第5話
どこかでピアノの調べが聞こえる。曲名は知らない。美しい曲なのかどうかもわからない。私はこの人の弾くピアノ以外聞いたことがないからだ。比べようがないものに優劣はつけられない。わかるのはこの曲が聞こえるということは朝だということだけだ。
私はゆっくり瞼を開けた。朝の眩しい光が目に飛び込んでくる。私は曲の流れる方向に目を向けた。後ろを大きく開けた黒いドレスを着た背中が見える。細く見えるが無駄なく筋肉のついた背中が真っすぐに伸びていた。そしてピタリとなにかに気付いたように曲が止まった。
「おはよう、レイ」
くるりと彼女が振り返った。生まれてからずっと見てきた顔だ。知っているのは遙セツナという名前と彼女が私の母親ということだけ。それ以外知りたいと思ったこともない。知る必要すら感じたことはなかった。だって私にはママがいればいいのだ。ママが世界の全てなのだ。
「おはよう、ママ」
私は起き上がって伸びをした。ネグリジェの袖に彩られた白いレースがふわりと揺れる。白とピンクで彩られた部屋だ。白いレースのカーテンが潮風になびいている。白い壁紙に白い花瓶。白い家具たち。ピンクのカーネーションが飾られている。白いシーツに白い枕の横にはピンク色のうさぎさん。みんなみんなママが私のために用意してくれたものだ。そう、私のためだけに。
ママはにっこり笑って私の横に腰かけた。大きくてしっかりしたベッドはそれぐらいでは軋むことはない。
「おねぼうさんね、レイ」
私の鼻を白い指先で軽く突いた。
「ご、ごめんなさい。ママ」
私が思わず謝るとママは優しく微笑んだ。
「いいのよ、いつでもママが起こしてあげるわ」
そう言ってママは今度は私の頭を撫でてくれた。ママの手はとても気持ち良い。私はママに撫でてもらうのが大好き。
「そろそろ朝ごはんよ。顔を洗っていらっしゃい」
ママに促されて私は洗面所に向かった。大理石でできた床も壁も、鏡もいつもピカピカだ。磨かれた鏡の前で私は顔を洗う。鏡に映った姿はママとはあまり似ていない。親子なのに髪の色だって私は茶色だけどママは濡れた夜闇のよう真っ黒だ。せめて髪だけでも同じ色だったらよかったのに。毎朝私はそう思う。だから鏡を見るのはあんまり好きじゃない。
私は顔を洗い終わるとママの待つ部屋に戻った。丁度イチがワゴンを押して部屋に入ってきたところだった。
「おはようございます、レイ様」
イチは無表情にそう言って頭を下げる。いつもどおり黒いスラックスに白いシャツにネクタイをきっちり締めた格好だ。
「おはよう、イチ」。
「さあ、イチ。今日は天気がいいからバルコニーで食べるわ。準備をしてちょうだい」
「かしこまりました」
そう言うとイチはバルコニーまでワゴンを押していき手際よく朝食をテーブルに並べていく。私は椅子に座って待っているだけだ。瞬く間に美味しそうな朝食が目の前に用意された。思わずお腹がぐーっと鳴る。
「準備が整いました」
イチがそう言うとママは素っ気なく答える。
「結構、呼ぶまで下がっていてちょうだい」
「かしこまりました」
イチはそう言って下がっていった。
「さあ、レイ。いただきましょうか」
「うん、ママ」
私が頷くとママは私に聞いてきた。
「林檎ジュースとオレンジジュースどっちがいい?」
「オレンジ!」
私が勢いよく手を上げてそう答えた。
「了解」
ママはにこっと笑うとデカンタに入ったオレンジジュースをグラスに注いでくれた。私はグラスを取って冷えたジュースをごくごくと飲んだ。甘酸っぱい果実の味が口一杯に広がる。喉が渇いていたから身体に染み渡るように感じた。
「今日はオムレツよ、召し上がれ」
ママはフォークに乗せたオムレツを私の口に運ぶ。こうして家にいる間はママが私に食べさせてくれるのが日課だった。
「美味しい?」
ママが問うので私は頷きながら言った。
「美味しいよ、ママ。でもいつもより少し焼き過ぎてるね」
これはこれで美味しいけど、と言う前にママは表情を険しくした。さっと手元の呼び出し鈴を手に取るんとチリンチリンと二回鳴らす。すぐさまイチが部屋に戻ってきた。
「お呼びでしょうか。セツナ様」
「シェフにオムレツを焼き直すように言ってきて。レイはもっと柔らかいのが好みなのよ」
「し、失礼致しました。申し伝えておきます」
イチはぺこぺこと頭を下げるとそそくさと部屋を出ていった。こうやってママはいつも私のことを一番に考えて行動してくれる。
「さあ、レイ。オムレツが焼き上がるまでフルーツでも食べましょう」
ママは微笑むとフルーツが山盛りの籠から葡萄を手に取った。
焼き直されたオムレツを食べて甘い香りのする紅茶を飲んでいるとママが申し訳なさそうに言った。
「ママね、これからしばらくお仕事なの。だから二週間は帰れないわ。ごめんね、レイ」
「そっか……」
正直ママがいないのは寂しいし悲しい。本当はずっと一緒にいて欲しい。でも我儘はいけない。ママがお仕事をするのはみんなみんな私のためなのだ。お仕事をというのはお金を稼ぐことだと私は教わった。このお家も家具もぬいぐるみだって全部ママの稼いだお金で得たものだという。お金がないとご飯も食べられないらしい。お金というものを私は見たことも使ったこともないけれど、生きていくにはなくてはならないものなのだそうだ。だから頑張って我慢する。
「いい子で待っていてね」
「うん、ママ」
「外の世界はとても恐ろしいところなの、レイを連れては行けないのよ」
