サウナ事件

@pranium

一話完結


 自殺を前にこんなところに好んで来る女が果たして居るだろうか。


 拘置所の面会室へ向かう廊下の中には、私と案内役の足音のみが響いていた。外は小春日であるというのに真っ白な廊下は凍ったように冷たく、足回りに異様な冷気を感じながら淡々と歩くのみであった。


「こちらです。」


 案内役が指した部屋に入ると、特徴的な横長のガラスが視界に入ってきた。中心のまばらに穴の開いた円、そして手前と奥にカウンターとパイプ椅子が構えており、記録係の机が奥の右端に見える。


 私は何かを警戒するかのように冷たいパイプ椅子にゆっくりと腰を預けた。


 待機中、この面会ではお互いの共通の雇用先の契約のいざこざを話すという内容の台本をぼんやりと思い出していた。そして、赤の他人の殺人犯に会うために、わざわざ世話のかかる工作をしたことにもまた思いを巡らせていた。関係の深いものではないと面会の許可を貰えないために、まったくの他人である彼に出した手紙の文面にはほとほと苦労させられた。


 この面会も強制退室が先か、話を聞き終えるのが先か、私は多少の心配をしながら指先を弄んでいた。


 ほどなくして、正面の扉から彼が現れた。


 こんな時でも、殺人犯にも意外に清潔感あるんだな、というのが彼の第一印象だった。


 彼は全体的にやせ形で、20代後半、または30くらいに見えた。頭は角刈り、眉は細くてきりりとしている。が、やはりというべきか、よく見ると目の下は浅黒く、頬は表情筋のない野暮ったい様相であった。


 彼がストンと椅子に腰を下ろすと同時に、私は大きな昂揚と些細な罪悪感を覚えた。


 あらゆる人間の日常にとってこれは異常な事態だ。この対面自体、犯罪めいた工作を材料に仕立てられた、一種の舞台である。そして、その舞台にいる役者は、報酬や名声を全く必要としない自殺志願者なのである。おそらく世の生活とはかけ離れた現実の始まりに、私は一瞬の悦を覚えるのであった。


「やあ、久しぶりだね。人事の池浦さん。」


 彼はぎらついた目をしながら、興味深そうな面持ちでこちらに話しかけてきた。


 池浦と言うのは拘置所に提出した書類上での私の名前である。私はニュースで彼の名前を知っているが、彼は私の本名は知らない。本来は綿密に口裏を合わせただけの初対面の男女である。


 私は一瞬だけ視線を記録係と刑務官の方へ向けた。ひとまずはバレていないということだけが彼らの所作から読み取れた。私たちは怪しまれないように、あたかも同じ会社に勤めているかのように雇用について最低限の話をした。


 芝居も終わり、ここからが私の目的、犯行に至るまでの話を聞くことだ。


 彼は妙に焦点の合わない目をこちらに向け、にやにやしながら語り始めた。


「池浦さん、あなたも私と同じく、相当な好事家なようですな。私が会社に暇を出される前に話を聞いておきたいなんてね。


 ――いやいや、嫌味などではありませんよ。単純に嬉しいのです。拷問を共に耐え抜いていた仲間を、地獄の釜の底で見つけたような、そんな気分なのですよ。」


 彼はこう言う。私はこれに安心感を覚えた。彼ならこうやって言ってくれると思っていたからこそここまで来たのだ。


 彼は、さて、と一拍置きながら椅子に軽く腰掛けなおし、悠々と次のように続けた。


「好きなだけ喋っても良いとのことなので、遠慮なく。


 私は普通の、準貧困程度の家庭で生まれましてね。友達は少ない方でしたがね、高校までは何不自由なく、それなりに楽しく生活していたのですよ。行事や学業に困りすぎることもなければ、良いことがありすぎるわけでもない。本当に普通のことだったのですが、“楽しかった”という所感だけを持っていましたね。


 大学は理系の方へ進み、一旦地元を離れる形となりました。木の黒くなった古い下宿を借りて、安物の乾麺を馬鹿のように買ってアルバイトに明け暮れる、そうやって毎日の生活を繋いでいました。


