第4話




 いつものように学校の屋上でぐっすり寝てオレは自宅のマンションに帰ってきた。今の季節はいいが、そろそろ梅雨になる。そしたら酷暑続きの夏が来る。だから今のうちに屋上で寝ておかなければならない。授業なんて受けている場合ではないのだ。それに今日は金曜日だしな。コインは表のラッキーデーだけあって、大変気持ちよく眠れた。

 よく寝たおかげでオレは上機嫌で自分の部屋へと向かった。だがドアの前で鍵を取り出した時に異変に気付いた。ドアの向こうから人の気配がするのだ。オレはサッと後ずさりドアの横の壁に張り付いた。このマンションはかなりセキュリティが高い。だから部屋まで侵入しているということは間違いなくただ者ではないのだ。この部屋に勝手に入れる人間は局長とイチだ。だが二人とも連絡なしで入ることはない。

 オレは本能的に腰のナイフに手を伸ばした。その時だった。オレのスマホが小さく震えた。メールの通知だ。オレが通知をオンにしているのは局長とイチだ。

(たくっ、こんな時に……!)

 こんな場合だ、いつものオレなら無視するところだが、虫の知らせというのだろうか。オレはどうしてか反射的にポケットからスマホを取り出していた。メールはイチからだった。

『侵入者ではありません。お客様ですのでご安心を』

 それだけの簡潔な文章だった。オレが家に戻る時間を見越してメールを送ってきたのは明白だ。

「……客?」

 イチが安心と言う以上少なくとも相手はオレに害なす奴ではないらしい。

(しかし一体誰だ……)

 そう考えた瞬間何故か嫌な予感がした。経験上オレのこういう勘はほぼ外れない。さもなくば特獲官なんかやってられないというものだ。腰の辺りからぞわぞわした悪寒がせり上がって気持ちの悪い汗が背筋を伝った。

 オレがドアを開けるのを躊躇っていると内側から鍵が開けられる音がした。オレは咄嗟に臨戦態勢になる。最早それは職業病だ。思わず息まで潜めてしまう。そしてゆっくりとドアが開かれた。

(……!?)

 そこから顔を出したのはつい一か月前まで毎日顔を見合わせていた人物だった。

「……アリス」

 ただし印象は全く違う。目を隠すほど長かった前髪はばっさり切られ、伊達眼鏡も外している。次元の違う美しい顔を惜しげもなく晒している。服も喪服のような黒ではなく初夏らしい水色のワンピースだ。アリスの素顔を知らなかったなら直ぐに彼女だと気付かなかったかもしれない。

「あ、レイさん。お帰りなさい」

 そんなオレになんでもないことのようにアリスは言った。なんでここにいるんだ?どうやってここに入った?聞きたいことが泉のごとく湧いてくる。だがアリスはそんなオレを銀河系の彼方に追いやって、弾むような声で話し続ける。

「直ぐに夕食にできますよ。あ、でも夕食はまだ早いですね。そじゃあお茶にしましょうか。マドレーヌを焼いたんです。甘いもの好きそうでしたので。……あの、間違っていましたか?」

 オレが黙ったままなので不安になったのだろう。少し声のトーンが下がった。

「あー、いや。オレが屋敷にいる間、菓子を食っていたのを見てたろ。むしろ好きな方だ」

「そうですよね、良かった」

 アリスは安心したように胸を押さえた。

「じゃあ紅茶を淹れますから、お茶にしましょう。松岡さんに教えてもらったので料理は得意なんです」

「それは期待できるな」

 いや、オレはなにを言っているんだ。聞きたいのはそうじゃないだろ。

「さあ、入って下さい」

 アリスはそう言って部屋に入るようにオレを促した。……ここはオレの部屋なんだが。オレはアリスに続いて部屋に入った。そして直ぐに違和感を感じた。明らかに床が綺麗になっているのだ。床を見回すオレに気付いたアリスが説明してくれた。