私はこの家から出たことはないけどママが言うならきっとそうのなのだろう。
「ママは強いから大丈夫だけど、レイはとても弱いから外の世界では生きていけないの」
「うん、ママ」
そう、私はママの言う通りとても弱いのだ。だから悪いもの怖いものだらけの外の世界では生きていけない。でもママは外の怖いものと戦っているらしい。それがママのお仕事なのだ。
「でも大丈夫よ、ママが守ってあげるから」
そう言ってママは私をぎゅっと抱き締めてくれた。私はこの時が大好き。ママは名残惜しそうに私から身体を離すと言った。
「じゃあ、ママはお仕事に行ってくるからレイはイチと遊んでなさい」
「うん」
ママはまた呼び鈴を二回鳴らす。イチがやって来るとママは言った。
「私は仕事に行ってくるから。その間レイの遊びに相手になりなさい。くれぐれもレイを退屈させないようにね」
ママは厳しい口調でイチに言い聞かせる。
「かしこまりました、セツナ様。セツナ様の言葉は絶対です」
「よろしい」
さして興味なさそうにママは言った。そして「行ってきます、レイ」そう言ってイチには一瞥もくれずに行ってしまった。ママが行ってしまうと私はイチと二人になった。
「イチ、着替えさせて。動きやすい服がいい。かくれんぼがしたいわ」
「かしこまりました、レイ様」
そう言ってイチは衣装室に向かって行った。そこはママが私のために買い揃えてくれた洋服がしまってある。
イチはいつの間にかこのうちにやって来た男の子だ。ママが言うにはイチは使用人で、私の遊び相手なのだ。つまり私の従僕だ。子供の私が退屈しないようにママが私のために連れて来てくれた子だ。この子は好きにしていいとママから言われている。何故なら私のものだからだ。ママが私にくれたものだからだ。だから私はイチを好きにする。
イチが持ってきたのは白いシンプルなリネンのワンピースだった。丈は膝下くらいでこれなら動きやすそうで私は満足した。白だと汚れてしまうけど、どうせ一度着たら捨ててしまうから問題ない。ママがいつだって山のように洋服を買ってくれるからだ。
私はイチを連れてかくれんぼのために庭に向かった。私はこの庭から出てはいけないんだけど、不自由を感じたことがないほど庭は広かった。外の世界は怖いのだから出ることなど考えたこともない。
「じゃあ、十数えたら探してちょうだい」
かくれんぼの時、必ず鬼はイチだ。以前は私が鬼になることもあったけど、イチは隠れるのが下手で直ぐ私は見つけてしまうのでつまらないのだ。イチに「真面目に隠れなさい」と言ったこともあったけどイチは全然駄目だった。だから自然とイチが鬼になるようになった。
「かしこまりました」
そう言ってイチは両手で目を覆い近くの木に顔を伏せて数を数え始めた。
「いーち、にー、さーん……」
私はその場をそそくさと立ち去った。きっとイチはまずは庭を探すはずだ。だから私は庭には隠れない。私は屋敷の方に向かった。庭にしか隠れてはいけないなんて約束はしてないもんね。「はーち、きゅー……」徐々にイチの声が遠ざかっていく。屋敷に入ると声は完全に聞こえなくなった。
さてどこに隠れようか。まあ、どこに隠れようともイチは中々見つけられないことはわかっているけど。なんでイチは私を見つけられないんだろう。といっても私もはっきりと答えられたことはない。以前イチに「どうしてレイ様はそんなに早く私を見つけられるのですか?」そう聞かれたことがある。それに私は「なんとなく」としか答えられなかった。
そう、なんとなくわかるのだ。イチの歩いた場所も目に見えるわけでも匂いがするわけでもないがなんとなくわかるのだ。ママにそのことを話したら「ママもそうよ」と言っていたのでイチが格別に鈍いのだろうと思う。
そんなことを考えながら屋敷の中を私は歩いていた。最初に目に入ったのはリネン室だった。シーツの中に潜ってしまえばパッと見わからないだろう。でも少し意外性がなくてつまらない。どうせならイチをうんと驚かせたい。そこで私は自分の部屋に戻った。うんと探していたのに私が自室に隠れていたなんてイチをびっくりさせるには十分だろう。
枕やぬいぐるみをシーツに包んでさも寝ているようにカモフラージュする。私自身はベッドの下に潜り込む。私は自分のアイデアに満足した。ベッドの下で絵本を開いて時間を潰すことにする。明後日の場所を探しているだろうイチを思い浮かべて私はほくそ笑む。それはそれで楽しいけど暇で仕方ない。かくれんぼの難点は見つけられるまで死ぬほど暇だってこと。
次第に私は絵本を読むのも飽きて目を瞑ってママのことを考え始めた。ママはお仕事が終わると色んなお土産を買ってきてくれる。今回はなんだろうなあ。前回はお洋服だったから、今度はお人形とかがいいなあ。今ある人形やぬいぐるみに飽きていたし。
ああ、それにしてもイチの奴遅いなあ。本当にとろいんだから。ぐずでのろまのイチ。イライラが段々怒りに変わっていった。ママに言ってイチを取り換えてもらおうか。
「あほ、イチの馬鹿」
ぷんぷん怒っていたけど怒るのにも私は飽きてしまった。もう本当にすることがない。足をぶらぶらさせているとだんだん私は眠くなってきてしまった。その睡魔に抵抗する理由なんてなかった。
声が聞こえた。眠りの闇の向こうから。
「起きて……」
うるさいなあ、眠いの。
「立って……」
まだイチが見つけに来ていない。立つ理由なんかない。
「動いて……」
とにかく眠いって言っているでしょ。動きたくないの!
