生きて行く。すり減った心とハイヒールを抱いて

@tosa

 同じ摩耗でも、心はタイヤの様に替えられない

「尾山さん。この後も一緒に過ごさない?」


 モツ鍋がメインの居酒屋チェーンのカウンターで、私は同僚の男にそう言われた。仕事帰り、真冬の寒さで冷えた身体を温めてくれた鍋料理。


 共通の趣味があった事実と、誕生日が同じ日だった驚き。明日が土曜日だと言う気楽さ。


 それらが私を現実と言う世界からひとときの間逸脱させた。私の気分を高揚させる条件は整っていた。勿論、最終的な決め手はアルコールだ。


 酒は古来から数多の人々を狂わせて来た。私もその歴史に自分の名を連ねる事に、この時ばかりは軽い興奮すら覚えていた。


 彼は少し肥満気味だったが、顔と体臭は許容の範疇だった。子供が生れたばかりの既婚者と言うハードルも、この時は大した障害では無かった。


 既婚者の友人から聞き及んでいた子育ての苦労話。初めて赤子の面倒を見る夫婦のストレスは相当な代物らしい。


 世間から孤立し、赤子の面倒をすべて押し付けられと思い込み、不眠と疲労で追い詰められる妻。朝か晩まで働き通しで、帰宅しからも赤子の世話と妻のヒステリーに辟易する夫。


 子供が生まれて早々、その生活の激変に耐えられず夫婦生活が破綻する例も少なくないらしい。


 私を不倫に誘う同僚の彼も、きっと世の多くの子持ちの夫と同じ欲求のはけ口を求めているのだろう。


 それが分かってて私は彼の誘いに自ら乗ろうとしていた。平時なら既婚者の誘惑になど歯牙にもかけなかったが、この時の私は彼を慰めてあげようとさえ思っていた。


 半年ほど恋人が不在で男と寝ていなかったから。職場の上司と確執があっから。田舎の両親からしつこくお見合いを勧められたから。昔から愛用していた化粧品のノリが最近悪いから。毎冬手足に出るアトピーの煩わしさから。もう少しで貯るポイントカードを失くしたから。


