最終話
オレは薄っすらと目を開けた。目に入るのは豪奢なシャンデリア。眩いばかりにキラキラ光っている。今もし落っこちてきたら確実にオレは死ぬだろうなと、どうでもいいことを考えた。酷く長く懐かしい夢を見ていた気がする。でもそんなこともどうでもいいことだった。オレはベッドに沈み込むように横たわっていた。深い深い絶望で更に身体が沈んでいくようだった。
(何も変わっていなかった……)
セツナを目にした瞬間動けなくなった自分。少しは強くなったと思っていた。でも何も変わっちゃいなかった。オレはセツナ言う通り弱く何もできないままだった。やはりオレは無力なあいつの人形に過ぎなかった。
セツナと戦い、殺し、そして一人の人間であることを証明するために今まで訓練と任務に明け暮れていたというのに。それは無残にも打ち砕かれた。なんの意味もなかったのだ。オレは唇の端を歪めた。これが滑稽でなくてなんだろう。オレはずっとセツナの掌の上でもがいていただけだったのだ。
「……ははっ」
思わず笑いが込み上げると同時に咄嗟に口を抑えた。嘔吐感がせり上がってきたのだ。全身がびくびくと痙攣して背中が浮く。肩と足の踵で身体を支えている状態になった。身体が縮こまり強張って足がぶるぶると震えた。
「はっ、はっ……」
呼吸が辛い。上手く息が吐けず、オレは苦しさに負けて身体から力を抜く。勢いよくベッドに落っこちてそのままオレは床に転がり落ちた。
「うぐっ……」
這うように洗面所に行って、胃にあるものを全て吐いた。といってもほとんど食べていないから胃液ばかりだ。吐くものがないのは余計に辛い。オレはキッチンへ行くと冷蔵庫にあったミネラルウォーターを無理やり胃に流し込み、また吐いた。それを何度も繰り返した。ようやく吐き気が治まって、オレは再びベッドに倒れ込む。
「はーっ、はーっ」
大きく息を吸って吐く。普段意識すらしない行為がこんなにも苦しい。呼吸じゃなくて今すぐ心臓が止まってしまえば楽になれるのだろうか。オレはベッドに突っ伏してシーツを破れんばかりにかきむしった。オレは泣くことも叫ぶこともできずにただ奈落の底の更にその底に落ちていくしかなかった。だが奈落の底までもあいつはやって来るのだ。
「レイ、支度はできた?」
そう言うと同時に部屋のドアが開いた。ほら、オレの絶対的支配者がやって来た。オレという人形の所有者である女王様のお出ましだ。
「……」
返事をしないオレにセツナが厚毛の絨毯を踏みしめながらゆっくりと近づいて来る。直ぐ隣に気配を感じた瞬間、肩に手をかけられてくるりと身体をひっくり返された。人形のオレに抵抗する術なんかない。
「あら、まだお化粧をしていなかったの?」
「……化粧なんてしたこと、ない」
オレがなんとかそれだけ答えるとセツナは申し訳なさそうな顔をした。演技なのか本気なのかオレにはわからない。
「そうだったのね、ごめんなさい。私がお化粧をしてあげるわ」
そう言われてオレはやたらとデカいドレッサーの前に座らされた。直ぐ傍の窓から果て無い海が見える。そうだった。ここはクルーザー船だったと思い出した。セツ何会い、意識を失ったオレはここに連れて来られた。オレとの再会を祝して世界一周に行くのだとセツナは告げた。それを聞いた時オレは知った。もう日本に戻って来ることはないのだ、と。
「さあ、綺麗にしてあげるわね」
セツナは嬉々としてオレの顔を塗りたくっていく。オレはただ自分の顔がセツナ好みに変えられていくのを見ている他はない。オレはもう会うこともないイチや局長とのことを考えていた。長い付き合いのはずなのに割と覚えていることは少なかったことが意外だった。
それよりも出会って間もないアリスのことばかり考えていることに気づく。あんな風に慕われ懐かれたのは生まれて初めてだったからかもしれない。本当のところは最後までわからずじまいだったが。
そんなアリスでもいつしかオレは過去の人間になって思い出すこともなくなるのだろう。八幡川財閥の総帥として忙しい日々を過ごしていくに違いない。それがきっと正しい形なんだろう。本来ならアリスのような人間はオレなんかと交差することはなかったのだから。
「はい、終わったわよ。レイ」
セツナの声でオレは現実に戻された。オレの肩を抱いて鏡の中でセツナが満足そうに微笑んでいた。そして鏡に映るオレはまるでセツナが若返ったような顔をしている。セツナが黒いドレス、オレが白いドレスを着ているという対比もあってまるで姉妹のようですらあった。否が応でも血の繋がり思い知って血を吐くような気持ちになる。この身体に流れている血を全て抜き取って入れ替えてしまいたい。
「とっても綺麗よ、レイ」
「うん、ありがと……」
それ以外の言葉はオレに許されてはいない。
「さあ、パーティーに行きましょう」
セツナはにこりと笑った。
オレはVIPルームを出て、パーティー会場にセツナに連れて行かれた。煌びやかなシャンデリアが幾つも下がり、着飾った客たちがグラス片手に談笑している。どいつもこいつもオレにはろくでなしに見えた。これだけの金と時間を彼らはどうやって手に入れたのだろうか。その陰でどれだけの人間が路頭に迷い首を括る羽目になったのだろうか。オレはただ無感情にその華やかな光景を眺めていた。
「これはセツナ様、こんばんわ」
膨らんだ腹をゆさゆさしながら中年の男が近づいて来た。その腹の中には飽くなき欲望と食欲がたんまり入っているに違いない。
「ごきげんよう」
セツナが艶やかに微笑む。
「おやおや、お嬢様もご一緒なのですな」
「ええ、引っ込み思案なもので。ようやく来てくれたんです」
「セツナ様そっくりですな。いやはやお美しい」
「あらあら、御上手ですこと」
歯の浮くような会話をオレは無表情に聞いていた。セツナ主催のパーティーなのでたちまち周りは人だかりとなった。セツナの表向きの顔は成功した起業家ということらしい。詳しくは知らないしオレが知る必要もないんだろう。セツナの裏の顔を知っている人間だって少なからずいるとは思うが、誰がそうなのかまではオレには判別はできなかった。
この豪華クルーザーで堂々と暗殺やテロの商談が行われているなんて冗談みたいな話だが、これが現実なのだ。それを知ったからといってオレには何もできない。最早オレは特獲官じゃない。セツナの一存で運命が全て決まる人形のレイだ。
(オレはセツナがいないと生きていけないんだ……)
見た目上は紳士淑女であっても腹に一物を抱えた人間に囲まれるセツナはまさに女王だ。オレにはそんなセツナは醜悪な悪魔どもを従えるルシファーのように見えた。
気づけばオレは壁際でセツナを遠巻きに見ているだけだった。ウェイターが持ってきたシャンパンをちびちび舐め、並んだ料理には手をつける気にもなれなかった。
「どうしたの?レイ」
セツナがワイングラスを片手にやって来た。オレのことなんか放っておいてくれればいいのに。
「……疲れた」
