第13話

 頭が重い。

 目元に触れる肌の感触に瞼を開けると、微笑みながらも心配そうな夫の顔が見えた。私はゆっくりと首を回して天井を見上げた。どうやら元のホテルに戻ってきたらしい。

 船かなにかに乗っているように薄暗くなった天井や夫の顔が大きくゆっくりと不安定に揺れている。窓の向こうに見えるビル群に囲まれた幻想的な黄金色の夕日とその周りに浮かぶピンクの雲ですらも凝視できないくらいで酔ってしまいそうだった。

「熱が出てる。随分魘されてたけど、なにかあった?」

 私の寝ているベッドの端に腰かけた夫が珍しく少し遠慮気味に聞いてきた。

「ちょっと・・・ね」私は少し躊躇いながら回り始めた脳みその中で言葉を探しながら、やっと口にした。

「気付くのが遅かった事はもうどうしようもないんだね・・・」

 私のその呟きに夫は少しの間考え込むように黙っていたが、ふと口を開いた。

「よくわからないけど、本当の意味での結果は気付いてから改めて見えるんだ」

 いつもながら頼もしい夫の的確な言葉を噛み締めながら、私は言葉にこそ出来なかったが無言で頷いた。

「俺にできる事、ある?」

 ヒンヤリとした手を私の額にあてがいながら夫は心配そうに、けれど控え目に聞いてきた。夫の乾いた手の冷たさが今の私には心地よかった。汗でぐっしょり濡れている固まったように動きにくい服を必死に引っ張って、熱を持ったムカデがハッキリと赤く刻印された手を下に向けて、夫の方に伸ばしながら我ながら掠れた声で絞り出した。

「一緒に いて」

 夫は深く頷くと、私の手を強く包み込むように握った。「いるよ」

 その言葉を聞くと、私は安心して再び鬱蒼とした眠りの中に引きずり込まれていった。夫が優しく脈打つムカデを撫でているのを感じる。ピンクの雲が広がって意識の中に入り込んでくる。気持ち悪い。

 そうだ。どんなに埋葬して忘れ去ろうとしても、この手首に刻印されたムカデだけは今でもこんなにハッキリと全てを記憶していたのだ。


 ・・・いけない。 忘れたら いけないんだ。


 誰かがそう言うのが聞こえた気がした。或いは空耳だったのかもしれない。そうかもしれない。 それにしても私は何処にいるのだろう?

 空が眩しい。目の前に黒い滲みが幾つも出来てそれが視界を邪魔して変に暗くなってよく見えない。誰かが隣にいる。制服をきた誰かが並んで歩いてる。

 見覚えのある長い睫毛が生えた目の輪郭に肩までの軽めのボブ・・・澪だ。

 そうだ、ここは。小さい頃よく遊び場にしていた桃の林だ。春の日差しが気持ち良いから、私は澪を誘って散歩に出掛けたんだっけ。でも、もうあの桃の林は切り倒されて公団住宅が建ってしまった筈なのに。

「どうしたの?」

 いつか見たピンク色をした桃の花が咲き乱れる中、こっちを向いてにっこり笑いかける澪があまりに綺麗で、私は見とれてしまった。相変らずピアスに反射する光が眩しい。そういえば澪の傷はどうなったのだろう。

「澪、あの傷は? 大丈夫だったの?」

 澪は何の事を聞かれているのか、今いちわからないような顔をして首を傾げた。

「リストカットした傷。大丈夫だったの?」戸惑いながらも、私は再び澪に聞いた。

 強い風が吹いてきて、桃の花と一緒に私と澪の髪の毛とおまけに制服のスカートをぐしゃぐしゃにして吹き上げた。まるで、いつかの夏の終わりの屋上の時みたいに。

 隣にいる澪はいつのまにか成長して大人になっている。札幌の大通り公園で見たあの時の女性だった。

「わかんないけど、平気だよ。だって、あたしは吹雪ちゃんを恨んでなんかないもん」

 そう言って澪は、私の手首の真っ赤になって浮かび上がっているムカデに人差し指をつけて優しくなぞった。徐にいつか見せてくれた薄汚れたピンク色の小さい巾着を取り出して、私に差し出した。

「もうあたしには必要なさそうだから、返すね」

「え、うん・・・・・・これ、なんだっけ?」

 以前、澪はこれをお守りだと言っていた。今の言葉からだとどうやら私があげたものらしいけれど、全くわからなかったので中になにが入っているのか見たかった。

「あはは。酷いなぁー。開けてみたら?」

 私はその巾着の厳重に縛られている紐を解いて、中身を出した。紙切れだった。

 開いてみると、辿々しく汚いマジックの文字で、なにか1ページだけ破ったメモ用紙のような黄ばんだ紙に乱暴に書き付けてあった。乱反射する光があまりに眩しい上に、汚れていてよく読めない。

 私が四苦八苦してにらめっこをしている間に、また突風が吹き上げてきた。急に目にゴミが入ったのか痛くなって手で覆った瞬間、その紙は巾着ごと私の手からもぎ取られ空に吹き飛ばされた。

「あーぁー」

 飛んでいく紙きれも巾着もあっという間に桃の花の洪水に埋まって白く輝く空に見えなくなってしまった。結局なにが書いてあったのか、わからずじまいになってしまった。

「あの紙、なにが書いてあったの?」私が聞くと、風に吹かれた澪はいたずらっ子みたいに含み笑いをしながら、子猫のような仕草で秘密と言った。ふと袖口から見えた澪の白い華奢な手首にはなんの傷跡も認める事は出来なかった。けれど、ただ反射して見えなかっただけかもしれない。

 けれど、澪は笑った。

 まるであの放課後の教室で笑ったみたいに。



 再び目が覚めると、さっきと同じ暗い部屋だった。がらんとした天井に、窓から外の街明かりが忍び込んでちらちら踊っている。すぐ横で、座った夫が私の髪を指に絡ませながら突っ伏していびきをかいて眠っていた。夫はセブンスターの木を見れたのだろうか?