「あ、掃除をさせていただきました。物が少ないので直ぐに終わりました」

 はきはきとどこか嬉しそうな声でアリスは言う。

「いや、そうじゃねえだろ」

 オレはアリスに詰め寄った。

「なんでここにいるんだ?どうやって入った?」

 オレは若干睨みを効かせた。だがアリスは首を傾げて言う。

「イチさんや局長さんから聞いていないんですか?」

「はあ!?」

 全くの初耳だ。

「その様子だと知らなかったんですね」

「おい、話せよ」

 思わずアリスの肩を掴んだ。

「はい。私は今日からレイさんと一緒に生活することになりました」

 オレの前で艶やかな美少女の笑顔が花開いた。

「はああああ!?」

 突拍子のない声を上げたオレにアリスは頓珍漢な回答をする。

「大丈夫です。局長さんから許可を得ていますし、既に転校手続きも済ませています。必要な荷物も持ってきていますのでなにも問題はありません」

 いや、問題あり過ぎだろう。どう考えても。なにしろ家主であるオレの了承を得ていない。話すら聞いていない。オレは頭痛がイタイ状態の頭を押さえながら局長に電話をした。ワンコールで直ぐに局長は出た。オレが連絡してくるのを知っていたに違いない。

『烏間だ』

 直通回線は限られた内部の人間しか知らないので局長は組織名や役職名を言うことはない。

「オレだ」

『レイか。お前から電話してくるのは珍しいな。何の用だ』

 全く白々しい。何もかも知っているくせに。いやそれどころか元凶だ。

「なんでアリスがここにいるんだ!」

『おや?アリスから聞いていないのかい』

 どことなく面白そうに局長は言った。

「聞いたぜ!オレと一緒に暮らすだと?局長から許可を取ったと!どういうことだ」

 オレは大声でまくし立てた。

『その通りだ。アリス嬢はレイと暮らしたいと言ってきてね。特に問題はないと判断した。桜蘭女学院には当分通えないしな。それに君の怠惰な生活を立て直してくれると思った』

「は?このお嬢様に何ができるんだよ」

 洗濯機の回し方すら知らなそうなのに。

『執事の鬼瓦さんから最低限の家事は教わっているそうだ』

「マジかよ!爺さんが!」

『何よりあんな事件があったばかりだ。アリス嬢はまだ不安だそうだ。つまりボディーガード続行というわけだ』

「な……!」

『君に選択権はない。これは命令だ。八幡川財閥の総帥を守るという任務だ』

「ふざけんな!」

 もう局長と話していても埒が明かないとオレは判断した。

「アリスに直接聞く!」

『既に聞いたんじゃなかったのか?』

「うるせえ!」

 スマホの液晶も割れんばかりにオレは通話をオフにした。くそっ、今日はラッキーデーのはずじゃなかったのか。

「アリス」

 オレと局長の話を聞いていたはずなのにアリスは朗らかに返事をした。

「はい」

「オレの家に住むなんてオレは聞いていないぞ」

「そうだったんですか……でも今聞きましたし、それについては問題ないですよね」

 なんでそうなる!

「いや、大ありだ!駄目だ、絶対駄目だ。家主のオレが言っているんだから駄目だ」

 オレはきっぱりと言った。

「でもこのマンションは局長さん名義でしょう。つまり家主は局長さんになりますよね。その局長さんの許可を取っていますからやっぱり問題はないと思います」

「……うっ」

 そこを突かれると弱い。ここのマンション名義は確かに局長の烏間なのだから。更にアリスは畳みかけてきた。

「それに桜蘭女学院には当分通えません。でも学校には行きたいですし。それになにより命を狙われたばかりで不安があります。ならずっとレイさんと一緒にいた方が安全だと判断したわけです。ここで暮らしてレイさんの通っている数多高等学校に通うことで隠れ蓑にもなりますし。人を隠すには人の中です。あ、ボディーガードを続行していただくことになるので報酬は勿論お支払いいたします」

 アリスは饒舌にぺらぺらとしゃべった。あんなにろくすっぽ自分の意見を言えなかった少女とは思えなかった。ボディーガードをしていた時も別人のように変わったが、その比じゃない。言ってみれば異星人だ。人間はこうも短期間で変わるのかとオレは半ば感心した。いや、今は感心している場合じゃない。オレの自由で自堕落な生活が脅かされそうなのだ。オレは必死に反論を考えた。

「そ、そうだ!八幡川財閥の総帥になったんだろ」

「はい、レイさんのおかげで無事になりました」

「だろ、なら総帥の仕事で忙しいんじゃないか?まだなったばっかだしやることが山のようにあるだろ」

 そうだ、そうに違いない。だが縋った藁は空しく沈んだ。

「あら、レイさん。今はネット環境があれば世界の裏であっても仕事はできるんですよ」

 アリスはスマホ片手ににっこり笑った。

「それに祖父が生きていた頃から仕事を手伝っていたので、仕事そのものは総帥になっても今までとそう変わりませんから大丈夫です!」

 ガッツポースを取るアリスにオレは脱力する他なかった。つまりはボディーガード続行ということだ。局長が許可するわけだとオレは項垂れた。


 アリスに淹れてもらった紅茶を飲みながらオレはアリスに聞いた。ちなみにダイニングテーブルというものはオレんちにはないので、小さな折り畳み式テーブルだ。ついでに言うならこのティーセットもアリスが持ってきたものだった。

