった。間違いなく私の顔だ。ホッと胸を撫で下ろす。

 嫌な予感がするのも、きっと気のせいだろう。



 毎年十月に開催される『大なごや郷土祭』。

 その最大の目玉である三傑行列は、一般募集で選ばれた男性が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に扮し、鎧武者など約六百人を従えて街を練り歩く。

 メインとなる三人の英傑に加え、信長の妻・濃姫、秀吉の妻・ねね、家康の孫娘・千姫が行列に華を添える。

 この三姫は、市内にある三つの百貨店の女子社員からそれぞれ選出される決まりになっている。


 今年の千姫は、松阪屋まつざかや百貨店ギフトサロン担当、木全 公佳きみかに決定していた。

 そう、私のことだ。



 それから何日か過ぎたころ。

 職場の同僚たちの態度が、何となくよそよそしくなった。

 はっきり誰かから何かを言われたわけではないけど、どことなく遠巻きにされている。私の方をちらちら窺いながら小声で言葉を交わす人たちもいた。


 あの二人が変な噂を広めたに違いない。

 おちおちトイレにも入っていられなくて、最短で用を足す。

 今日も慌てて個室を出て、手洗い場に立った。ふと我に返り、じっと鏡を見つめる。

 いやいや、どうして私はビクビクしているの。別に悪いことなんてしていないんだから、堂々とすればいい。

 

 その時、鏡の中の自分の姿が揺らいだ気がした。

 また何度か瞬きをして、目を凝らす。


「……え?」


 思わず悲鳴を呑み込んだ。

 なぜなら、鏡に映った私の顔が、醜く歪んで紫に変色していたから。


 まるで化け物だ。

 まるで——。



 それからというもの、鏡を見るのが怖くなってしまった。

 上手くやれていたはずだったのに。

 千姫に選ばれて誇らしかった。模範的で、優秀で、美しくて、どこに出しても恥ずかしくないと認められたんだと思った。

 どんな形であれ、出る杭は打たれるらしい。だから仕方のないことなのか。


 背筋を伸ばして、胸を張って。卒なく仕事をこなして、お客さまに笑顔を向けて。

 完璧だ。大丈夫。大丈夫だから。

 こうしていれば、きっと鏡にだって変なものは映らない。


 そう自分に言い聞かせつつ、内心では静かに苛立っていた。

 このところ、頭痛や肩凝りも酷い。

 お中元の時期を過ぎた九月は、仕事に余裕がある。

 繁忙期には臨時の学生バイトがたくさん出入りしていたギフトサロンは、今や電話も来店客も少なく、平常時の落ち着きを取り戻している。

 むしろ息つく暇もないくらいに忙しければ、余計なことを考えずに済んだかもしれないのに。


 お店に出ている時はまだいい。笑顔の仮面を被っていられる。

 でも一歩バックヤードに引っ込めば、薄暗い最低限の照明の下で、迷路みたいに入り組んだ狭い通路の裏側で、天井近くまで棚に積み上げられた商品段ボールの陰で、いつ誰が私の悪口を言っているとも知れない。


 鏡の中の醜い顔は、気のせいだと思う方が難しくなっていた。幸いなことに、それは他の誰にも見えていないみたいだったけど。

 私が鏡に自分の姿を映した時にだけ、化け物は現れる。歪んだ目元をさらに歪ませて、そいつは私をせせら嗤う。

 誰も彼もがそうやって、私のことを笑いものにしているんじゃないだろうか。


 そっちがその気なら、絶対に折れてなんかやらない。

 私はこんなことじゃ挫けない。



 ある時、紫色に腫れた顔が話しかけてきた。


『ムラサキカガミを忘れるな』


「……は?」


 最初は、幻聴だと思った。

 だけど違う。職場のトイレの大きい鏡、地下鉄のドア横の小さい鏡、自宅の卓上ミラーさえ。

 私の顔に重なって映る化け物。それのものと思われるおぞましい声は、日に日にはっきりと私の耳に届くようになった。


『ムラサキカガミを忘れるな』


 幻聴なんかじゃない。

 これはいったい何なのか。私の頭がおかしくなった?