「戦って……!」
ハッと目が覚めた。どうしてか汗をびっしょりかいている。私は何度か目をぱちぱちとさせ、大きく息を吐いた。心臓がばくばくしていてなんとかそれを止めようとして胸を押さえた。そこでリネンのワンピースが汗で濡れていたことに気付いた。ただの夢のはずだったのに私は恐ろしくて仕方なかった。
ガタガタと小刻みに身体が震えている。「戦って……!」その声が耳にべったりと張りついて木霊している。戦うなんてそんな怖いこと自分にできるわけがない。
(ママの言う通り、私は弱いんだから……)
だから私はこの屋敷から出ることはできないし、ママに守ってもらうしか生きることはできない。それなのになんであんな悲痛な声で私に戦えなんて言ったんだろう。私はぷるると頭を振った。とにかくこの嫌な汗で濡れたワンピースを着替えたかった。もう私はイチとかくれんぼをしていたことなんか頭からすっかり抜け落ちていた。
もぞもぞとベッドの下から這い出ると私はまずシャワー室へと向かった。ママと一緒に入るための大浴場もあるけど今は汗を流せればいいのでシャワーでいい。
ザーッと少し熱めのお湯を頭から被ると少しだけ気分が晴れた。ぱぱっと身体を拭くと濡れた頭のまま私は衣装室へと入った。気分を変えたくてレースで縁取られた空色のワンピースドレスを着た。着終わった頃、イチの声が聞こえた。
「レイ様ー!レイ様!」
窓から下を見るとイチが見当違いの場所を走り回っていた。
「ここよ、イチのぐず!」
窓を開けて私はイチに呼びかけた。イチはびっくりしたように上を見上げた
「そこにいたのですか。レイ様……!」
「待ち疲れちゃったわよ!ほんとにとろいんだから!」
私はイチに早く部屋に上がってくるように命じた。イチは部屋に来るなり私を見て驚いたようだった。
「髪が濡れておりますがどうされたのですか?お洋服も違うようですが」
「ちょっと暑かったからシャワーを浴びたの。ついでに着替えたの」
イチは少し怪訝な顔をした。今日は穏やかな陽気で暑いとはとても言えなかったからだ。むしろ走り回っていたイチの方が息が上がっていて暑そうだった。けれど勿論イチは反論することはなかった。私はあの夢のことをどうしてもイチに話す気にはなれなかった。
「さようでしたか」
「そうよ、早く髪を乾かして」
濡れた髪からぽたぽたと水滴が零れて気持ち悪かった。イチは「かしこまりました」と言うと浴室からタオルとドライヤーを持ってきた。私はドレッサーに腰かけてイチに身を任せた。髪が渇いていくうちに気分も良くなってくる。イチが髪を乾かし終わった頃には夢のことは揺れるカーテンの向こう側に行ってしまった。
「そろそろ昼食のお時間です、レイ様」
「もうそんな時間なんだ」
言われるとお腹がくーっと小さく鳴った。
「お食事を運んで参ります」
イチは一礼して去っていった。それで私はママがお仕事でいないことに今更気付いた。ママがいても朝食はこの部屋で食べるけど、それ以外は食堂や中庭で一緒に食べることがほとんどだ。
「ママがいないとつまんないなあ」
私はぼそりと呟いた。それになにより心細いのだ。だって私はママがいないと生きていけないのだから。
「お待たせしました」
そうこうしているうちにイチがワゴンを押してやって来た。
「メニューはなに?」
「ローストビーフサンドとオレンジです」
「ふーん、いい天気だからバルコニーで食べたいわ」
私がそう要望を伝えるとイチはバルコニーで食事の準備を始めた。
「ご用意ができました」
私はバルコニーに向かい、パラソルの下の白い椅子に座った。
「いただきます」
そう言って私は綺麗に手入れされた庭を見ながらサンドイッチを頬張る。傍らに控えているイチが黙って紅茶を淹れている。イチは使用人なので私やママと食事をすることはない。この屋敷の主はママで私はその唯一の娘なのだ。私にとってイチはただの従僕以上でもそれ以下でもなかった。
皮の向かれた瑞々しいオレンジを食べながら午後は薔薇園にでも行こうかなと思った。その薔薇園もママが私を喜ばせるために作ってくれたものだ。私が部屋に活けられた薔薇を見て「もっと飾って欲しい」と言ったのがきっかけだ。「それならいっそ薔薇園を作りましょう」そう言った当日から庭師が薔薇園を作り始めた。
ママは私の欲しいものをなんでもくれる。ママは優しくて世界で一番私のことを愛してくれている。不満なことは一つだけ。お仕事で屋敷を空けることが多いってこと。私のために働いてくれているのはわかっているけど、やっぱり寂しいものは寂しかった。
オレンジを食べ終わり、紅茶を飲み切ってしまうと私は椅子から立ち上がった。
「イチ、薔薇園に行くわ。付き合ってちょうだい」
「かしこまりました」
色とりどりの薔薇が咲く庭を私は歩いていた。直ぐ後ろからは私に日傘を差しながら歩くイチの姿があった。ママに天気のいい日は日傘を差しなさいと言われているからだ。
「もっとしっかり差して。日が当たっちゃってるじゃない」
「も、申し訳ございません……」
日傘というよりもパラソルに近いそれは子供のイチには大き過ぎるのだろう。でもそれは言い訳に過ぎない。イチにとってママと私の命令は絶対なのだ。イチは腕をぶるぶるさせながら必死に日傘を支えていた。