 私は汗と涙と鼻水でぐっしょり濡れたまま、ゆっくりと起き上がった。熱が下がったのか、不思議と体が軽く感じる。

 シャワーでも浴びようと思い、寝ている夫を起こさないように、こっそり抜け出し大浴場に行った。時間は19時だった。体は軽いけれど宙に浮く感じではなくて、むしろ正確な外界との感触が確かにあった。

 お腹空いたな・・・浴槽に浸かって手足を伸ばし、湯気の香りや風呂に敷き詰められた大理石の匂いにさらされてこの世の様々な生気を吸い込みながら、気持ち良い空腹感に酔った。しばらくそのまま浸って、一杯水を飲んで部屋に戻った。

 部屋の扉を開けると、寝起きの夫が慌てて飛び出してきたのとマトモにぶつかって尻餅をついた。

「どこ行ってた?」

「お風呂」

 夫は安心したように幾らか強ばっていた表情を緩めた。「俺も入ってこよ」

「その前にご飯食べに行かない? 私、お腹減って死にそう」

「死ぬな。なに食いたい?」

「スープカレー」

「いいね」そう言って夫はニッコリと笑った。

 私はその夫の笑顔が大好きだ。ふと、緩やかに循環し始めた手足を流れる温かな血の動きを微かに感じた気がした。

 私の命を維持している。何があっても生きていかなきゃいけない為の命を今日も保ってくれている。それは責任感でもあるけど、同時にとても誇らしくて幸せな事なんだな。

 自分という存在は自分が思うよりもずっともっと大きくて、誰かの任意で、または自分の身勝手で簡単に失くしてしまえるものではないのだと。好きな人が1人でもいるなら、そう思うべきだったのに。結局、私は自分の事すら見てなかったのかもしれない。自分の事を好きにすらなれず、大切にすらできなかったあの頃の愚かな頭でっかちな私は、何様のつもりでいたのだろうと恥ずかしくすらなった。自分で自分を大切にするのが嫌だったら、誰かの為に自分を大切にする事なら出来たのかとも思ったが、そもそも誰かに好かれるのが当たり前だと思っていたらそんな事すら思いつかなかっただろうな。どちらにしても、馬鹿な私が手探りで辿ってきた道としてはなんだか妥当な気もした。いくら考えてみても、私にはあれ以上の違った道も方法も見つけられなかっただろうし。でも、だからこそ、今こうしていられる事に幸せを感じる。いや、幸せを感じさせるような強烈な事があったからこそ、改めてそう実感している。いかにも捻くれた私らしいやり方。あのままぐるぐる巻きに封印していたとしても、何の解決にもならなかっただろう苦いばかりの記憶すらも、これからの人生の意味を持っていたなんて。

 自分の命を粗末にしていたくせに、こんな歳になるまで、そんな当たり前過ぎる事に感謝なんて感じた事なかった。目の前で眠気覚ましに顔を洗っている無邪気な夫を眺めながら、なんだかそんな事を思った。澪も何処かでそんな当たり前の小さな気付きをこうやって何気ない日常の中でふと感じていて欲しい。烏滸がましいながら私は窓辺に向かってそう祈り視線を投げた。

 ロビーでは桃井さんが忙しそうに駆け回って、面倒臭さそうな中年のおばちゃん客の相手をしていた。私達に気付くと、少し笑って深々と丁寧にお辞儀をして落ち着いたいつもの声で見送ってくれた。

「お気をつけて、行っていらっしゃいませ」

 私と夫は手を繋いで、目星をつけて行こうと思ってた店まで碁盤のようなビル街をのんびりと歩いた。

 小さく覗く夜空には鎌のような黄金色の細い月がかかっているらしく、隙間を出たり隠れたりしながら2人の後を追いかけてきていた。

 私はその月を眺めながら改めて澪の事や祥二の事を思い出し、そして隣にいる夫を見た。夫はいつものように口角をほんの僅かに上げているだけの真顔だったが、何処かしら以前より安心できるようなどっしりとした余裕が感じられた。

「・・・ごめんね」

 夫の横顔に呟くように謝った頼りなく吐き出された私の言葉は、不意に吹いて来た風に飛ばされあっと言う間にビルの隙間に消え失せた。顔を覆った邪魔な髪を左手で掻き分けながらふとムカデを見ると、さっきの風と一緒に飛ばされてでも行ったのだろうか、私の手首にいた筈のムカデは抜け殻のように薄くなり、ほとんどわからないくらいになっていた。

「あそこあそこ。半端なくうまいんだって!」

 はしゃいだ子どもように駆け出した夫の手に引っ張られて、私たちは暖かなオレンジ色の灯りが漏れる店の扉を開いた。

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ムカデの夢 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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