 道を踏み外す言い訳は幾らでもあった。どれでも、どうでも良かった。つまり彼も私も同じだったのだ。心を侵食する黒い靄をふり払う為に、互いの利益が一致しただけだった。


 だが、結局私はこの時彼と寝なかった。理由は自分でも明確に分からない。強いて理由を上げるなら居酒屋の会計時だろうか。


「尾山さん。三千円だけいいかな?」


 彼は申し訳無さそうに私にそう言った。私は男性に奢られるのが当たり前と言う考えでは無かった。


 自分の飲み食いした分は自分で出すのを是としていた。彼は既婚者であり、自由に使えるお金も制限されているのだろう。


 私は笑顔でバックから財布を出そうとした時だった。私の視界にレジ台が映り、会計金額が目に飛び込んで来た。


 合計金額は五千二百円。その時、私の中で何かが急速に冷めて行った。私は会計後トイレに行った。


 そして生理が来たと彼に伝えそのまま自宅に帰って行った。その後、彼からは二度誘われたが二度ともに断った。


 彼との事は直ぐに忘却の彼方に追いやったが、この夜の帰り道、ハイヒールの靴ずれによる痛みはしばらく忘れられなかった。


 私は足が短い事が思春期からのコンプレックスだった。大学生の頃からそれを隠す為にハイヒールを履くようになった。


 だが、ゴツゴツとした大きな私の足にハイヒールは合わせてくれなかった。日常的に靴ずれして皮膚を擦り切り続けた。それでも私はハイヒールを履き続けた。


 靴を脱ぎ恋人の部屋に入った時、彼が私の脚を見た時の「あれ?」と言う表情に気付かないふりをした。


 少しでも足が長く見えるファッションが最優先だった。一縷の望みに期待し、あまり好きでは無い牛乳を二十代の終わりまで飲み続けた。


 最近は牛乳を飲む事を止め、ファッションもいい加減になってきた。でも、ハイヒールだけは止めなかった。


 意地と言われると少し違う気がした。まるで戦場に残った最後の戦友の様に、私はハイヒールを見捨てずに同じ時を過ごし続けた。


 丘陵地帯に立つ高い擁壁の上に建つ古びたマンション。大きな地震が来たら果たして耐えられるのかと、時折危惧しながらも五年もそこに住んでいる。


 アトピーに悩まされ食生活を改善しようとしたが、玄米菜食など二ヶ月も続かなかった。健康も災害への危機意識も、一つ年齢を重ねる度に経験と言う名の横着さが皮下脂肪の様に身体にまとわりついて来る。


 与えられた容姿と能力。育った家の環境。職場の人間関係。友人関係。健康の好不調。

代わり映えしない雑多なそれらも日常も、気づかない内に少しずつ変化して行った。


 女が年を取ると言う事は、自分に何が残されているのかを確認して行く事かもしれなかった。預金通帳の残高を眺める様に、残りの人生を引き算式で考える。


 女は特に出産については本能的に考える。何歳迄に子供を産むことを考えると、結婚までのリミットがあと何年かと無意識に計算する。


 子供を産みたいかと聞かれると即答出来ない。では欲しくないと問われると沈黙してしまう。


 子育てに希望が見い出せないと国に責任を転嫁して結論を先延ばしにする。だが、その返答の期限は容赦無く一年ごとに迫って来る


 結婚。恋人。出会いの無さ。大小様々な理由をつけてスマホのマッチングアプリを利用した。


 知人友人を介してでは無く、液晶画面の先に出会いを求める事に気後れしたが、長らく男と肌を重ねていない鬱憤が引け目を蹴散らした。


 年収を柱とした男の釣書を条件とする女を男達は「結局金かよ」と蔑む。男尊女卑の世界を過去から現在まで進行形で作り上げた男がどの口で言っているのか。


 持たざる者が自分の器量を駆使して少しでも有利な条件の相手を探す。その行為に異論を挟む余地があるのか。


 私はマッチングアプリの相手の条件で拘ったのは恋愛経験だった。良さそうに思った相手に今まで付き合った人数を聞いた。


 これには理由があった。それは、大学生時代に憧れていた女の先輩が結婚した時だった。


 才色兼備の先輩の結婚相手は、森から出てきたような熊の様な男性だった。結婚式の最中もその男性の女性への不慣れな感じは一目で見て取れた。


 顔は平凡以下。仕事は地方公務員の平。男なら選り取りみどりの筈の先輩が何故森の熊さんを選んだのか?


 二次会の後、私達女子は森の熊さんを散々こき下ろした。その時の面白かった事。だが

、この時私は気づいていなかった。


 森の熊さんに悪態をつきながらも、憧れていた先輩も同時に貶めていたのだった。先輩か結婚した後、二人でお茶する機会があった


 先輩は私の心を全て見透かした様にこう言った。


「私の旦那さん。イケメンじゃないでしょ

う?」


 そんな。優しそうな人じゃないですか。他に褒めようが無い時の常套句を使いながらも

、先輩の今迄の恋人達とは明らかにタイプが違った事については質問した。


 何故過去に付き合った経営者やモデルでも無く、森の熊さんを選んだのか?