「もう、役立たずなんだから。ママに言ってイチを辞めさせてもらおうかな」
「申し訳ございません……それだけはどうか!」
イチは必死の形相で私に叫ぶように訴える。別に私は本気で言っているわけじゃない。ただこう言えばイチがよく言うことを聞くからだ。
「まあ、考えとく」
そう言って私は庭の散策を続けた。そうしてお目当ての薔薇の前で立ち止まった。立札には『REI』と書かれている。そう、この薔薇の名前は私の名からつけられている。ママが私のために世界でたった一つの薔薇を品種改良して作ってくれたのだ。
私はその薔薇に顔を近付ける。何度見ても他のどの薔薇と違う不思議な色だと思う。シンプルな赤い花弁なのにお日様にかざすと透明感があって七色に光って見える。花弁の触感はシルクのようでとても滑らかだ。私は私の名を持つこの薔薇が例えようもないほど好きだった。見ているうちに部屋に持って帰りたくなって私はイチに言った。
「イチ、直ぐにこの薔薇を数本切って」
「あ、かしこまりました。でも、その……」
はっきり言わないイチに私はイラっとする。
「何よ、ちゃんと言いなさいよ」
「はい、申し訳ございません。薔薇を切るとなるとこの日傘を一端置かなければいけませんがよろしいでしょうか?」
「そんなの当たり前でしょ。いいから早くしなさいよ」
私はとんとんと足踏みしてイチを急かした。イチはまた「申し訳ございません」と言い、日傘を地面に置いた
「では剪定ばさみを持って参ります」
イチはそう言って納屋の方に向かおうとしたが、私はそれを止めた。
「待ちなさい、イチ。私は直ぐにこの薔薇が欲しいの」
「あ、はい……?」
イチは私の言っていることがわからなかったようだ。
「はさみを取りに行く時間が勿体ないでしょ、手でやりなさいよ」
「し、しかし、この薔薇は棘が多く……」
「うるさい、さっさとしなさい」
私の言うことは絶対だ。
「言うこと聞けないの?」
そう言ってじろりと睨めばイチは慌ててぶんぶんと頭が吹っ飛びそうなほど勢いよく首を振った。そして諦めたような顔になると薔薇の傍に座り込んだ。恐る恐るというふうだったので私は「早くして」とイチの背中をバチンと叩いた。
「は、はい。申し訳ありません……」
また謝ってイチはようやく棘のある薔薇に手を伸ばした。
「……つっ」
イチは顔をしかめる。薔薇の茎は思ったよりも硬かったようで中々手で折ることができなかった。一本を折ったところでイチの手は棘で血にまみれていた。私は汚いなあとしか思わず、二本目を早く折るようにイチを急かす。イチが三本薔薇を折ったところで私はようやく満足した。
「花瓶に活けて部屋まで持ってきて」
私はそう言ってイチに背中を向けて立ち去った。血まみれの気持ち悪いイチの手を見たくなかったからだ。
その薔薇は三日もすると枯れてしまい、その度に私はイチに薔薇を持ってくるように命じたのだった。
ママがお仕事で出かけてから二週間が経った夜のことだった。ママは突然帰ってきた。ママが帰ってくる時はいつも知らせなどないので私は驚きはしなかった。
「ただいま!私のレイ!」
パッと部屋の灯りが点いてそこには人形やぬいぐるみを山のように抱えたママが立っていた。
「ママ!お帰りなさい」
私はがばっと起き上がった。
「レイ、留守にしていてごめんなさいね」
ママはそう言って人形を抱えたままベッドの横に座った。私の前にたくさんの人形とぬいぐるみが散らばる。
「今日のお土産は新しいお人形よ」
「わあ!ママ、ありがとう。欲しかったの。どうしてわかったの?」
「レイのことならなんでもわかるわ。だって私はレイのママなんだもの」
ママは赤いルージュが塗られた唇を弧のように描いて微笑む。
「いないことが多くてごめんなさいね。なにか不便なことはない?」
私の腕にぬいぐるみを抱かせながらママはそう言った。これはいつもママが帰ってきたら私に聞くことだった。そして私の答えも決まっていた。
「……ママがいないこと」
ママを困らせるのはわかっていても言わずにはいられなかった。この屋敷でただ一つ不満なのはママが留守がちだっていうことだ。
「ママもっと一緒にいて」
そう言うとママは私を強くぎゅっと抱き締めた。
「ああ、本当に可愛いレイ。レイ、愛しているわ。本当よ」
抱き締めて欲しくて私は我儘を言うのだ。こう言えば抱き締めて愛しているって言ってくれるから。抱き締めてと直接言うのはなんだか恥ずかしくて私はこんなやり方をするしかなかった。
(私もママの仕事を手伝えないかなあ……)
でも私は弱いからそれは無理なんだろう。でも大人になれば強くなれるかもしれない。そしたらずっとママと一緒にいられる。どうか大人になったら強くなれますように。そして私はいつも通りママの腕の中で眠ってしまったのだった。
こんな日々が明日も明後日もあると私は信じていた。ママに守られてここで生きていくのだと信じていた。ママに守られてここで生きていく以外の日々を私は知らなかったからだ。
それはママがいつものように突然帰ってきた夜のことだった。ギイとドアの開く音がして私は目を覚ました。夜中にこの部屋に入って来るのはママしかいない。