「伊達眼鏡はどうしたんだ?前髪まで切っちまって」

 美少女っぷりがあまりにも眩し過ぎる。アリスははにかむように微笑んで答えた。

「前にも言った通り私は他人の視線が怖かったんです。それで顔を隠すようにしていました。でもレイさんに『あんたのせいじゃない』と言われた時に気付いたんです」

「何に?」

「私はずっとなにもかも自分が生まれてきたせいだと思い込んでいたことに」

「……」

 オレは紅茶のカップをテーブルに置いた。

「私はずっと思っていました。私さえいなければ誰もが幸せになれたかもしれないのにって。叔父様たちもああはならなかったかもしれない。全部全部私のせいなんだって。私は邪魔な子なんだ。そう邪魔な私さえいなければ……」

 オレは怒鳴りつけたい気分をぐっと我慢してアリスの話の続きを待った。

「だから私は顔を隠していたんです。顔向けできなかったから。少しでも目立ちたくなかったんです。怖かったんです。そう言い訳して逃げていたんです。そのことにレイさんは気付かせてくれました。なんでもかんでも自分のせいだって逃げるのは簡単だけどそれは傲慢なんだって」

 オレはそこまで深く考えて言ったわけじゃない。ただ自分のせいだと言ってなんでもかんでもしょい込むアリスにどうしようもなくイライラしてただけだ。だがそれを言う必要はないだろう。少なくともあの鬱陶しい陰気な表情よりはマシになったのだから。だからオレは一言こう言った。

「ふん、こっちの方がいいぜ。さっぱりしていて」

 アリスは嬉しそうに笑った。笑うと美少女っぷりに磨きがかかる。モデルでもこれほどまでの美少女はそうそういないだろう。オレは目のやり場に困ってテーブルにちょこんと置かれたマドレーヌに手を伸ばしかぶりついた。ごくん。

「…………」

「あの、口に合いませんでしたか?」

 不安そうにアリスがオレに尋ねてきた。それに対して、オレは……

「うまああああああああい!」

 なんだこれ、なんだこれ。こんな美味い菓子食ったことがない。

「本当ですか?」

 アリスはぽむぽむと身体をゴムまりのように弾ませて嬉しさを表していたが、オレはそれに呆れる暇もない。気付けば三個あったマドレーヌは全てオレの腹の中に収まっていた。

「どんな店のものより美味い!」

「本当ですか!松岡さんに教えてもらって良かった」

 更にアリスは身体を弾ませた。クッションから身体が今にも浮きそうだ。

「私毎日作りますね」

「マジか!?」

 思わず歓喜の声を上げてしまう。一緒に暮らせば毎日こんな美味い菓子を食えるのか。

(それは悪くな……)

 あ、いやいや。命令されたから嫌々一緒に住むだけだからな。仕事の延長だからな。胃袋を早々に掴まれそうになったオレは心の中でぶんぶんと首を振る。

「明日はパンケーキを作りますね。ストロベリーソースの。それとも和菓子にしましょうか」

(……ヤバいかもしれん)

 オレの胃袋という城壁は突破される寸前なのは明らかだった。果たして今日はコイントス通りラッキーデーなのかそれともアンラッキーデーなのか。


 

 アリスの転校日は早速次の日だった。ちなみに朝食にアリスが作ってくれたパンケーキはこれまた悔し涙が出るほど美味かった。おまけにカフェで出てくるような愛らしい見た目だった。ふわふわで口の中でとろけるように柔らかく、そしてストロベリーソースがマッチして文字通りほっぺが落ちるようだった。ついでに言うなら昨日の夜はハンバーグでこれまたデミグラスソースが絶品であった。早くもオレの胃袋は陥落しかかっていた。もしかしてこれはアリスの策略なのだろうか。だとしたらこんなに恐ろしい作戦はない。

