全てを手に入れた

きと

全てを手に入れた

 男は、全てを失った。

 勤めていた会社は倒産し、友人からは借金を押し付けられ、長い間付き合っていた恋人にも浮気をされてフラれた。

 ここまで悪いことが続くと、もはや笑うしかなかった。笑って、笑って、絶望した。

 もう自分には、何もない。希望も生きる意味も。

 だから、自殺することにした。誰に向けて書いたかも分からない遺書をしたため、自殺は翌日に決行することにして、ベッドの中で今までのことを思う。思い返せば、いいとも言えないし、悪いとも言えない人生だったと思う。どちらにせよ、今ではどうでもいいことだったが。

 男は、眠りにつく。最期の眠りにつく前に。

 目を覚ました男の枕元には、一冊のノートがあった。

 白い表紙の大学ノートだ。これといった特徴もなく、男がこんなものを買った覚えもなかった。

 男は、不思議そうにノートを見ていると、声が響いた。

「気になるかね?」

 男以外に誰もいないはずの部屋に別の声が聞こえて、体が硬直する。ゆっくりと声のした方を見ると、白い服を着た老人が立っていた。男の知り合いではないし、どう見たって警察とかそういった類の人間にも見えない。

「えっと、貴方あなたは?」

「うむ。一応、神と呼ばれている」

「か、神?」

「力は下から数えた方が早いがな」

 かなり怪しい。それが男の正直な感想だった。

 普通に考えれば、神と名乗る老人が部屋にいる時点でそれこそ警察に通報するのがよいだろう。男が携帯電話に手を伸ばすと、神様は慌てる。

「おお、そんなものを手に取るでない。わしは、おぬしにそのノートを授けに来たのだ。」

「……これを?」

 どう見ても、普通のノートにしか見えない。100円均一の店で買えそうなほどチープなつくりをしている。

「それは、書いたことが現実に起きるノートじゃ。何でもよい。おぬしの願望を書いてみるとよい。わしの言うことが真実だと実感するだろう。ではな」

 言うだけ言って、老人は霧のように消えてしまった。

 それを見て、老人は人ではないと男は認識した。そして、思う。もし老人に言うことが、本当なら……。

 ごくりと喉を鳴らし、男はペンをる。

 それから少しすると、携帯電話が鳴る。鼓動こどうが速くなるのを感じながら、男は電話に出た。

「……もしもし?」

「ごめんなさい。浮気して一度は好きじゃないって突き放しちゃったけど……やっぱり私、貴方が忘れられないの。お願い、私とやりなおしてください」

 男がノートに書いたのは、別れた恋人との復縁だった。確信する。このノートは、本物だ。


 それから、男は全てを手に入れた。

 宝くじの1等にあたり、夢だった喫茶店を開き、復縁した恋人と結婚もできた。

 ここまで順調だと、笑いがこみ上げてくる。笑って、笑って、希望に満ち溢れる。

 これ以上の幸せなどあるものか。そして、もし上手くいかない時にはあのノートに書けばいい。

 自分は、全てを手に入れた。

「ありがとうございましたー」

 妻が、最後の客を見送る。開いた喫茶店は、美味しいコーヒーとパスタが自慢の店だ。言わずもがな、喫茶店の経営も順調だった。

「ねぇ、貴方。明日、お休みでいいの? 日曜日でお客さん、いっぱい来るんじゃ?」

「でも、結婚記念日だからな。君との時間の方が大切だ」

 その言葉に、妻の顔がゆるむ。

 幸せだ。明日は、予約したレストランで愛を確かめ合うのだ。

「でも、あれね」

「なんだ?」

 何気ない会話。それが始まると思っていた。

「一度、別れた時にさ。好きって気持ちが無くなったと思ったのに、結局結婚するなんて、人生って分からないものね」

 ピシリと、何かひびが入った気がした。

 男は、ノートで全てを手に入れた。

 でも、それは人間の心をゆがめて手に入れたものだった。

 よく店に来てくれるあの優しいご婦人も、家族連れも、他の常連客も。そして、妻も。

 みんな、男が変えたのだ。歪めてしまったのだ。

 気づけば、男の目から涙があふれてきた。

「あ、貴方? なんで泣いてるの?」

「いや、なんだか嬉しくなっちゃってさ」

 慌ててごまかす男に妻が近づいてきて、抱きしめてくる。

「私も、嬉しいよ。これからもよろしくね」

「ああ……」

 今、こうして抱きしめてくれる妻の愛情は。これからも一緒に居たいと感じてくれている妻の幸せは。

 本物なのか?

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全てを手に入れた きと @kito72

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