 ムラサキカガミ。もう思い出したくもないのに。




 九月末の水曜日。私の休日の午後。

 栄の待ち合わせスポットに現れた大学の後輩は、相変わらずふんわりキラキラした空気を纏っていた。


「公佳先輩! お久しぶりです!」

翼沙つばさちゃん、久しぶりー」


 平日のせいか、辺りに人は多くない。

 数年前まで噴水やクリスタルのオブジェがあった地下街の広場は、今やリニューアルされてすっかり近代的な雰囲気になった。

 ずいぶん垢抜けたなとは思うけど、知らない場所みたいに見えて落ち着かない。

 新たに設置されたデジタルサイネージに自分の姿が映り込みそうになって、私は慌てて目を逸らした。


「行こっか」

「行きましょう」


 私たちは連れ立って三腰みつこし百貨店へ続く階段を上がった。そのまま地下一階の食品売り場を通過して、隣の商業ビルの連絡通路へと抜ける。

 そうして行き着いた飲食店街の一画、雑貨屋さんが併設されたカフェに入った。


 対面に座る、ゼミの後輩・都築つづき 翼沙は、市内屈指の名門女学園である私の母校・K学院大学の四回生。お父さんが病院の院長という、正真正銘のお嬢さまだ。

 それなのに、本人には気取ったところが全然ない。清楚で可愛らしいのに、実は漫画好きだったりして、意外と親しみやすいタイプだったりする。

 何よりも私にとっては、ずっと変わらずに接してくれる数少ない相手だった。


「これ、ネズミーランドのお土産です」

「わぁ、ありがとう! 弟くんとこ遊びに行ったんだっけ」

「そうです。そのついでで」


 翼沙ちゃんからお土産を受け取る。彼女の弟は、今年の春から東京の大学に進学したらしい。


「弟くん、前に神隠しだかに遭ったとか言っとったよね? その後は大丈夫なの?」

「『神隠し』じゃなくて『引き込まれ』って言うみたいですよ、その界隈では。弟はすっかり元気で、学生生活満喫してますよ」


 今から一年ほど前に、当時浪人生だった弟くんが行方不明になる事件があった。それは『神隠し』……『引き込まれ』とやらが原因で、オカルト専門の探偵に連れ戻してもらったらしい。

 あまりに現実離れした内容なので、話半分に聞いていたことだったけど。


 お洒落なケーキを少しずつ切り崩しながら、取り留めのないおしゃべりは続く。

 しかし。


「そう言えば公佳先輩って、郷土祭で千姫やるんですよね? すごいなぁ、私、絶対見に行きますね」


 翼沙ちゃんの口から例の話題が出て、ぎくりとした。


「先輩?」

「あ、うん……そうだね、ありがとう」


 それが原因で陰口を叩かれていることを打ち明けてしまえば良かったかもしれない。

 だけど鏡に映る化け物の話をうっかり漏らしてしまいそうで、気が引けた。


 冷め切った紅茶がお互いに空となったころ、カフェを出た。

 その後、ビル内をぶらついて服やコスメを見て回る。翼沙ちゃんと遊ぶ時は定番のコースだけど、今回はそれがまずかった。

 どこもかしこも、鏡だらけだ。

 通路に置いてある姿見や試着室の奥だけでなく、壁にまで鏡が設置されていたりして。


 あちこちから声が聴こえてくる。


『ムラサキカガミを忘れるな』

『ムラサキカガミを忘れるな』

『ムラサキカガミを忘れるな』


 あぁ、もう、五月蝿うるさい!

 頭蓋骨の内部で反響するように、頭痛が脈動する。


「先輩? どうしました?」

「あ……」

「大丈夫ですか? どこかで休みましょう」


 翼沙ちゃんが心配そうに私のことを覗き込んでいる。

 この子は本物の天使みたいだ。私なんかと違って。


 何でもないよ、と。そう言おうとした瞬間。

 ばっちり目が合ってしまった。翼沙ちゃんの背後に見える、ショーウィンドウの奥の鏡に映り込んだ、紫色した醜い顔と。


 とうとう誤魔化し切れなくなった私の耳に今一度、その言葉ははっきり届いた。


『ムラサキカガミを忘れるな』

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