 昼休みになると興味津々のクラスメイトたちを躱しながらアリスが真っすぐオレのところにやって来た。弁当箱を抱えて。

「お弁当を作ってきたんです。一緒に食べてくれますか?」

「お、おう」

 断れない自分が憎い。何より腹の虫を鳴らしたオレの胃袋が恨めしい。弁当が見た目も味も完璧だったのは言うまでもない。


 帰る場所が同じなので当たり前だが帰宅も一緒だ。てくてくとなんの変哲もない商店街を歩く。商店街が寂れる一向のこのご時世だがここは結構頑張っている。駅と駅を繋いでいるため客足が多いのもその一因を担っているのだろう。

「うん?どうした」

 アリスが珍しそうにきょろきょろしている。ちなみにアリスをじろじろ見る周囲の連中が鬱陶しい。片っ端から睨みつけて追っ払っているが全くきりがない。

「いえ、こういう道を歩いたことないので珍しくて」

 ああ、そうか。納得した。アリスのような人間がこんな庶民のための商店街に来るわけもない。そもそも外を出歩くことがほとんどなかったんだろう。

「ふーん、じゃあ少しぶらつくか」

 オレがそう言うとアリスはとてもわかりやすく嬉しそうに頷いた。

「そんな大したものはないさ。安さが売りだけのありきたりの商店街だからな」

 オレがそう言うとアリスはぶんぶんと勢いよく首を振った。

「そんなことはありません。レイさんと一緒ならどこだって楽しいに決まっています」

 どういう根拠なのかわからないが、きっぱり言うアリスにオレは「お、おう……」と若干引き気味に返事をする他なかった。

 最初に入った店はこの商店街で唯一残っているタピオカ屋だ。一時期は歩けばタピオカ屋に当たるという感じだったが、ブームが過ぎると一店また一店と撤退していった。この店も近いうちになくなるだろう。オレは別にタピオカが好きだったわけじゃないが、アリスにはとりあえず流行りのもの(ただし過去形)を買っておけば外れはないだろうと思ったからだ。

 買ったのは定番のタピオカ入りミルクティー。「オレの奢りだ」と言ってアリスにカップを渡した。アリスは興味津々という風にカップを見つめている。

「温くなると不味くなるぞ」

 オレがそう言うとアリスは意を決したようにぱくっとストローを咥えた。そしてちゅうちゅうとミルクティーと共にタピオカを吸い上げる。その様子があまりにも必死だったのでオレは「ははっ」と笑ってしまった。

「なんか、形容するのが難しいのですけど。もちもちして甘くてつるんとして美味しいです」

「そうかぁ?甘ったるいだけだと思うけどな」

 この安っぽい甘さが売りだけの飲み物が舌の肥えたアリスの口に合うとは思えなかった。

「いいえ、レイさんに買ってもらったものですから美味しいに決まっています」

 もうオレはなんと返事をしていいのかもわからずミルクティーを啜った。どう考えてもチープな甘さしかしなかった。やたらとオレに懐くようになってしまったアリスとどう接していけばいいのかわからない。

「ええと……」

 キラキラした目でオレを見つめるアリスから逃げるようにオレは辺りを見回す。タピオカだけではどうも場が持たなくなってきたのだ。何かアリスの好奇心を引くようなものはないかと探すとゲーセンが目に飛び込んできた。店頭には目立つようにUFOキャッチャーが置いてある。

(う……!)

オレは目が釘付けになった。挑戦し続けているが未だに攻略できていないくまちゃんのぬいぐるみがあったからだ。しかもかなり高ポジション。オレの視力を誤魔化すことはできない。

「あ、ゲームセンターですか」

 アリスの声に我に返る。

「し、知っているのか?」

 彼女がゲーセンを知っているのは意外だった。

「はい!何度か遊びに行ったことがあります」

 更に意外だった。

「行きましょう」

 オレが何かを言う前にアリスはオレの袖をぐいぐい引っ張った。

「そ、そうだな……」

 くまちゃんの魅力には勝てずにオレはずるずると引きずられていった。どうする?どうする、オレ。

(そ、そうだ!)