「あら、そうだったの。気がつかなくてごめんなさいね。部屋に戻って休んでいなさい」
意外にもセツナから退出許可が下りた。
「うん……」
オレは頷いてセツナに背を向けた。
「ルームサービスを頼んでおくから少しは食べてちょうだいね、レイ」
台詞だけ見れば娘を案じる母親そのものだが、ただただ気色悪いだけだった。
「うん……」
そして条件反射的にそれに答えてしまう自分が一番気色悪かった。全身を悪寒とかきむしりたくなるような痛痒さが走るのにどうしても抵抗できない。まるでセツナの操り人形。いや、実際そのものだった。
足を引きずるようにして廊下を歩き、VIPルームに入るとソファの上に座り込んだ。直ぐ脇にある小窓から外を眺める。小さな窓の外は青い海と青い空。どこまでも果てがない。どこまで行ったとしてもこの空の下にいる限りオレはセツナから逃げることはできないんだろう。
「はははっ」
手の甲で目を覆い乾いた笑いを上げる。この先自分がどうなるのかなんて考えるだけ無意味だ。全てセツナの思い通りにしかならないんだから。オレは運命を呪うより諦めた。運命から逃げるより諦めた。運命に、諦めたんだ。
どれだけ笑っていたのだろうか。笑うのにも飽きた頃だった。部屋のドアが控えめにノックされた。
「ルームサービスでございます」
ドアの向こうから若い女の声がした。返事をするのも億劫でほっとくと再度女が繰り返した。
「ルームサービスでございます」
オレはしぶしぶ立ち上がってドアの前に立って言った。
「頼んでない」
「いえ、頼まれております。セツナ様から」
それを聞いてオレはセツナがルームサービスを頼んでおくと言っていたことを思い出した。心の中で大きなため息をつく。セツナの名前を出されるとオレは断ることができない。仕方なくオレはドアを開けた。
そして開けた瞬間、それは勢いよくオレの胸に飛び込んできた。たいした力でなかったのに、その時のオレはたったそれだけでたたらを踏んだ。以前のオレだったら躱すか逆に投げ飛ばしていただろうに。
「なっ……?」
思わず困惑の声を上げると胸の中の女が顔を上げた。
「レイさん!」
「アリス……!」
女の正体はアリスだった。制服を着て化粧と眼鏡をかけるという申し訳程度の変装をしていたが、まごうことなきアリスだった。どうして?何故?どうやって?疑問符が頭の中でぐるぐる回って言葉にならなかった。
「助けに来ました」
「助け……?」
「イチさんも一緒にこのクルーザーに乗り込んでいます。烏間さんに頼み込んで二人でこのクルーザーに乗ったんです」
理解が追いつかず茫然としているオレを置いてけぼりにしてアリスは話し続ける。だが次の一言でオレの頭は急速に冷めた。
「さあ、逃げましょう!レイさん」
「……逃げる?」
「そうですよ。さあ、早く!」
アリスはオレの腕を引っ張ってせっつくがオレは一歩も動けなかった。
「レイさん!急がないと」
焦ったようなアリスにオレは冷ややかに言った。こいつは何を馬鹿なことを言っているのか。そんなことできるわけがない。
「オレは行けない」
「……レイさん!?」
「オレは逃げれない」
そう、オレはセツナから決して逃げられない。
「セツナからどこへ、どうやって逃げるんだ?無理だ、無理だ!オレにはできない!無理なんだよ!」
癇癪を起すようにそう言い放つとオレはその場にへたり込んでしまった。
「オレはどこにも行けない……オレはセツナの人形なんだ……」
無理だ、無理だ、できないと床に手を突き震えながら言うオレにアリスはしゃがんで視線を合わせてきた。そしてそっとオレの肩に手を置いた。
「レイさんに怒られるかもしれませんが、烏間さんから聞きました。アンノウンとレイさんの関係を。どんな子供時代を過ごしたのかも」
オレは虚ろな目でアリスを見た。アリスの瞳は揺らぎの一つも見えずなんの感情も読み取ることができなかった。
「ならわかるだろ……オレはセツナの支配下でしか生きられない人形なんだ。今逃げ出したって何も変えることなんかできない。支配されたままさ。今までもこれからも」
吐き出すようにそう言った瞬間、オレの身体が床に崩れ落ちた。一瞬何が起きたかさっぱりわからなかった。アリスがオレの頬を思い切り叩いたのだ。それで不安定だったオレの身体が床に倒れ込んだのだと気づくのにたっぷり三秒はかかった。唖然と床に這いつくばるオレに容赦ないアリスの言葉が降り注いでくる。
「今まではそうだったのだとしても、これからもそうだという確証は何もありません!過去は変えられませんが、なんで起きてもいない未来のことまで決めつけるんですか!」
冷えていた頭がアリスの言葉でカッと熱くなった。
「局長の野郎からどこまで聞いたが知らねえが、あんたはセツナのことをなんもわかっちゃいない!だからそんなことを言えるんだ!」
オレは勢いよく起き上がり、アリスの胸倉を掴んでいた。アリスの目は涙で潤んでいたが知ったことではない。
「ええ、わかりません!わかるわけないじゃないですか!」
アリスは逆切れしたように叫んだ。
「なら、もう何も言うな!語るな!もう放っておいてくれ!」
そう言ってオレはアリスを突き飛ばした。アリスはどすんと尻もちをつき、眼鏡が床に転がった。だが直ぐに起き上がってオレに掴みかかってきた。
「そんなことできません!レイさんには私と一緒に逃げてもらいます!」
「なんでだよ!オレがどうなろうと関係ないだろ!」
オレはアリスの手首を掴んで顔を近づけて怒鳴った。アリスは負けじと潤んだ目でオレを睨みつけてきた。
「私が嫌なんです!」
「何がだよ!」
傍から見ればそれはまさしくただのガキの喧嘩だったろう。
「レイさんが私の傍からいなくなることが嫌なんです!」
いつしかアリスの顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「レイさんには私の傍にいて欲しいんです!」
アリスの涙が飛び散る。
「いてくれなきゃ嫌なんです!」
アリスは喉から血が噴き出しそうな声で絶叫した。それは絶叫としか言いようにない叫びだった。
「……なんで、だ?」
オレは一瞬アリスの気迫に負けた。オレの手の力が緩んだ隙にアリスはぶつかるようにオレに抱き着いた。
「レイさんは私の運命を宿命に変えてくれた人だからです……!」
アリスの言っている意味がわからない。オレの首筋が温かく湿っていくことしかわからない。
「私だってレイさんに助けてもらうまでは全てを諦めていました。運命だって諦めていました。運命だから、ただ敷かれたレールの上を歩いていって、決められた結末を迎えるしかない人生だって思っていました」
アリスは顔を上げてオレを見た。眼鏡越しじゃないアリスの瞳に澱んだガラスのような目をしたオレが映っていた。
「運命だったら立ち向かう術なく流されるしかありません!でも宿命なら受け入れるしかない、立ち向かって戦うしかないです。私はレイさんに出会って運命を宿命に変えることができたんです!変える勇気もレイさんから貰ったんです」