「ママ……?」
私は目を擦りながら身体を起こした。ママは私の目の前に立っていた。月明かりの中で黒いスーツ姿のママが浮かび上がっていた。表情のない白い容貌は絵本に出てくるお化けのようだと思った。どうしてママを見てそんなことを思ったのかわからない。
ただママはまるでイチを見るかのような目で私を見ていた。今ならわかる。その感情のない目にあったのは「無関心」というものだったことを。私は言い知れぬ不安と恐怖を覚えた。いつも優しさと安心と幸福を与えてくれるママはそこにいなかった。この人はママの皮を被ったお化けじゃないかと思った。その方がはるかに現実味があった。私をガラスのような目でじーっと見ていたママの唇が動いた。その唇が形どった言葉はこうだった。
「飽きたわ」
私はぽかんとママの顔を見上げるしかなかった。なにを言っているのか本当にわからなかった。
「飽きたのよ」
もう一度繰り返した。そしてママは私にくるりと背を向けた。何に飽きたのか全然理解できなかったけど、このまま別れたらもう二度とママには会えないことはわかった。
「待って!」
私はシーツを握り締めながら声を絞り出すように叫んだ。でもママは振り返るどころか足を止めることすらなかった。
「待って、待って、ママ!」
私はベッドから慌てて飛び降りたけど、その時にはママはもうドアの向こうに消えていた。私はドアに走り寄ってそのままドアノブを回して廊下に飛び出した。でもママの姿は既になかった。私はママが完全にいなくなったことがわかるとドアを閉めて部屋に戻った。どうして追いかけることをせずにそんなことをしたのか説明ができない。ただ追いかけても無駄だということをわかっていたのかもしれない。そう、私はママに置いていかれたのだ。
部屋に戻った私は薔薇のREIの前で立ち尽くしていた。月の光の中でぼんやりと咲き誇るREIは七色の輝きを放っていた。私はREIに手を伸ばし、ぐしゃりと花弁を握り潰した。その瞬間断末魔のようにREIから甘ったるい芳香がぶわっと広がった。棘で傷ついた私の掌から滲んだ血の匂いは薔薇の香りでかき消された。だから私は自分が怪我したことすら気付くことはなかった。
この時私は一度死んだのだと思う。だってママがいない世界では私は生きていけないのだから。ママが守ってくれないと私は何もできないのだ。外の世界は怖いものばかりで弱い私は生きていけない。これからどうすればいいのかということすらも私は考えることができなかった。掌を開くとぐしゃぐしゃに潰れた薔薇の花弁が絨毯の上にバラバラと舞い散った。
私はベッドの上に座って月を見ていた。その時の月の形だけは何故かよく覚えている。いつまでもいつまでも膝を抱えて私は夜空の月を見ていた。月の位置が徐々に下方に向かっていった頃だった。
それは本能としか言いようがなかった。音も何もなかった。ただ薔薇の芳香と眠ったような月光だけが静かに部屋に充満していた。それでも私の身体は動いた。死んだ心とは裏腹に身体だけはすっくとベッドの上に立ち上がった。ぎしりと音のなかった部屋にベッドのスプリングの音が響いた。
それとほぼ同時だった。ドアが開き音もなく見たことのない黒い人間がぬるりと蛇のように入ってきた。それを認識した瞬間無数の「何か」が私に襲いかかってきた。私は姿勢を低くし、雄たけびを上げることもなくベッドを蹴って一気に部屋を走った。私の頭上をその「何か」が物凄いスピードで部屋の空気を切り裂いていく。背後で窓ガラスの割れる激しい音がする。
それでも私の身体と足は動きを止めることはなかった。まっしぐらにその黒い人間の懐に入ると勢いのまま鳩尾に拳を叩き込んだ。そいつは呻き声を上げてその場に崩れた。こんな力が自分にあったことに私は驚くこともなかった。頭の中には何もなかった。強いて言えば波一つない湖面のように穏やかですらあった。
――――― 敵はまだいるぞ ―――――
誰かがひっそりと耳元で囁く。そうだ、と私は思った。敵を殺さなければ。一人残らず殺さなければ。ぶわりと何もなかった心に「殺意」が膨らんだ。
「子供だ!子供だぞ」
黒い誰かがそう叫ぶ。私は倒れ伏した人間の直ぐ横にいた男に身体ごとぶつかっていった。男がほんの少しだけよろめいた瞬間に腰の拳銃を抜き取った。その時の私はそれを本でしかしらなかった。でもそれで十分だった。引き金を引けば敵を殺せるということを知ってさえいればよかった。
私は男の頭に向かって引き金を引く。銃弾は男が頭を傾けたことで僅かにそれた。私は再度照準を合わせようとしたが反動で身体がふらついていた。男の動きは早かった。私の手首を捩じり上げ、拳銃が滑り落ちた。絨毯の上に鉄の武器はごとんと転がる。
「くそっ!」
暴れるが男の手は強過ぎてどうにもできなかった。さらにもう一方の手首もまとめて掴まれた。私はそのまま絨毯の上に叩きつけられ、首に針のようなものがぶすりと刺さる。そして私は恐怖など感じる暇もなく意識を失った。最後の最後まで薔薇の香りだけが鼻の奥をくすぐっていた。薔薇の香りを疎ましく感じたのはそれが初めてのことだった。