 オレは名案を思いついた。アリスのためだ。アリスを喜ばすためだ。遊びに来たことがあるならゲーセンが好きに違いない。そうだ、そうしよう。うんそれがいい。

「よし、UFOキャッチャーやろうぜ」

 オレを引っ張るアリスを逆に引っ張り返して、UFOキャッチャーの前に連れて行った。

「よし!やるぞ」

 目の前にはくまちゃんがガラスの瞳であどけなくオレを見て誘っている。オレは意気揚々とコイン投入口に小銭を投げるように入れた。しかし、三回のチャレンジは空しく終わった。だがこんなことはよくあること。一度で成功する方が珍しいってもんだ。オレは再度小銭を投げ入れた。

「よし!いけいけ!」

 クレーンに上手く紐を引っかけられた。くまちゃん、今ここから出してやるからな。数分後にはこの可愛いくまちゃんがオレの手の中だと思うと心臓は鼓動を速めた。最早頭の中がくまちゃん一色になって隣にいるはずのアリスのことをすっかり忘れていた。だから声をかけられた時は飛び上がるほど驚いてしまった。局長辺りがいたら特獲官失格と言われてもおかしくないだろうほどその時のオレは滑稽だったろう。

「レイさん」

「ひゃっ!」

 唐突に黙って隣に立っていたアリスがオレの名を呼んだ。

「な、なんだ?」

 別の意味で心拍数の上がった心臓を押さえながらオレはアリスに返事をした。

「それじゃあ、ぬいぐるみは取れませんよ」

 アリスはケースを指差して言った。

「は?いや、もう少しでいけるだろ」

 オレは言い返したがアリスは首を振った。

「いいえ、どう計算してもその角度で続ける限り無理です」

 やたらときっぱり言うアリスにオレは些かムッとした。

「そこまで言うなら、アリスがやってみたらどうだ?ゲーセンに来たことがあるならUFOキャッチャーもやったことあるんだろ」

「数えるほどですが……」

「なんだよ、オレのやり方が無理って言い切るならあんたなら取れるんだろ」

 オレはぐいぐいとアリスの背を押した。オレはアリスが逃げられないように、とっととコイン投入口に小銭を入れてしまった。アリスはしぶしぶというようにケースの中のくまちゃんを覗き込む。アリスは何やら考えながらぶつぶつ言うとボタンを押した。

「ここは……こう……そしてこうして……こう」

 そして数分後くまちゃんはオレの手の中にあった。可愛い、予想以上に可愛い。ふかふかで手触りも抜群だ。これが自分の取ったものだったら文句はなかっただろう。しかし。

「嘘だろ……」

 まるで魔法のようだった。アリスがボタンを押す度に確実にくまちゃんがシューターに近付いていくのがわかった。全く無駄のない動きにオレは感心する他なかった。

「アリス、数えるほどとか言っていたが……それ嘘だろ」

 どう考えてもアリスのそれは熟練のクレーンゲームの経験者だ。数度遊んだだけとは思えない。

「いいえ、本当です。UFOキャッチャーは三回しかやったことはありません」

「嘘つけ!じゃあどうやったんだよ」

 オレが嘘つき呼ばわりしてもアリスは怒ることはなかった。

「見ての通りですよ。ぬいぐるみの位置から角度、方向を計算してクレーンを動かしただけです。計算が正しければあらかじめ結果はわかりますから」

 アリスの脳内コンピューターではオレの想像外のことがシミュレーションされていたらしい。

「すげえな、アリスは」

 ぽつりと素直な感想が漏れた。

「三回もやっていれば当然です」

 こともなげにアリスは言うが、普通は三回くらいでは感覚は掴めない。いや、アリスは計算と言っている。それは経験から培われる感覚というものとは真逆のものなのだろう。普通人間は経験を重ねてそこから至る結果を想像できるようになる。けれどアリスは経験則などというものは必要としないのだ。必要なデータさえあればそこから演算によって結果を予想するこができるのだ。

「それは普通、当然とは言わねえんだがな……」

 オレは小声でそう零す。

「なにかおっしゃいましたか?」

「あ、いや。なんでもねえ。しかしよくゲーセンなんか来れたな?屋敷から自由に出られないと思っていたぜ」

 オレは話題を変えることにした。

「ええ、実はゲームが好きなんです。だからゲームセンターに来てみたくて耕三さんにお願いしたんです」

「ふ、ふーん」

 あの心配性でやや過保護な執事の顔が脳裏に過る。嫌な予感がした。

「そしたらゲームセンターを貸し切りにしてくれたんです」

「ああ、そう……」

 大体予想通りだった。きっと黒服のボディーガードがぞろぞろいたのは想像に難くない。しかしアリスがゲームを好きというのはこれまた初耳だった。オレは腕の中のくまちゃんに目を落としてハッとした。

「あ、これはアリスのものだな」

 手放したくないくまちゃんだがこれは取ったアリスのものだ。仕方ない。オレは渋々という気持ちを隠しながらオレはくまちゃんをアリスに手渡そうとした。だがアリスは首を振った。