アリスは再びオレを強く抱き締めた。オレはアリスに返す言葉を持っていなかった。
「戦うのを止めたら終わりだって言っていたじゃないですか!言ってくれたじゃないですか!決して諦めないって!」
「アリ、ス……」
アリスの名を口にするのが精一杯だった。
「だから私も諦めません!レイさんの傍にいることを!アンノウンと戦うことを!」
オレの止まったはずの心臓がどくんと苦しいくらいに跳ね上がった。涙で濡れたアリスの目には強い意志があった。それは生きている人間にしか持ちえないものだ。陶器のように冷たかった肌がアリスに触れたところから熱を帯びていくのがわかる。
「オレは、そんなことを言ったか……?」
アリスは強く頷く。オレ自身は霞がかかったように思い出せない。セツナと再会する前の全てのことが酷く遠い、スクリーンの向こう側のように感じられていた。
「だから私も戦おうと思ったんです。その時はレイさんが何と戦っているかは知りませんでしたけど……」
「アリス……」
「はい、レイさん」
アリスの瞳に移ったオレは幽鬼のようだ。それなのに何故こんなことを聞いてしまうのだろう。
「オレは、まだ戦えるか……?」
アリスは一瞬驚いた表情になり、そしてはっきりと答えた。
「はい、勿論です!」
咲き誇る向日葵のような笑顔だった。そしてキッチンワゴンへ駆け寄るとかかっていたナプキンをさっと取り去った。
「……!?」
銀の大皿の上には見慣れたものが鎮座していた。
「これは、オレの……」
「戦うには武器が必要ですよね」
そこにあったのはククリ型の大型ナイフと使い慣れたタクティカルナイフがあった。アリスは厳かな手つきでそれを手に取るとオレの掌に置いた。そして優しい所作でオレの指を一本一本折りナイフを握らせていく。その握った感触に全身の皮膚が総毛立つのを感じた。身体中のセンサーが一気に感度を上げていく。
目の前から靄が消え澄み渡るようにはっきりと見えた。壁の向こう側まで見通せそうだった。波の音が耳元で聞こえ、海を渡る風の動きすら聞き取れた。どくんどくんと鼓動の音が聞こえる。自分のじゃない。アリスの心臓の音だ。オレはその音に惹かれるようにアリスの顔を見た。アリスの大きな瞳に映る自分を見て言った。
「オレは、レイ……特獲官、シャスールのレイ、だ」
『ああ、そうだ』とアリスの瞳に移った自分が答える。強く強くナイフの柄を握る。握れば握るほど力がみなぎってくるのがわかった。神経一本一本が冴え渡り、筋肉の筋の全てに血液が力強く流れてくるイメージが脳裏を過った。
「まだ、オレは戦える」
アリスの瞳にあるオレは人形でなかった。そこにいたのは生きようとあがく闘争心を丸出しにした人間だった。オレは驚いて一歩後ずさった。そこにいたのは、泣きながら笑うアリスだった。
「はい!レイさん」
その声にはとてつもない力があった。ただの少女の声なのに。空の雲を全て吹き飛ばし、道を阻むあらゆるものをなぎ倒す暴風で、あっという間に世界を荒野にした。オレは雲一つない空の下のその荒野に投げ飛ばされた。そこは枯れ木の一本もない。その荒野の先には何も見えない。けれど何も怖くない。
「アリス、オレの隣にいてくれるか?」
「はい!」
アリスがいるから。オレは戦える。この二本の足でどこへだって行ける。オレはこんな時なのにこの瞬間途方もない幸福感に満たされた。
「行こう、アリス」
オレは真っすぐ背を伸ばして宣言した。
「はい、行きましょう」
どこへだって、どこまでも。きっとアリスも同じことを考えていてくれたとオレは信じてる。
「よし!まずはこの船から逃げないとな」
セツナが近くにいるというのに逃げなければいけないというのは惜しいことだが、ここはアウェーだ。準備不足もいいところだった。すっかり冷静さを取り戻したオレは今はセツナと戦うべきではないと判断していた。悔しくないと言えば噓になるが戦略的撤退しか選択肢はない。
「生きていればまた機会は必ずあります」
アリスがオレの心を読んだかのように言った。
「ああ、そうだな」
オレはクローゼットを開けながら答えた。ずらっと服がかかったクローゼットをオレは漁った。動きやすい服に着替えるためだ。ワンピースやドレスばかりだったがその中に比較的マシな服を見付けた。ブラウスと黒いロングスカートだ。本当はパンツが良かったのだがセツナが用意した服の中には一つもなかった。
オレは白いドレスを脱ぎ捨てブラウスとスカートに手早く着替えた。靴はフラットシューズがあったので履いていたヒールを脱ぎ捨て履き替える。オレはスカートの裾をナイフで引き裂きながらアリスに聞いた。
「そういや、どうやってオレの居場所がわかったんだ?」
「烏間さんはアンノウンが日本に来た情報を掴んだ時からずっと網を張っていたそうです。私もレイさんが攫われたと知って協力を申し出ました」
「協力?」
「はい、八幡川財閥の情報網をフルに活用しました」
「公私混同もいいところだな……」
若干呆れながらオレは言った。
「そんなことありません、賞金首トップのアンノウンを探すためですから、立派な社会貢献ですよ」
いけしゃあしゃあと言うアリスにオレは強くなったというよりも元々本当はとてつもなく図太い奴なんじゃないかと思った。
「なんで他の特獲官じゃなく、アリス自身がイチと乗り込んで来たんだ?」
特獲官であるイチはともかく素人のアリスまで来たことにオレは憤慨していた。アリスにではない。局長に対してだ。局長が許可しなければイチとタッグを組めるわけがない。
「烏間さんを説得しました。私じゃないとレイさんを連れて来るのは無理だと」
その自信の根拠はどこにあるのか謎だったが実際そうだったのでオレは何も言えなかった。だが烏間がそれに納得したかというとそれは別問題だ。
「それであいつが納得したのか?」
アリスは八幡川財閥の総帥だ。そんな危険なことをさせるとは思えなかった。アリスを犠牲にするくらいなら烏間はオレを見捨てることを選ぶだろう。烏間はいつだって合理的な選択をするがこの場合オレだって同じ選択をするだろう。
「さもなくば八幡川財閥は特獲にもう支援はしないってことも言いました」
「ただの脅迫じゃねえか……」
オレは少しばかり頭痛を覚えたが、ここで頭を抱えている暇はない。オレはククリ型のナイフを腰に差して用意ができたことをアリスに伝えた。
「行くぞ、アリス」
「はい!逃走経路は確保してあります」
オレはアリスと共に部屋を出た。出た瞬間、ドオオンっという轟音がした。
「なんだ!?」
「イチさんのかく乱です。音は派手ですがただの音響閃光弾です」
アリスがそう説明している間にもド派手な音が響き渡る。部屋から次々に客が何事かと顔を出し始め、船内は騒然となりつつあった。
「急ぎましょう!」
「ああ!」
オレとアリスは上へと向かうためにひたすら階段を目指した。その時にふとオレは違和感を覚えた。
(なんだ……?)