目を覚ますと視界は真っ白だった。視線を彷徨わせると直ぐ傍に男が座っていた。見た瞬間、あの時の男だと私は直ぐにわかった。私は咄嗟に身体を起こそうとしたが全く動かなかった。慌てて身体を見下ろすとベルトのようなもので腕も足も拘束されていた。
「これを外しなさい!」
私は必死に拘束を解こうとしたがそれはびくともしなかった。ただ芋虫のようにもがくだけだった。
「レイ君、落ち着いて。暴れるのはわかっていたので悪いが拘束させてもらったよ。君を殺そうとかそんな物騒なことは考えていないから安心してくれ」
男は低い声で言ったがそれで落ち着けるはずも安心できるはずもなかった。悪いと思っているならこの拘束を外せ。
「うるさい!あんたは誰!私をどうする気なの」
「私は烏間二郎という、日本人だ。事情はここにいるイチ君から聞いたよ」
「レイ様、どうか落ち着いて烏間さんの言うことを聞いて下さい」
男のことしか目に入っていなかった私はこの時ようやくイチも部屋にいることに気付いた。
「イチ!これはどういうことなの!」
首を必死に伸ばして私はイチを怒鳴りつけた。
「烏間さんが全部説明してくれますから」
イチはそう言って自分からは何も話そうとはしなかった。私はぎりりと奥歯を噛み締めるとぎろりと烏間という男を睨みつけた。暴れたところで無駄だということがわかった私にできることはそれしかなかったのだ。
「いい目をしているな、私は君みたいな目の人間が好きだ」
烏間は何故か満足したように笑って頷いた。
「まずは私のことを話そう。さっきも言った通り私は烏間二郎という。特別特殊捕獲官、通称シャスールを仕事にしている」
「仕事……」
仕事という言葉にママのことが思い浮かんだ。私を置いていったママはどこに行ったのだろうか。私の零した言葉をどう受け取ったのか、烏間は話を続けた。
「私たちの仕事は『賞金首』と言われる人間を捕らえ……場合によっては殺すことだ」
「賞金首……?」
「そう、暗殺者やテロリスト、その他世界中で問題になっている悪党たちのことだ」
それから烏間は一呼吸置いてから言った。
「レイ君、君のママはその賞金首だ。それもランキング一位のな。我々はアンノウンと呼んでいる。私たちはようやく彼女の拠点の一つである君の屋敷を見つけてアンノウンを暗殺するためにやって来た」
「え?なんで」
この烏間という男の言っていることは何もかもさっぱり理解が追いつかなかったが今のが一番わからなかった。
「だってママのお仕事は外の世界の怖いものをやっつけることだって言っていた!そうよ、あんたらが外の怖いものなんでしょ!なんでママが悪党なんだ。悪党なのはあんたらでしょ!」
この部屋で目を覚ました時からの疑問が一気に噴き出してきた。ベッドの上でもがきながら私は喉が裂けるほどに絶叫した。
「レイ様、落ち着いて烏間さんの言うことを聞いて下さい」
イチは私の手を押さえて必死な声でそう言った。
「うるさい!その手を離せ!」
腕を動かせないので怒鳴るしかなかった。それでもイチは手を離そうとしない。
「私の命令が聞けないの!」
「烏間さんの話を聞いて下さったら離します」
それは初めてのイチの反抗だった。
「イチ……」
一体自分の身になにが起きているのか私はただただ混乱するばかりだった。
「では話しの続きをしよう」
私の気持ちを置いてけぼりにして烏間は再び話し始めた。
「まず、君のママ、アンノウンについてだが……」
そこまで聞いて私は我に返る。突然氷水をバケツ一杯ぶっかけられた気分だった。ママを暗殺するためにやって来たと言っていた。まさか……
「ママ、ママはどうしたの!どこに行ったの?殺したの?」
その問いに烏間は酷く冷ややかに回答した。
「私たちにとって残念なことに君のママは逃げた後だった。私たちが屋敷に来た時にいたのは君とイチ君だけだった。他の使用人たちは全員殺されていた。どうして君たちが殺されなかったのかはわからない。子供だったからか、それとも他の理由があったのか。理由を知っているのはアンノウンだけだろうな」
私とイチを子供と言いながら烏丸の言動は子供へのそれではなかった。
「レイ君、君がアンノウンの娘だということはイチ君から聞いた。部下たちは信じられなかったようだが、私は違う。君が見せた身体能力、それに私の直感が告げている。君がアンノウンの実子だということは間違いない」
「当たり前よ、私はママの娘に決まっている!」
私がそう反論すると烏間は一蹴して言った。
「君を置いて逃げたアンノウンをまだそこまで慕うのかい?」
烏丸は私を馬鹿にしたように笑った。いかにも愉快そうに。不愉快そうに。
「ママは私を置いて逃げたんじゃ……」
「逃げたんじゃない」そう言おうとしたけれど言葉が続くことはなかった。脳裏に昨夜のママの姿がフラッシュバックする。薄暗いほのかな月明かりの中に浮かぶママのマネキンのような白い顔。そして「飽きたわ」という独り言のような言葉。
(ああ、あれは……)
私に飽きたんだ。あれは私に飽きたという意味だったんだ。私はそう突如として理解した。私が古い人形に飽きたようにママも私に飽きたんだ。だから私を捨ててあの屋敷を出て行ったんだ。そのことに気付いた私はしばし茫然自失となっていた。烏間は何も言わなかった。私が話すのを待っているようだった。私は乾いた舌を回してなんとか言葉を紡いだ。