「いえ、それはレイさんのものです」

「いや、これはアリスが取ったものだろ?」

 正直に言えば欲しい、凄く欲しい。文字通り喉から手が出るほど欲しい。だがこのくまちゃんはオレが取ったものじゃない。アリスに返すのが筋というものだ。だがアリスは断った。

「レイさんのお金で取ったものですし、タピオカのお礼だと思って下さい」

「そ、そっか……」

 アリスはなんとしてもオレにくまちゃんをあげたいらしい。タピオカの礼なら筋は通る。アリスはオレが遠慮をしなくていい材料を持ってきた。これならオレはもらわざるを得ない。

「そ、そうか。悪いな」

 口元がだらしなく崩れそうになるのを押さえるのが精一杯だった。つぶらなくまちゃんの瞳と目が合った瞬間、オレはできるだけ自然にふかふかのくまちゃんを抱き締めたのだった。そんなオレにアリスは上機嫌でにこにこと微笑んでいる。

「レイさん可愛いもの好きですよね」

 バレていた。オレの顔から血の気が引く。

「ま、まあ。嫌いじゃねえよ……」

 誤魔化しても無駄そうなのでオレは肯定した。可愛いものが好きなのはオレにとって不本意なことなのだ。できれば可愛いファンシーなものとは無縁の生活を送りたい。けれど見つけるとどうしても欲しくなってしまうのだ。オレは「特別好きってわけじゃ……」と小さく言い訳した。アリスはくすっと笑う。

「折角だからもう少し遊んでいきましょう」

 アリスはそんなオレを気にしたふうもなくゲーセンの奥へと向かう。複数の学校が近くにあるせいか中は学生たちで賑わっていた。アリスはきょろきょろ見ている。どのゲームで遊ぼうか物色しているようだった。ヘーゼル色の瞳は忙しなく動いていて瞳孔が猫のように大きく開かれている。ゲームが好きというのはどうやら本当らしい。

「あ、これ一度やりました!」

 そう言ってアリスは一つのゲーム機を勢いよく指差した。多少興奮しているらしい。オレもやったことがあるシューティングゲームだった。

「凄く面白かったです!」

「遊べばいいじゃねえか」

 オレはくまちゃんを肩に乗せて言った。

「は、はい!」

 アリスはいそいそと椅子に座る。かなり難易度は高かったゲームで、アリスがどこまでやれるのか少し興味があった。ほぼ全ステージの敵配置や攻撃を覚えていなければクリアは難しいゲームだ。一度や二度やっただけでは覚えられるものじゃない。そのはずなのだが……。

「嘘だろ!」

 アリスは残機を使うことなくあっさりとラストステージまで進めてしまった。ラストステージの攻撃は極悪極まりないものだが、針の穴を突くように嵐のような弾幕の攻撃をすいすいと躱していく。そして難なくラスボスも攻略してしまった。

「おいおい、本当に一度やっただけなのかよ」

「はい、一度見れば覚えますから」

 なんのてらいもなくそう言うアリスにオレは舌を巻いた。完全に忘れていたがアリスには百八十という高いIQがあったのだ。オレはアリスの八幡川財閥の総帥としての姿は見たことないが、日本の経済界を動かす大物なのだ。一瞬、アリスが酷く遠く感じられた。

「あー、楽しかった」

 だがそんな気分も目の前で笑うアリスを見てどこかへ霧散した。目の前で笑っているのはその辺で買い食いしている年相応の高校生でしかなかったからだ。


 一通り商店街で遊んでいるといい時間になった。大分日も長くなってきたがそれでも空は茜色に染まっていた。電柱や電線が空に黒い影を作っている。薄っすらと雲がたなびいて怖いくらいに穏やかな初夏の夕暮れだ。オレはふとアリスに聞いてみたくなった。

「なあ、アリス」

「はい」

 にっこり笑ってアリスは返事をした。アリスの白磁の頬がほのかに桜色に染まっている。それが夕焼けのせいなのか他に別に理由があるのかオレにはわからなかった。

「なんでオレと暮らそうと思ったんだ?」

「それはお話した通りです。まだ不安なのでレイさんにボディーガードを続けて欲しくて」

「それ、嘘だろ」

「…………」

 オレが即座にそう言い切るとアリスは沈黙で答えた。沈黙は肯定。つまりはそういうことだ。

「あんたを恨み疎ましく思っていた富次郎たちは捕まった。屋敷は厳重な警備がなされている。屋敷で働いているのは爺さんを始めとして先代から仕えていた身元のしっかりした奴らばかりだ。オレのところにいるよりも安心じゃねえのか。家事みたいな余計なことをする必要もなく総帥の仕事に専念できるんじゃないのか」