それは匂いだった。それは血の匂いだった。オレでなくば気づかない程度のものだろう。だがその理由を考える前に船がぐらりと大きく揺れた。海が荒れているのか?いや、さっきまで快晴だった。何かがおかしい。オレは思考を巡らせようとしたが、それはやって来たイチによって途切れてしまった。
「レイ様、アリス様!」
階段の上からイチが顔を出した。
「イチさん」
「……イチ」
イチだ、いつもの見慣れたイチだ。だがオレはここでも何か違和感を感じてしまった。
「本当に、イチなのか?」
ついオレは疑問を口にしてしまう。
「は?囚われ中に脳が退化でもされましたか?」
イチは小馬鹿にした口調でそう言った。いつものイチだ。間違いなくイチだ。それなのにオレの本能に近い直感がアラームを鳴らしていた。
「レイさん、どうされたんですか?」
アリスも不思議そうな顔でオレを見る。
「ボケている時間はありませんよ、レイ様。さあ、早く!」
オレが何か言う前にイチが急き立てた。
「あ、ああ。そうだな……」
「ついて来て下さい」
イチはオレに背を向けて走り出した。違和感の正体を考える暇もなくオレはまたイチの背についていく他なかった。オレの後ろからドオン、ドオンという音が追いかけてくるように鳴り響く。イチが遠隔操作かなんかで爆発させているのだろう。それに続いて乗客たちの悲鳴も聞こえてくる。アリスは当然のようにイチについて走っている。全ては事前の作戦通りなんだろう。それでもオレはイチの背中からなんとも言いようのないものを感じざるを得なかった。けれど足を止めるわけにもいかない。オレはそれを振り払うように床を蹴り続けた。
「こっちです!ここを抜けます」
イチが大きな扉をほんの少し開けてするりと滑り込むように潜った。オレも潜ろうとしたが鼻を突く嗅ぎ慣れた異臭を覚え、反射的にアリスを呼び止めた。
「待て!アリス!」
そう叫んだ瞬間、またドオオンという爆音が響き船が大きく揺れた。突然オレが呼び止めたことと船の揺れでアリスはよろめいた。オレは慌てて倒れる寸前にアリスを支える。
「どうしたんですか?レイさん」
「血の匂いがする……」
「え?」
アリスが驚いたようにオレを見た。
「でもイチさんが……!」
「オレが先に様子を見て来る。アリスはここにいろ」
オレはそう言うと腰のナイフを左手に持ち、右手のタクティカルナイフを構え直す。
(おかしい……)
アリスはともかくイチならこの血の匂いに気づいているはずだ。それなのに迷うことなく扉を潜っていった。オレは扉に張りついてそっと部屋の中を窺った。
(……!)
部屋の中は文字通り血の海だった。何十人という着飾った人間が血だまりに沈んでいた。殺されたのは明らかだった。そしてこの部屋に見覚えがあることにオレは気づいた。
(この部屋は……)
さっきまでセツナと一緒にいたパーティールームだった。自分が出入りした扉とは反対側だったので今まで気づかなかったのだ。オレは自分の迂闊さを呪った。アリスが迎えに来てくれるまで周囲のことに注意を払うことができていなかったことも気づくのが遅れた一因だ。いつものオレなら直ぐに気づいただろう。
(どういうことだ、イチ……)
部屋の中にいるであろうイチを探し視線を彷徨わせる。右に左に、そして正面を見た瞬間オレは凍りついた。
「二人きりのパーティーにようこそ、レイ。人混みが嫌いなレイのためにみんな殺しておいたわ」
文字通り眼前にセツナの顔があった。
「!?」
オレは咄嗟に後ろに飛んだ。それと同時に扉が開け放たれ無残な光景が目の前に広がる。背後でアリスが「ひっ!」と小さな悲鳴を上げるのを聞いた。
「イチ!どういうことだ」
オレが叫ぶとイチはなんでもない様子でセツナの後ろからゆっくりと現れた。
「どうもこうもないですよ、レイ様。セツナ様に言われたのであなたをここまで連れて来たまでです」
涼しい顔でイチはそう言った。オレは唖然となった。
「ど、どういうことだ……?」
オレは再度イチに問う。
「相変わらず理解力のない人ですね。レイ様。昔も今もセツナ様の言葉は私にとって絶対なのです」
『セツナ様の言葉は絶対です』かつて口癖のように言っていたイチをオレは思い出した。
「オレを守ると言ったのは嘘だったのか?オレを裏切ったのか!?」
「裏切るなどと失礼な物言いは止めて下さいませんか?最初から私の主はセツナ様ただ一人です。それにレイ様を守ると言ったのは嘘ではありませんよ。セツナ様にそう命令されていましたのから」
イチは何を今更とオレを小馬鹿にしたように言った。
「お前もセツナを憎んでいたんじゃないのか?」
オレの玩具としてセツナに屋敷に連れて来られ、いい様に扱われていたイチ。あそこではイチの人格などありはしなかった。イチはオレとセツナの奴隷だったはずなのに。
「私がセツナ様を憎むなどあり得ません。私の過去のことをレイ様はご存じないでしょうが私はマフィアに売られた人間でしてね。勿論売ったのは私の両親です。口減らしですよ。よくある話です。そこで私は働かされました。必死でどんな汚い仕事でもやりました。何せ使えないと判断されればバラされて臓器を売られることになっていましたから」
イチは楽しそうに唇の端に笑みを浮かべて話を続ける。
「そんな時一晩でそのマフィアを壊滅させくれた人間がいました。セツナ様です。目の前で紙切れでも割くようにマフィアどもを八つ裂きにしていくセツナ様の姿は神々しいほどでした。この人は神だと思いました。そう、セツナ様は私の神なのです」
その時のことを思い出しているのだろう。イチの表情は恍惚となっていた。