「……ママは、私を捨てたの?」
そう、遊び飽きた人形を捨てるように。
「そうだ」
烏間は簡潔に答えた。何を当たり前のことを聞くのかとどこか馬鹿にした様子ですらあった。私は黙り込む他なかった。私は頭の中が真っ白だった。ママがいないと生きていけないのに、ママに捨てられた自分はどうすればいいのだろうか。ママに守られる以外生きていく術を私は知らない。
何もかもママが与えてくれたもので生きてきた。家もご飯も洋服も、人形も玩具も遊び相手のイチも。今の私は何も持っていないのだ。放心する私に構うことなく烏間は淡々と告げてきた。
「さてレイ君これからだが、保護された君は養護施設に送られそこで暮らすことになる。だがそれ以外の選択肢もある。私としてはこちらの選択を取って欲しい」
「……それはどんなものですか?」
イチが烏間に不安気に問う。
「私と同じ特別特殊捕獲官、シャスールになる道だ」
「……!それは」
イチが絶句する。私は烏間が言っている意味がわからなかった。
「シャスールになるための育成機関がある。試験はあるがレイ君のポテンシャルならまず問題ないはずだ」
「レイ様にそんな危険に飛び込ませる真似をさせるのですか!?」
イチは怒りを滲ませた声で烏間に抗議した。
「まあ、落ち着きたまえ。決めるのはレイ君だろう。まずは私の話を聞きたまえ」
しぶしぶといった感じでイチはとりあえず一歩下がった。
「理由は二つある。まずはレイ君の秘めた身体能力と戦闘センスだ。私の部下に一撃を加え、私も殺しかけた。勘違いしないで欲しい。怒っているわけではない。むしろ感嘆した。なんの訓練も受けておらず実戦経験もない子供がそこまで戦えたことに。このレイ君の力をこのまま埋もらせてしまうのは実に勿体ない。その力を生かして社会の害虫どもを倒す一助となって欲しいというのが私の嘘偽りなき気持ちだ」
「二つ目はなんですか……?」
ほとんど聞き流している私に代わってイチが言った。
「レイ君にとっても私にとってもメリットになることだ」
「メリット……?」
イチが訝し気な目を烏間に向ける。
「ああ、レイ君がシャスールになって賞金首を追っていけばいずれアンノウンに出会うことがあるかもしれない。いや、きっと出会うと私は確信している。また会ってみたくはないか?アンノウン、遙セツナに、言いたいことの一つや二つあるだろう」
私はゆるゆるとそこでようやく烏間の方を見た。
「私はアンノウンを殺すために特獲官になった。実の娘である君にアンノウンの方から会いにやって来る可能性もあると思っている。レイ君が特獲官になればその可能性も上がるだろう。実績を上げていけば賞金首の間でも名前を知られるようになっていく。アンノウンが興味を持つようになっても不思議ではない。レイ君は再びアンノウンに会うこともできるし、私もそこを狙うことができる。お互いメリットはあると思うが」
「つまり、レイ様を囮にするということですか!?」
イチが烏間に飛びかからんばかりに激昂する。
「そう言っている」
烏間は表情一つ変えずに言った。
「ふざけるな!」
イチは烏間を殴りつけようとしたが、あっさりと烏間に片手で押さえ込まれた。イチは苦痛から呻き声を上げた。
「イチを離して。それからイチ、決めるのはあんたじゃない。私よ」
烏間はあっさりとイチを離した。暴れたところでどうとでもなるということなのだろう。イチは悔しそうに烏間を睨みつたが直ぐに私の枕もとに駆け寄った。
「まさか烏間さん言う通りシャスールになるつもりですか!?」
そんなイチを無視して私は烏間に問いた。
「どうしてあんたはママを追っているの?」
その問いに烏間は飄々とした表情を一瞬だけ強張らせた。
「家族をアンノウンの起こしたテロで殺された。警官だった私は特獲官になった。それだけだ。それで十分だろう」
それ以上は言う必要はないというように烏間は口を閉ざした。私もそれ以上聞くことはなく、一言で答えた。
「わかった」
「レイ様!?」
慌てたようにイチが私の顔を覗き込む。
「でも考える時間が欲しい」
「そうだな、時間は必要だろう。色んなことが立て続けに起きたんだ。混乱していることだろう。整理する時間も欲しいだろう。納得いくまで考えてくれたまえ。レイ君が結論を出すまで私もここに逗留するのでいつでも呼んでくれ」
そう言って烏間はスチールの椅子から立ち上がった。
「ああ、言い忘れていたが」
烏間は私の顔を見下ろしながら言った。
「もし特獲官にとなって賞金首のアンノウンに会った時、それは君が彼女を殺す時だということだけは覚悟するように」
そう言って烏間は私の拘束具のベルトに手をかける。
「もう拘束は必要ないだろう。後で食事を運ばせるからイチ君と一緒に食べなさい」
そう言うと烏間は私の拘束を解いて部屋を出て行った。けれど私は動けなかった。ただ天井を見つめ続けるしかできなかった。そんな私を不安に思ったのだろう。イチが声をかけてきた。
「レイ様……」
「黙って」