 なにか言いたそうなアリスを制してオレは続けた。

「学校だってそうだ。アリスほど頭がよければ学校なんか行く必要ないだろ。むしろ授業なんかつまらないだろ。卒業したければオンライン授業とか今はあるんじゃないのか?」

 アリスの横顔に切なげな色が浮かぶ。日はかなり沈み、太陽が赤く輝き始めていた。アリスの栗色の髪も紅色に染まりつつある。

「それは……」

 夕暮れの湿り気の含んだ風がアリスの髪を揺らす。もう梅雨になるんだなとオレはどうでもいいことを考えた。

「レイさんと一緒に少しでもいたかったから」

「なんでだ?」

「レイさんのことを大好きになったから」

 またふわりとアリスの髪が膨らんだ。

「どうして」

 それはもう気付いていたことだった。アリスはオレを慕っている。彼女はそれを全身で表していた。何故なのか。オレは理由を知りたかった。だがアリスはオレの問いには答えなかった。代わりに幸せそうに微笑む。

「そんな難しいこと聞かないで下さい。人が人を好きになる理由なんて説明できません」

 とてつもなく頭のいい少女はオレの質問を難しいと言い、答えてはくれなかった。

「それじゃあ答えになってないぜ」

「答えられないって答えました」

「なんだよ、それ。はははっ」

 でも何故かオレは笑っていた。オレに釣られるようにアリスも笑う。そうして二人して笑いながら家路に着いた。



 アリスとの生活は意外にも直ぐに慣れた。適応力には自信はあったが、こんなにもあっさりとアリスが私生活に溶け込んでしまったのには驚いた。特獲官になってからずっと一人暮らしのはずだったのに。

 オレは誰かとつるむのが嫌いだ。だから仕事でもチームは組まない。それが許されているのはチーム行動が極端に苦手でも一人でも任務遂行できる能力がオレにはあるからだ。

 自由を愛しているからじゃない。ありもしない自由を愛すことなんてできるわけがない。生まれた時からオレには自由なんてなかったし、実際自活するようになっても自由なんてありはしなかった。

 だからこそできるだけ一人でいたかった。仕事ではどうしても局長や上の指示に従わなくちゃならない、まあ、従わない時も多々あるが。せめてオレはプライベートでは一人でいたかった。私生活ではイチとも会うことはない。友達なんかもっての外だ。だから遊びといえば一人でできるゲームばっかりだ。

 そんなオレなのにアリスとの生活は不愉快ではなかった。アリスは空気のような存在じゃない。オレによく話しかけるし、ちょこまか動く姿は否応なしに視界に入る。一人じゃないと事あるごとに突きつけられる。それなのに不思議なほど嫌じゃなかった。わからない。アリスじゃないがオレは自分のそんな心が一番わからなかった。



 自分でもわからない気持ちを持て余しながらもアリスとの生活は進んでいく。気付けば鬱陶しい梅雨が終わり、更に鬱陶しい酷暑の日々がやって来た。

「あっちぃなあ」

 帰宅途中に堪らず入ったコンビニで買ったアイスコーヒーはとっくに氷が解けて温くなっている。水分補給には多少役に立ってくれていたが火照った身体を冷やしてはくれなかった。もう日が落ちかけているのにこの暑さだ。

「ああ、くそっ」

 もう悪態をつかずにはいられない。オレはマンションの入り口で暗証番号を入力しドアを開けると、冷房を求めて部屋にふらふらと向かう。ちなみに今日はアリスとは別行動だ。どうしても参加しなければならない会議があるそうだ。そういえば先月もそんなことを言って数日屋敷に泊まっていたなと思い出す。まあたまには帰らなければ爺さんも寂しいだろう。

(うちに入り浸り過ぎなんだよな……)

 そういえばアリスはいつまでオレのところにいる気なんだろう。オレは鍵穴に鍵を差し込んだまま動きを止めた。そんなこと考えたこともなかったことに今更気付いたのだ。一生、というわけにはいかないだろう、当たり前だが。