 ――いえいえ。哀れに思われるかもしれませんが、一介の学生の生活基礎などそんなものですよ。これでも進学に関しては両親に感謝しているのですから。


 ――そうですね。陰りが見え始めたのは大学二年の頃でしょうか。その頃にもなると、高校の頃の交友関係も希薄なものとなりました。皆それぞれの場所で新しい仲間を得るのです。ですが、私はどうでしょう。それまで勝手にできていた友人というものが、てっきり出来なくなったのです。


 私はその時初めて気づきました。学業や仕事に生真面目だった私は、その歳まで人間関係という人間の必須科目的な事柄に関しては学ぶことを怠っていたのです。頭ばかり大きく、相応の応対も冗談をこなすこともできない、そんな愚かな人間と一緒にいても、楽しい学生生活が送れるわけがありますまい。」


 始めは優雅に話していた彼の語気に、熱が籠り始めた。その言い方の静かな荒さに、自身や周囲に対する赤黒い感情が見え隠れしている気がした。


 言い終わってから彼は自身が感情的になっていることに気が付き、ひとつ長い息を吐いてから、すまない、と改めた。


「人と話すなど数年振りでね、どうしてもこうなるのはどうか容赦していただきたい。


 とにかく、私はいつの間にか、人間関係の経験値という面において、追いつけないほどの差を周囲に感じ始めたのです。


 あなたもそうだと思うのですが、私という生き物は何事も考え過ぎてしまう質でしてね。周囲と比べることが良くないと思いながらも、次第に何かにつけて自身と周囲を比較するようになりました。


 さらに悪いことに、その頃にようやくインターネットを覚えまして。――ええ、珍しいでしょう。私はそれまで、まともにそれを見ることが無かったのです。そして最も良くないタイミングにて、私は比べる対象を世界へと広げる次第となるのでした。」


 周りと比較してはいけない。自分を中心に置き、自分の感性を信頼するべきである。


 これは、私たちのような才も富も持ち合わせなかった者にとって必ず持ち合わせるべき哲学である。分かっている。分かっていてもこれが如何に難儀であるかは論ず必要さえあるまい。


 私は拘置所を漂う冷気をもう感じてはいなかった。彼の学生時代の話は私のそれをそっくりそのまま鏡に映したような、身近すぎるリアルがあった。


 彼は再び微妙に焦点の合っていない目で、再び話し始めた。


「ご想像の通り、インターネットで全国の学生の様子が細部まで分かるようになってから、私の学生生活は苦しみに満ちたものとなりました。友人や経験、ルックス、恋人など、私に縁の無いものを皆、当たり前のように手に入れているのです。


 それまでは希望的観測によって、自分の周りだけ恵まれた人間が多いのではありますまいか、という思い込みがありました。


 当時の私の哲学というのは、自分の頭にあることだけ、とりわけ自分の観測範囲だけが確かに存在する世界だと思っていました。


 インターネットの存在は、私のその自分勝手な理論を完全に否定しました。


 大学をようやく修了し、就職してからも現実とインターネットの両方の世界で何かを手に入れている他人と何も手に入れていない自分とを比べ、劣等感に苛まれる毎日でした。


 私は自分の中の世界をすべて負の感情で埋め尽くした結果、連鎖的に将来不安や興味喪失を併発し、神経衰弱となりました。


 あなたは神経衰弱の発作をよくご存知でありましょう。あの脳が不安に押しつぶされ、脳内の分泌物が暴走するような苦しみは如何ともし難いものがありますね。


 そのような状態が半年ほど継続し、私は自殺の選択肢を取らざるを得なくなりました。


 ――ええそうですね。これはね。もうそうするしかないのですよ。あなたと同じです。


 決めた後は驚くほど冷静になれるものですね。衝動的でない自殺というのは本当に計画的に行われるものです。私は十日の猶予を取りました。考えつく限りの遊びをし、貯金を使い切って十日後に消えようと計画を立てました。