私は一言そう言った。今は一人静かに考えたかった。イチは黙り込んで椅子に座った。それから私は白い天井を見続けた。どのくらい見ていたのかわからない。それから結論を出すまでの記憶がほとんどない。ほんの一日だったのかもしれないし、一月以上経っていたのかもしれない。
天井にママの姿を思い浮かべて私はただただ壊れたレコードのようにぐるぐると考え続けた。考えていたことはママが賞金首というとんでもない悪党だったことじゃなかった。そのことに関しての実感は今の私にはなかった。考えていたことはママが私を捨てたというたった一つの事実だった。それがわかっているたった一つの確かなことだった。
(ママは私を捨てた……)
それに格別のショックを受けていたわけではないことに私はふと気付く。ショックだったのは自分はママにとっては人形だったこと。ママにとって私に優しくするのは人形遊びだったのだ。だから私が古い人形を飽きたと言って捨てたように、私に飽きたママも私を捨てたのだ。
ずっとママの娘だと思っていた。でもそうじゃなかった。私はママが飽きるまで可愛がられるだけの人形だったのだ。そんな今の私はゴミ捨て場に放棄された薄汚れた人形だ。そう悟った瞬間、足の先から頭の天辺までぶわっと燃えるような感覚に襲われた。そして臓腑の底から声のない咆哮を上げた。
(ママに、アンノウンに、遙セツナに会わなければ)
そして、
(殺さなければ!)
さもなくば私はいつまで経っても打ち捨てられた人形でしかない。一度死んだ私が本当に生まれ変わるためにはママを、アンノウンを殺すしかないと思った。そう、アンノウンが生きている限り私は支配され続ける弄ばれる人形。その呪縛の鎖を引き千切るためには私がアンノウンを殺すしかない。それで初めて自分が人間になれるのだ。
それを心底思い知った時、私は声も上げずに泣いた。記憶にある限り泣いたのは生まれて初めてだった。涙と共に怒り、悲しみ、憎悪を目から垂れ流した。こんな感情が自分の中にあることをこれも初めて知った。
一晩中泣いた次の日私は烏間に会うことを決めた。烏間は真っ赤に腫れた私の目を見てもなにも言わなかった。
「結論は出たのかね」
ただそう聞いただけだった。
「ええ」
私は真っすぐに烏間を見て言った。
「シャスールに、特獲官になる。なってアンノウンを殺す。言いたいことなどない。殺す。それだけだ」
烏間はしばらく私の目を見ていたが、やがて満足そうに頷いた。
「よかろう」
烏間がそう言うとイチは諦めたようにため息をついた。
「こうなる予感はしていました」
「ええ、私は特獲官になる。イチとはこれでお別れ。まあ、好きに生きて」
私がそう言うとイチは首を振った。
「いいえ、レイ様が特獲官になるのなら私もなります」
「は?」
「本気?」
これには烏間も予想外だったようで私たち二人は同時に声を上げた。
「私はレイ様の傍にいなくてはいけませんから」
「イチ、マ……セツナはもういない。私の傍にいる必要はないはずでしょ」
だがイチは躊躇うことなく首を振る。
「いいえ、います。この世界のどこかには。レイ様が出会うその日まで私はレイ様を守るため傍を離れるわけにはいきません」
イチは頑として譲らなかった。
「いいだろう、イチ君」
了承したのは烏間だった。
「一人ぼっちより知っている人間がいた方がレイ君も心強いだろうからな。ただし適正試験に受からなければ育成機関に入ることはできない。それはわかってくれ」
「わかりました。ありがとうございます。頑張ります」
元気よく頭を下げたイチの傍で私は忌々しく思っていた。イチはセツナが私に与えた玩具のようなものだったからだ。セツナの影があるものから離れて全て新しい環境で始めたかった。
(イチだって私の傍にいるのは嫌なはず……)
私がイチにやりたい放題やっていたことを考えれば当然だ。今ならわかるイチは玩具でも人形でもない。人間なのだと。それなのに何故私の傍にいることに固執するのか私にはわからなかった。わからなかったが、私は強く反対することはできなかった。心のどこかでイチが来てくれることにホッとしていたのも事実だったのだ。情けないことに何もかも一人で受け止めるには私は弱く幼かった。
そして私たち二人は育成機関の適性検査に合格した。私は主に戦闘力の面を評価された。歴代トップの成績で前線に立つ実働部隊員になることが直ぐに決まった。イチは戦闘力こそ適正は低かったが、精神面や知力の高さを評価されサポートや後方支援に当たるための教育がされることになった。
こうして私は特獲官の道を歩むことになった。それは人間として生まれ変わるための第一歩でもあった。私はまだ生まれた雛ですらない、まだほんの卵だった。アンノウンを殺すために孵化するのか、アンノウンを殺して孵化できるのか。どちらでもいい。アンノウンに再会すれば全てわかることだ。
ぬるま湯に浸かっていたような日々と真逆の過酷な訓練の日々だった。それでもその全てがアンノウンに近付くための一歩だと思えば苦しくもなんともなかった。アンノウンを殺す時、それは間違いなく人形の私が「人間」として生まれ変わる時なのだから。
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