 アリスの気が済むまで、だろう。アリスが命を狙われた事件も次第に遠くなって、周りもうるさくなるに違いない。アリスがうちを出たらもうそんなに会うこともないだろう。そもそも八幡川財閥の総帥と特獲官であるオレとはあまりにも接点がない。むしろそれが普通なのだ。

 アリスがうちから出たら、お互い元の生活に戻るだけの話だ。そんなのはわかり切っている。わからないのはその時のオレの気持ちが想像できないことだ。なにが起こるかわかっているのに自身の気持ちはわからない。アリスが関わるとわからないことだらけな気がする。こんなもやもやした気持ちが続くのはあの日以来初めてのことかもしれない。

(あの日……)

 嫌なことを思い出した。オレは舌打ちする。こんな汗だくになってオレはなにを考えているんだ。さっさと部屋に入って涼もう。冷蔵庫にはキンキンに冷えたアイスが入っている。オレは鍵を回して逃げ込むように部屋に入った。

その瞬間強烈な違和感に襲われる。冷房が効いていたからだ。家を出る時は確かに消したはずだ。タイマーをかけた覚えもない。つまりオレに気配すら感じさせず、オレの部屋に侵入できる人間がここにいる。オレは戦慄する。オレは玄関から動けなかった。

「お帰りなさい、レイ」

 聞き覚えのある声が、いやはっきりと覚えている声がした。オレは声の方向に顔を向けた。それが精一杯だった。指先すら動かせない。声を出そうにもハクハクという犬みたいな息が漏れるばかりだった。そしてリビングのドアが開いてそいつは現れた。

「ママが迎えに来たわよ、私のレイ」

 そう言ってきっちり赤いルージュを塗った唇で微笑んだ。あの時の同じ笑みで。そこにいたのは、当時と変わらない年齢不詳の女。アンノウンであり、オレを生んだ女、遙セツナだった。アンノウンは、セツナは沈みゆく真っ赤な太陽を背にした真っ黒な姿でオレに迫って来る。

『貴様が母親面するな!』

 そう怒鳴ったつもりだったが、やはりオレの口からはハクハクという息が零れただけだった。指どころか舌すらも回らない。

(くそっ、くそっ、こんなはずじゃなかったのに!)

 今日のこの日のためにオレは生きてきたのに。なんのための十年だったんだ。

(動け!動けぇ!頼む動いてくれ!)

 ほんの一瞬、ほんの瞬きほどの時間でいい。それでセツナの首を刈り取ってみせる。ナイフを心臓に突き立ててみせる。

 それなのにオレの身体はオレの言うことを全く聞いちゃくれなかった。

「そんな怖い顔をしないで、レイ。置いていってごめんね。あの時はああする他なかったのよ。ちゃんと迎えに来たのだからご機嫌直してちょうだい。可愛い顔が台無しでしょう」

 困ったようにセツナは幼子をあやすように言う。

「捨てられたと思ったのね。あなたを捨てるなんてあり得ないわ。ちょっとあの時のあなたには飽きただけ。でもまた面白い子になってくれて嬉しいわ。当然よね。レイは私のたった一人の娘なんだから」

 ああ!くそくそ!吐き気がする。反吐が出る。言うな言うな、それを言うな!必死で叫ぶ。声なき声で必死に叫ぶ。でも唇すら動いてくれはしなかった。くそ、オレは違うんだ。十年前のオレとは違うんだ。オレは変わったのに、そのはずだったのに。セツナはゆったりとした動きで歩いてくる。黒いフレアパンツの裾をふんわりと揺らしながら。

「無理しちゃ駄目よ」

 言うな、それを言うな!

「レイは私がいないとなにも出来ないんだから」



『レイは無力な子』

『私がいないとなにもできない』

『レイは私がいないと生きていけない』

『お外は危ないわ、出てはいけないのよ』

『誰よりも世界で一番レイのことをわかっているのはママよ』

『ママだけがレイを理解してあげられる』

『愛しているわよ、レイ』



 セツナに言われ続けた言葉が濁流のようにオレに襲いかかってきた。その言葉はどんな鎖よりもオレをがんじがらめに縛りつけ、どんな楔よりも深く穿たれる。

「あ、うう、ああ」

 ようやく出てきた声は死にかけの犬のような呻き声。もう目の前にセツナは立っていた。

「可愛い私のレイ。可哀そうな無力な子。でもママが戻って来たからもう大丈夫よ」

 そう言ってセツナが頬に触れた瞬間、オレの意識は絶望の奈落へと叩き落された。それはオレはあの日からなにも変わっちゃいなかったという絶望だった。



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