「マフィアどもを皆殺しにするとセツナ様は私を殺そうと近づいてきました。この人に殺されるなら構わないと私は思いました。私が殺してやりたかったマフィアを代わりに殺してくれた人間に殺されるのなら喜んで殺されます。どうせ生きていてもその国ではストリートチルドレンになる他はありませんからね。身体を売ったとしてもその日食うのがやっとの生活が待っているだけなのを私は知っていました」
吐き捨てるようにイチは言い、話し続けた。
「けれどセツナ様は私を殺さなかったのです。セツナ様はこうおっしゃいました。『レイの誕生日プレゼントを探していたの。変わったものが欲しかったのよね。丁度良かったわ。約束できる?私の言うことは絶対よ。それが守れるなら連れて行ってあげてもいいわ』勿論私は一も二もなく頷きました」
くくくっと少しだけ嬉しそうにイチは笑った。
「そして最後にセツナ様はこうも言いました。『言うことを聞いていたら、その時が来たら、レイの代わりにあなたを私の子供にしてあげるわ』と……ついにその時が来たのですよ!」
歓喜の雄たけびを上げながらイチはオレに拳銃を向けた。
「私はこの日を、この日だけを夢見て生きてきたのです!あなたを殺せば私はセツナ様の本当の子供になれるのです。レイ様、あなたは邪魔なんですよ。あなたがいるから私はセツナ様の子供になることができなかった」
「ずっとセツナと繋がっていたんだな……」
オレの声は震えていたと思う。常にオレから離れずつきまとうイチを疎ましく思いながらオレは心の底ではどこかで信じていたことを知った。そう、オレの同士だと思っていたのだ。
「ええ、レイ様の近況などをセツナ様にご報告しておりました」
ぎりりとオレは奥歯を噛み締めた。
「では、さようなら。レイ様。セツナ様のお傍にいるのは私です」
そう言ってイチは引き金を引こうとしたが、それを止めたのはずっと傍らで立っていたセツナだった。
「お待ちなさい、イチ。その前にあのアリスっていう子を連れてきてちょうだい」
「あ、はい。セツナ様」
イチは仕方なく拳銃を下ろした。未練がましい表情をオレに向け、扉に向かう。
(そうだ……アリス!)
あの扉の向こうにはアリスが待っている。しまった、逃げるように言うべきだった。
「待て!イチ」
オレはイチを追いかけようとしたがそれは叶わなかった。
「駄目よ、レイ。動いちゃ駄目」
「……ぐっ!」
セツナに止められた瞬間、オレの身体は氷漬けにされたように動かなくなった。心は抵抗している。戦う意志は失せていない。それなのに身体だけが言うことを聞いてくれなかった。
「くそっ!くそ」
声は出ると言うのに指先一本自由にならない。
「いい子のレイはそこで見ているだけでいいのよ」
セツナが目の前に近づいてオレの唇を指先でつつく。それでも身体は鉛よりも重く動かない。
(この役立たず身体め!)
そしてアリスがイチに引っ張られるように連れて来られた。
「アリス!イチ、アリスを離せ」
だがイチがオレの言うことを聞くわけないどない。
「イチ、その子をこっちへ連れてきてちょうだい」
「かしこまりました」
イチは無情にもアリスをセツナの元へと連れていった。にこにこと微笑むセツナを気丈な目でアリスは睨みつけていた。
「あなたには一度ちゃんとお礼が言いたかったのよ。レイのお友達になってくれてありがとう。レイも中々楽しんでいたみたい。でもこの船からは出してあげられないわ」
セツナがアリスを殺す気なのは明白だった。だがアリスの目に絶望は一切なかった。
「出るわ、レイさんと二人でこの船を。あなたはレイさんに殺されるのよ、賞金首のアンノウン」
セツナの顔が不愉快気味に歪んだ。それを見たイチが言う。
「ではレイ様を先に殺しましょうか。セツナ様の前では希望など一欠けらもないということを教えて差し上げましょう」
イチの銃口がオレに向けられる。
「止めて!」
アリスが空気を裂くような声を上げる。
「ご安心下さい、レイ様。直ぐに会えますから」
イチの指に力が入る。だが引き金は引かれることはなかった。
「……は!?」
イチの手から拳銃がごとんと床に落ちた。何が起きたかわからない様子で自分の胸を覗き見た。心臓の真上からナイフの切っ先が飛び出していた。ごふっとイチの口から血が吹きこぼれる。
イチはゆっくりとセツナの顔を見た。
「セ、ツナ、さ、ま……」
何故?どうして?イチの表情はそれ一色に染まっていた。そんなイチをセツナはせせら笑う。
「あら、当然でしょ。私の可愛いレイを殺そうとしたんだから」
こつりこつりとヒールの音をわざとらしく立ててセツナはイチに近づく。
「いつかその時?そんな時が来るわけないじゃない」
ほほほっとさも愉快そうにセツナは笑う。
「だってその時が来たら私がイチを殺すだけの話しだもの。私の子供は可愛いレイだけよ。今までもこれからも。レイを取り戻したからもうあなたはお役御免よ。さよならイチ。今まで私のために働いてくれてありがとう」
そう言うとセツナはイチの背中に突き立てたナイフを引き抜いた。その途端イチの胸から血が吹き上がる。「ごぼっ」という音を立ててイチは大量の血を吐き、床に倒れ込んだ。びくびくと身体が震えていたがそれも束の間だった。まるで自分の血の中で溺れるようにしてイチは死んだ。
馬鹿な奴だと思った。セツナの言うことなんか真に受けて。イチはセツナの犠牲者だった。セツナの言葉は絶対。その言葉通りの人生だった。裏切られ続けたことへの怒りはなかった。ただ馬鹿な奴だと思った。だがそんなことを考えている暇すらセツナはオレに与えてはくれない。
「さあ、行きましょう。レイ」
「!?」
イチの背から引き抜いたナイフを投げ捨て、セツナが言った。
「今度こそ、二人きりのパーティーをしましょうね」
「ア、アリスだけは助けてくれ!」
動けないオレにできるのはこうやってアリスの命乞いをすることだけだった。恥もプライドもない。アリスさえ生きていればどうだってよかった。