「あの人。女の人と付き合った事が無いの。それが一番の決め手かな」


 先輩は女の私から見ても見惚れる様な笑顔でそう言った。先輩の結論はこうだ。女性経験が豊富な男性は勿論魅力的だが、決定的に欠落している所があった。


「すり減った心かな。私の旦那さんはね。女性と付き合ったが無いから、その辺りの心が少しもすり減っていないの。例えると新品のタイヤかな?」


 先輩はそう言った後、自分の夫をタイヤと例えた事が果たして適切だったのかと考え込む表情をした。


 森の熊さんは、先輩の何気ない態度や言葉にも真摯に向き合い、決して疎かにしないと言う。


 その先輩は森の熊さんと幸せな結婚生活を送り、来年の春に四人目の子供が産まれる予定だった。


 すり減る心。いい得て妙だ。確かに人は経験と引き換えに何かを失う。それは純真な気持ちだったり、誠実さだったり。異性と付き合う前に持っていた物だ。


 十代の頃は単純に相手を好きだと思う心で付き合えた。他には何も考えなかった。今の私が最重要視するのは身体の相性だった。


 十代の私が今の私を見たら、汚い物を見るような視線を浴びせるだろうか。ともかく私は憧れの先輩の成功事例を見習い、新品タイヤならぬ新品の心を持ち合わせた相手を探そうとスマホの液晶画面に食いついた。


 だが不純な動機が祟ったのか、意中の男性は一行に見つからなかった。疲れ果てスマホを放り投げベットに寝転がった時、決まってあの冬の事を思い出す。


 私を不倫に誘ったあの同僚。あの時誘いに乗って彼と寝れば良かった。そうすれば、今感じるこの欲求不満も幾分かは軽減されていただろう。


 投げなやりにそう考えた時、自己嫌悪に陥る。ああ。今の私の心はかなりすり減っているのだろうと。


 一度摩耗した心は交換出来るタイヤの様に元に戻らない。今感じている嫌悪感もいずれ何も感じなくなる。


 私は経験上それを知っていた。


「女にも性欲があるのよ!!」


 私はベットの上でそう叫んだ。そうか。とにかく私が今最優先しているのは性欲なのか

。自分の叫び声で私は自分が何を求めているのかを自覚した。


 また今ので心が摩耗したのかな。そんな事を思った瞬間、何の脈絡も無く昔の事を思い出した。あれは、大学に入学して一年目の事だった。


 パン屋でバイトしていた私は、ある男性客に声をかけられた。ナンパかと思った私は

、冷静かつ慎重に対応をした。


「何時に仕事が終わりますか?」


 確かそんな事を言われた様な気がする。私は男性客に店の前で待ってて貰い、仕事後に話を聞いた。


 男性は見るからに緊張しており、女慣れしていない感じだった。少なくとも粘着性の性格では無さそうな事に安堵した。


 男性は私の名前と連絡先を聞いて来たが、全くタイプでは無かったのと生理痛が重なり、彼氏がいると嘘をついて断った。


 男性は素直に引き、その後二度と店に現れなかった。顔は全く覚えていなかったが、もしかしてあの男性は森の熊さんだった可能性がある。


 あの時では無く、今私の前に現れてくれれば一度くらいデートしたかもしれない。詮無き事を考えたと悔やんだ私は、昼食を買いに行く為に着替え始める。


 休日の昼は自炊しない事に決めていた。着替えながらダイエット中にも関わらずチョコレートアイスを買おうと算段していた。


 狭い玄関に置かれたサンダルに足を滑り込ませようとした時、私の足は宙に浮いたまま停止した。


 私は履き慣れたハイヒールを見つめ、怪しい独り言を呟いた。


「すり減って変わって行く私でも、アンタは側に居てくれる?」


 ハイヒールからの返答は無かった。だが、

私はこう思いたかった。


『アンタが私を見捨てない限り一緒にいる

よ』


 ハイヒールにはそう言って欲しかった。何とも手前勝手な思い込みだ。私はふいに笑ってしまった。


 その笑いは、不思議と私の心を少し軽くした。それも一時的な事だと私の経験が耳元で囁く。


 私はつま先をハイヒールに入れた。休日、近所のコンビニにサンダル以外で行くのは初めてだった。


 生理を予感させる鈍い痛みが下腹部を襲った。私はそれを無視し、何時もの窮屈な足の痛みを感じながら、戦友と共にコンビニに歩いて行った。

 



 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生きて行く。すり減った心とハイヒールを抱いて @tosa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