 人生経験がないため、遊びも最期のものにしては粗末なものでした。県内旅行をし、温泉に入り、チェーン店で外食をする。そんな些細な楽しみも人生を〆るに足るほど、私の生活というのは甲斐の無いつまらないものだったのです。


 猶予最終日、秋晴れの暖かい日でありました。私は最期の温泉に行きました。鞄にはタオル、消毒スプレー、財布、100均のミニボトルに入れたアロマ(自殺用の神経毒の意)を詰めており、車で隣町の温泉施設まで向かいました。


 到着すると、施設はそこそこの賑わいをしていました。関係の無い、幸せそうな人たちがビニールでできた手提げ鞄に洗面用具を詰め、入口の周りや駐車場の中をわいわいと往来しておりました。


 私はそのような幸福の雰囲気の中に水を差すように、このアロマをどう使って見せようかと考えながら歩いていきました。木の香りのするエントランスから入館し、券売機で料金を払ってから更衣室に入りました。」


 私は記録係の様子を視界の外に伺った。面会というのは暗号や隠語の使用を禁止されている。せめてこれが終わるまでは待ってくれと小さく願っていると、彼もそれに気づいたようで、小さくはにかんで見せた。彼は目を据え、それが私には安心しろと言ってくれている気がした。


「さて、更衣室で服を脱ぎ、最低限の洗面用具を持つと大浴場に行きました。体を洗ってから、温泉に浸かるかと考えていたところ、違うものに私は目を奪われました。


 ――そうです。サウナですね。いや、正確にはサウナの扉の横に置かれた、あるものです。


 そこには金属でできた2段のラックの下の段に、貸出用のサウナマットが本棚の本のように差し込まれてありました。その上の段には、流行り病対策のアルコールスプレーが一つ置いてあるのです。


 この場合のサウナマットの使い方はご存知でしょうか。サウナ入室前に一人一枚そのサウナマットを取り、アルコールスプレーを十分に吹きかけてから入室し、それを尻の下に敷いておくというものです。ご存知?いやはや、申し訳ない。


 というのも、私はこれを見て、少しいたずらをしてやろうという気になりましてね。人生最後の不真面目を働こうとしたのですよ。


 それから私は一度更衣室に戻り、ボトルを取ってからサウナマットのラックの前に行きました。人が見ていない時を見計らって、持ってきたボトルの蓋とアルコールスプレーの上部を回し開け、ボトルの容器にスプレー部をあてがってみると、ちょうど径が同じだったみたいで取り付けることができました。


 私は大浴場の真ん中にある一番大きな風呂にみぞおちまで半身浸けた格好で、ゆっくりとそれからどうなるかを観察しました。


 まず初めには、ぶくぶくと太った優しそうな丸い顔をした老人がサウナ前にやって来ました。彼はボトルの中身を念入りにスプレーし、サウナに入っていきました。


 ほう、ジジイにしてはマナーがなっているのだな。そう思うと私は目をつむり、彼のサウナ中での様子の想像を始めました。


 そのアロマというのは特殊でしてね。においはほとんどないのですが、人の皮の薄いところや粘膜から体内に吸収されるように作られてあるのです。ええ、自作ですよ。その辺は大学に通っていたことが役に立った唯一の点ですね。私は最期まで優柔不断でしてね。どう使うかを決めていなかったばかりに、その時の気分であらゆる使い方ができるよう工夫をしておりました。もっとも、他人に使うなんてのは考えていませんでしたがね。


 先ほどの老人の体には、そんなものがじわじわと尻とマットとの接着面から体内に侵入してゆくのです。先ほども申しましたように、それは神経性のものです。サウナに留まるほど、熱によって心拍数は増加し、それは手足へ、脊椎へ、心臓へ、脳へ。


 ははは。馬鹿なものですよね。振る舞いから見るにその老人、おそらくここまで真面目に生きてきたのでしょう。定年まで勤めあげ、わずかな年金を手にやってきた温泉で真面目に消毒のマナーを守ったおかげで、こんな異常者の手にかかるとは。


 私はそのアロマが老人の体内で血流に乗って這いまわり、各神経細胞に付着するところを想像すると、恍惚と嘲りのようなものが湧いてきました。劣等である自分に手をかけられるとは、なんと愚かなことかと。私は表情筋の痙攣と腹から刻んだような笑いが止まりませんでした。」