「レイさん!」
オレに駆け寄ろうとしたアリスをオレは止めようとした。その途端、船が大きくぐらんと揺れる。踏ん張ることもできないオレは派手にすっころんだ。視界にはカッと目を見開き虚空を睨むイチの顔があった。
(おかしい……)
さっきから何度も派手に揺れている。波の揺れにしては不自然だ。オレは無数の死体の山を見た。イチも手を貸したのかもしれないが、殺したのはセツナで間違いないだろう。セツナは誰一人この船から逃がすつもりはないんじゃないか。そんな考えがふと脳裏に過った。そう、自分とオレ以外は。
(じゃあ、さっきの爆発音は……)
ただの音響炸裂弾ではなかったとしたら。
「この船ごと沈める気か!?」
「そうよ」
あっさりとセツナは認めた。やはりあの爆発は本物の爆薬だったのだ。
「保険金が欲しいからこの船を沈めたいっていう依頼主がいてね。私もレイに船旅をさせてあげたいって思っていたから丁度よいと思って引き受けたの」
そうだ。こいつはそういう女だった。
「さ、行きましょ。レイ。別の船を用意してあるからそれで世界一周しましょうね。楽しみでしょう?」
なんでもないことのようにセツナは言う。
「アリスは……?」
聞くまでもないが聞かざるを得なかった。
「この船に置いていくわよ。だってレイには私がいればいいんですもの。レイにはお友達なんて必要ないの」
セツナがオレの腕を掴んで持ち上げる。とんでもない力でオレを引き摺っていく。このままでは置いてかれたアリスは船と共に沈んでしまう。
「は、離せ……!」
「もう離さないわよ、レイ」
「オレに飽きたって言ったくせに!」
「何も変わらないあなたに飽きていたの。でもレイは凄く私好みの面白い子に育ってくれたからまた私のものにしてあげるわ」
そこにいたのは傲慢で絶対的な支配者だった。
「ふざけないで!」
「!?」
叫んだのはオレでなくアリスだった。へたり込みながらもセツナを射貫くような瞳でねめつけている。
「レイさんはあなたのものじゃない!私の友達よ。レイさんはこれから毎日一緒に楽しく私と過ごしていくんだから。あなたなんかに連れて行かせない!」
セツナはそんなアリスを見て大きくため息をついた。
「何も分かっていない子ねえ。困ったこと。レイは私がいなければ生きていけないのよ」
「わかっていないのは、あなたよ!アンノウン!」
「何を言っているのかしら?」
「レイさんはあなたの人形じゃない!宿命と、あなたと戦う人間よ」
この時初めてセツナの顔が不愉快気に歪んだ。
「戦う?私と?レイは弱くて無力な子なのよ。本当に困った子ね」
「違う!」
なおも否定するアリスにセツナの目が険しくなった。オレの背筋に悪寒が走る。
「……うるさい子ね。ここに置いていこうと思ったけど止めたわ。あなたはここで殺していく。まあ、死ぬのが早まるだけの話だし」
「止めろ!」
無意味なオレの制止をセツナはにこやかに振り払う。
「レイはいい子で待っていてね」
セツナは太腿に仕込んだショルダーから短剣のようなナイフを引き抜いた。
(駄目だ……!このままじゃ!)
アリスが殺されてしまう。オレの目の前でむざむざと。
(くそっ、動け動け動け!オレの身体!)
オレがもがいているうちにもセツナはアリスに迫っていく。オレの前で嬲り殺す気なのだ。それでもアリスは一歩も退くことなくセツナを睨み続けている。その目に恐怖はない。それでオレは知った。
(オレを信じているのか……アリスを守ると言った特獲官のオレを、まだ……)
そうだ。オレはなんだ?セツナの人形か?違うだろ。特獲官、シャスールの遙レイだろ。アリスを守る任務はまだ続いているじゃないか!指先に力が籠った。指と掌に確かなナイフの柄の感触。そうだ、オレはナイフをずっと握り続けていた。セツナを前にしても決して手放さなかった。動けるはずだ。動け動け動け!さあ、戦うんだ!
(GO!GO!ヘブン!)
「うおおおおお!」
気づけばオレは咆哮していた。そして血塗れの床を蹴っていた。
(動く!動く!身体が動く!)
動くだけじゃなかった。信じられない程軽く早かった。全身を覆っていた枷が外れたような感覚だった。その爽快感に酔う間は勿論なく一足飛びにオレはセツナへと距離を縮めた。
「……!?」
セツナは明らかに動揺した。その一瞬の隙をついてオレは躊躇うことなくナイフを持った右腕に切りつける。
「……ちっ!」
だがセツナは寸前に身を捻りオレのナイフは皮膚一枚を切り裂く程度で終わった。セツナの上腕に薄っすらと赤い線が走る。それだけだったがセツナは酷く驚愕していた。
「レイ!」
「黙れ!」
オレは両手のナイフで攻撃を繰り出す。だがセツナは驚きながらも全てのオレの攻撃を短剣で軽くあしらった。
(強い……!)
ほんの数撃ナイフを交わしただけだが、桁違いの強さだとわかった。セツナが全く本気を出していないことは明らかだ。オレは飛びずさって距離を取る。
「どうしたの、レイ。私はママよ。落ち着いてちょうだい。私に怪我をさせたことは怒ってないから」
セツナは微笑みわざとらしく両手を広げる。
「うるさい!あんたがオレを捨てたあの日、セツナの娘は死んだ!今ここにいるのは賞金首のアンノウンを殺す特獲官だ!」
そう言い放ち、ナイフの切っ先をセツナに向けた。セツナの笑みが悲し気に歪む。不気味以外の何物でもない。
「離れていたのは失敗だったかしら。レイ、あなたに成長して欲しくて身を切るような思いであなたを置いていったというのに」
そう身勝手極まりないことをセツナは言うと右手の短剣を構え直した。
「しつけ直してあげるわ」
ぞわっと全身が総毛だつ。
(来る……!)
そう思った瞬間にはセツナは眼前にいた。
(そんな!?)
床を蹴る動作すら見えなかった。まるで瞬間移動でもしたようだ。そしてオレの頭上に短剣が振り下ろされた。
「ぐっ!」
オレはそれを左のナイフで受け止める。というか、受け止めさせられた。オレに当てる気は最初からなかったのだろう。ただ力の差をオレに思い知らせたかったのだろう。
「ぐぐぐっ……」
奥歯がぎりっと鳴った。凄まじい力だった。オレの左腕がぶるぶると震え、堪らず右手のナイフを添えて必死に耐える。駄目だ。パワーでは圧倒的にセツナの方が上だ。力では勝負にならない。ビキっと右手のタクティカルナイフにひびが入る音がした。限界だ。
「レイ、あなたは弱いのよ。ママと戦うなんて馬鹿な真似はお止めなさい。あなたはママに守られていればいいのよ」
笑みを色濃くしながらセツナが言う。
「だ、黙れ……!」
オレはタクティカルナイフを握った右手を開いた。ぽとりとナイフが床に落ち、かかっている力がぐんと増す。
「はっ!」
左手のナイフの角度を変え、滑らせて右へと転がった。すぐさま立ち上がりなんとかセツナから離れ対峙する。
「はあ、はあ。……確かに、オレはあんたより弱いかもしれない。いや、弱いんだろう。でもしりぞくわけにはいかない。ずっとオレを人形のように捨てたあんたをオレは憎んでいた。あんたを殺して初めて一人の人間に生まれ変われると思っていた。でも違っていた。オレは初めから人間だった。そして今、あんたの前にいるのはアリスを守る特獲官、遙レイだ」
だがそんなオレの言葉をセツナは嘲笑う。
「私からは逃げられない。これはあなたの運命なのよ」
「違う、宿命だ!だから戦う、戦える!」
床がぐらりと傾く。死体の山がずずずっと動く。この船は長くない。確実に破滅へと向かっている。早くセツナを倒してアリスと脱出しなければ。だがまともにやり合っては勝ち目はない。セツナはただ立っているだけなのに全く隙がない。
(隙がなければ作るまでだ……!)
オレは床を蹴り、壁に向かって飛んだ。着地した壁を再び蹴り、宙を走る。天上のシャンデリアを掴み振り子の要領でセツナの頭上を越える。セツナの視線は右へ左へと忙しなく動いている。今だ!正反対の壁を再び蹴り、床に着地した瞬間蹴り勢いよくセツナへと向かった。左手のククリ型のナイフを右手に持ち替え姿勢を低く、獲物を一瞬で仕留める獅子のように。
だが、セツナはオレの牙を受け止めた。
「やっぱりしつけが必要ね」
そう涼しい顔で言うととんでもない速さで斬撃を繰り出してきた。それを必死でオレは受け止める。左右上下とあらゆる方向からセツナは短剣を繰り出してくる。オレの頬が切れ、髪の毛の幾本が宙を舞う。セツナの斬撃のスピードは更に増してくる。
「レイ、あなたは無力。無力なのよ。ママがいないと生きていけないの。それを何度でも教えてあげる」
「がっ!」
受け止め切れなかった攻撃がオレの左肩を突いた。セツナはオレに見せつけるかのようにゆっくりと刃を抜く。切っ先からオレの血が滴り落ちた。オレは数歩セツナから退く。けれどセツナはオレを追って来る様子はなかった。セツナは明らかに楽しんでいた。ネズミをいたぶる猫のように。止血する余裕などない。どうする?このままではオレは再びセツナに攫われ、アリスは死んでしまう。
「どうしたの?来ないならママから行ってあげるわね」
セツナがそう言って一歩踏み出した時だった。パンっという音が響いた。
「!?」
それはアリスだった。イチが持っていた拳銃をセツナに向けていた。
「馬鹿ねえ」
セツナはアリスに向かって言った。驚いた様子など何もない。セツナは気づいていたのだ。気づいてアリスのするがままにさせていたのだ。更なる絶望を与えるために。
「この揺れる船の中で素人が撃って当たるわけないでしょう」
ふふふっとセツナは鈴を転がすように笑った。
「けれど目障りなことには変わらないわ。レイも言うことを聞くようになるでしょうし」
セツナはくるりとオレに背を向けた。オレはその背を襲うようなことはしなかった。セツナは気づいていない。気づかれてはいけない。それは万に一つ、いや、億に一つの奇跡だったかもしれない。誰も意図していなかった奇跡。だからセツナは気づけなかった。発砲したアリスでさえ。
セツナの頭上にあったシャンデリアが音もなく落ちた。オレがぶら下がったことで強度が僅かに落ちていたのだろう。そのチェーンにアリスの弾丸が命中したのだ。アリスが起こした奇跡だった。アリスの決して諦めない強い思いが引き寄せた奇跡。そうとしか言えなかった。
「!?」
セツナがそれに気づいた時は手遅れだった。セツナは咄嗟に横に飛んだが、完全に避け切ることはできなかった。
「あああああああ!」
セツナの悲鳴とガシャアアアアンというシャンデリアの砕け散る音がパーティールームに響き渡る。砕けたクリスタルとセツナの血がキラキラと舞い散った。シャンデリアはセツナの両足を完全に粉砕していた。
「くそぉ!」
セツナは悪態をつきながら、それでもシャンデリアの下から抜け出そうともがいていた。オレは無言でセツナに近づく。やることは一つしかない。オレの気配に気づいたセツナはまだ馬鹿なことを言っていた。
「レイ、あなたにママを殺せるわけないわ。そうでしょ」
本当にそう信じているようだった。
「あんたは極悪人の賞金首アンノウン、オレは特獲官。それ以上でもそれ以下でもない」
何度言ってもセツナには届かないであろう言葉を言って、オレはナイフを一閃させた。セツナがヒュッと最後の息をした瞬間、首から血が噴き出した。セツナは最後まで何故オレが自分を殺したのかわからないままだったろう。オレを支配し続けたセツナのあっさりとした死だった。セツナの絶命を確認するとオレはアリスの方へと振り向いた。
「ありがとう、アリス」
「レイ、さん……」
よろよろとアリスは近寄って来る。
「終わったんですね……」
「いや」
オレは首を振った。
「二人で逃げないとな」
オレはアリスに手を伸ばした。アリスはオレの手を握り返す。
「はい、レイさん」
オレたち二人は扉へと向かった。ノブに手をかけようとした瞬間、ドアが異様に膨らんだ。
「アリス!駄目だ」
扉がバアンと開き、濁流が凄まじい勢いで流れ込んで来た。手を繋いでなければここでアリスと離れ離れになっていたかもしれない。海水は大蛇のようにオレたちを飲み込んだ。無数の死体が渦巻いて水底に沈んでいく。その中にはイチの姿もあった。ガラクタ人形のように波に翻弄され遠ざかっていった。だが感傷に浸っている暇などなかった。オレは握ったアリスの手を引き必死に上へと向かう。セツナのガラスのような瞳が逃がすまいとオレを睨んでいるような気がした。オレはそれを振り払うように海水を潜り抜けていく。
「ぷはあ!」
なんとか海水の上に出られたが、既に天井が迫っていた。
「くそっ。アリス、大丈夫か」
「は、はい」