 彼はそれを修学旅行の思い出でも語るかのように、楽楽と話し続けた。


 私には彼のことを、気味が悪いとか怖いとか、そのようには不思議と感じられなかった。


 むしろ、なんというか羨望とか称賛とかの彼に対する敬いの念でいっぱいであった。


 刑務官や記録係にはアロマが神経毒であることがバレ始めているだろう。だがもういい。私はもし今死んでも良いと思う。彼が事件の時どう思っていたか聞きたかったのだ。私にはできなかったことを彼は実行に移した。人殺しの体験を自分だけに聞かせてくれる者、一緒に死んでくれる者がいる。幸せだな。


「五分程経ち、老人がサウナから出てきました。入室前と比べるとその歩き方に少しぎこちなさを感じました。彼は掛湯をすると水風呂にも入らずによろよろと外に歩いていき、休憩用の椅子に溶けたように体を預けてしまいました。


 私のいたずらは成功裏に終わったようでした。あとは見なくてもわかります。老人は眠るように呼吸を落としていき、O₂の不足により昇天するわけです。」


 私は持ち込みの鞄の中からアロマオイルの瓶に似せた小型爆弾を取り出した。いかにも、私もそれ使っているのですよ、と言いたげなように。


 「ふふ、さすがにもういけませんかね。私はそれからすぐ大浴場を出て、エントランスすぐ横の休憩スペースのマッサージチェアでくつろいでいました。やり切ったかのような達成感がありましたのでゆっくりと優雅にね。やり残したことと言えば、息を引き取る瞬間を見物しなかったことでしょうか。しかしこの休憩時間こそ、私の命の最も輝いていた時間であり、人生でありました。


 私はラックの上に残してきたそれが、サウナ中の男どもを蹂躙しているさまを妄想しながら、水を飲み、マッサージチェアの延長ボタンを押しました。


 一時間後、男風呂が騒ぎになり、あとはニュースであった通りです。九人もあの罠に嵌ったらしいですよ。ははは。」


 彼はこれ以上なく満足な笑顔で笑って見せた。


 自作の毒の出来か、いたずらを思いついたことか、それとも九人の人生を終わらせてやったという優越感からか。


 刑務官はまだ注意してこない。多分。融通が利く優しい人なのだろう。しかし、優しさで返ってくるのは利益や恩だけではない。特にこの不器用な二人には。


「池浦さん、あなたもあるのでしょう?お気に入りが。そうそうそれです。私はもう満足できましたよ。あなたもきっとそうなのでしょうが、他人とお話をすることや共感することに諦めをもっていたところに今回の面会ですよ。神はいるのだなと、千手観音は本当に三界二十五有を救われるのだと思うことができました。ありがとうございました。


 さて、池浦さんの方はどうですか?面会、終了しますか?」


 彼は聞いてきた。私の方も準備はできていた。これで、私の命に意味を持たせられると。


 誰も知らない間に生まれて、誰も覚えてないまま生きて、死ぬ。私はこの見えている未来が耐えられなかった。このボタンを押す瞬間こそがわが人生なのだ。


「終了されるのですね。わかりました。最後にそのアロマ、少しだけ嗅がせていただけませんか。ええ、あなたも顔を近づけて…。」



 明らかになにか怪しさを持った動きをし始めた二人。それに反応して刑務官が駆け寄ろうとしたとき、彼女が持つアロマオイルの瓶から閃光が走った。






 記録係が目を覚ましたのは、警察部隊や救急隊が到着したと同時であった。


 鼓膜が破れているのか、耳からは反響したようなぼんやりとした音しか聞こえない。頭と視界がはっきりとしてきたとき、脳に理解が追いついてきた。


 面会席を中心に床に放射状に飛び散った血飛沫が広がり、両側のドアがある壁にもまばらに血飛沫、その下には刑務官がゴミのように転がっていた。


 受刑者と面会者は、上半身を失っていても向かい合って座っていた。

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