力強くアリスは返事をしたが長くはもたないだろう。こんなところで死んでたまるかと思うがどう考えても船の上には行けない。直ぐ横にある窓から空が見えるというのに。すぐそこに外の世界があるというのに。なら方法は一つしかなかった。
「アリス、泳げるか?」
「はい、少しなら」
「少しだけ踏ん張ってくれ」
オレはアリスの手を離した。両手でナイフを掴むとオレはナイフを振りかざし渾身の力で小窓に叩きつけた。一撃、二撃……三撃目で窓にひびが入った。だがオレのナイフにも亀裂が入っている。セツナとやり合ったせいでナイフも限界だった。頼む、頼む!祈りが通じたのか四撃目でガキンという音がして窓ガラスが割れる。それと同時にオレのナイフも真っ二つに割れた。オレはナイフの柄で残ったガラスを砕くとアリスの腕を取って引き寄せた。
「アリス、ここから出るぞ」
「は、はい」
オレはアリスを小窓に押し込み、続けて自分も窓を潜った。アリスを肩に背負うようにしながら船から離れるために必死に海を泳ぐ。
「レイさん、船が……」
アリスに言われて振り向けば、今まさに船がとぐろを巻く海へと沈んでいくところだった。
(終わった……)
そうだ、本当に終わったんだ。そう実感した瞬間、オレは身体が急速に冷えていくのを感じた。左肩だけが火箸を当てられているかのように熱い。触れてみると血が止まらずどくどくと溢れていた。身体が冷たいのはこの出血のせいだったようだ。
「レイさん、大丈夫ですか」
正直大丈夫とは言えない状態だ。だがオレは笑って言った。
「大丈夫だ、心配するな……」
自分でも驚くほど小さい声しか出なかった。身体が徐々に背中から海へと吞まれていく。
「レイさん!見て下さい、ヘリです!」
アリスが空を指差す。いっそ清々しいほどの青い空。そこにヘリがぽつんと浮いていた。そしてヘリから忌々しい局長の顔が見えた気がした。
(たく、折角の青空が台無しじゃねえか……)
オレは薄れゆく意識の中でそんなことを思った。そして最後までアリスがオレの名を呼び続けるのを確かに聞いたのだった。
オレは珈琲を啜りながら朝のニュースを見ていた。
『本日の賞金首ランキングです、三位は……、二位は……』
いつもの朝だが違うことが三つある。それは賞金首のニュースからアンノウンの名前が消えたこと。珈琲がインスタントじゃないこと。そしてアリスが目の前にいるということだ。
「今朝はパンケーキを焼きました。この特製シロップをかけて食べて下さいね」
目の前には色よく焼けたパンケーキが湯気を立てている。
「あのさあ、アリス」
「はい、レイさん」
「学校が再開したんだから家に帰れよ」
アリスの通っていた桜蘭女学院はついこの間再開していた。困ったように視線を彷徨わせるアリスにオレは畳みかけた。
「爺さんも寂しがっているんじゃないか」
「それなんですが……耕三さんもレイさんのお世話をしたいとかで、こちらに引っ越そうかと考えているようなんです」
「ぶほぉ!」
オレはむせて飲んでいた珈琲を派手にぶちまけるところだった。
「あ、大丈夫ですか?」
「おい!冗談じゃねえぞ」
「ええ、冗談です」
アリスはその綺麗な顔でにこりと笑った。
「耕三さんが屋敷を守ってくれるからこそ私は安心してレイさんのお傍にいれますので」
「いや、アリスが帰ればいいだけだろ」
オレはマグカップをテーブルに置くとそう言った。
「でもそうしたらレイさんの生活がまた乱れてしまうから心配です」
アリスは両手を胸の前で組んでうるうるしている。
「余計な……」
余計なお世話だと言おうとするとオレのスマホが着信を告げた。液晶を見ると局長だった。タイミングがいいのか悪いのか。
「オレだ」
『レイか、仕事だ』
そんなことを言われなくてもわかっている。
『直ぐに局長室まで来い』
そう言って通話は一方的に切れた。やれやれ、アリスの作ってくれたパンケーキを食ったら行くか。
「オレ今日学校休むから」
ナイフでパンケーキを切りフォークで口に運ぶ。
「出席日数は大丈夫なんですか」
心配そうにアリスが言う。
「ああ、それは大丈夫だ」
実際出席日数は問題なかった。オレの通う数多高等学校は特獲の息のかかった学校だ。上はオレが特獲官だということを知っている。だがアリスは痛いところを突いてきた。
「期末もうすぐですね」
なんだか嬉しそうなのは気のせいだろうか。
「……ノート見せてくれ」
ここはアリスに頭を下げる他なかった。
「はい!」
それにアリスが元気よく返事をする。さっき嬉しそうだったのは気のせいでなかったらしい。
「……ごちそうさま」
パンケーキを平らげオレは立ちあがった。椅子に無造作にかけてあったコートを手に取る。するとポケットからころんと硬貨が落ちてきた。オレがコイントスに使っていた硬貨だった。
(こんなところにあったのか……)
最近これが見つからなくてコイントスをしていなかった。拾い上げ指で弾こうとして、止めた。オレは硬貨をゴミ箱に捨てる。ラッキーかアンラッキーかを決めるのはコイントスじゃない。自分だ。オレ自身が決めればいい。いつしかオレはそう思えるようになっていた。
「どうしました?レイさん」
不思議そうな顔でアリスが覗き込んできた。
「いいや、今日はラッキーデーだと思ってな」
「そうですね、レイさんがいる朝はいつだってラッキーデーです」
そんなアリスにオレは苦笑するしかない。
「じゃあ、行くか」
「はい」
コートを羽織り家を出る。季節はすっかり冬になっていた。木枯らしが頬を打つが気分は悪くない。高く高く遠い青い空をオレとアリスは見上げる。
「夕飯までには帰って来て下さいね」
「無理言うなよ」
「今日はオムライスですよ」
「う…善処する……」
「ケチャップでくまちゃん描きますね」
「食えなくなるから止めてくれ」
オレが苦虫を潰すような顔をするとアリスが声を上げて笑った。
「あはははっ」
「はははっ」
オレもつられて笑う。二人の笑い声が木霊して空へと駆け上がっていく。ふいにつむじ風がオレの足元を絡め取った。
「!?」
風音の中に幼い子供の声が混じっているのをオレは聞いた。その声は風によって空へと巻き上げられあっという間に霧散する。
「……あばよ」
オレの呟きをアリスは聞き逃さなかった。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもねえ。過ぎたことさ」
オレは空ではなくアリスを見つめた。
「さて、仕事頑張らねえとな」
「レイさん?」
「今夜はオムライスだからな」
オレは駆け出した。
「ま、待って下さい!」
慌てたようにアリスが追いかけて来る。二人してじゃれ合いながら駆ける。二人の熱い吐息が冬の寒さを溶かしていく。アリスの笑顔を見ながら思う。もうオレはどんな運命にも負けはしないだろう。それを宿命に変える強さを手に入れたのだから。いつだってオレは戦うことを諦めはしない。
了
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