第12話
家に帰ってからも、私は高校に行く事が出来ずに、しばらく休み続けていた。
担任やクラスの友達から何度か電話がかかってきたり、訪問されたりして心配されたが、私は風邪ひいただけだから、大丈夫だからと思いっきり突っぱねてしまった。誰にも私の苦しい気持ちなんてわかる筈がないんだ。そう、
ー澪以外、誰もわかる筈ないんだ。
我ながらバカだと思う。澪が元気なうちはそんな事ちっとも思った事なかったのに、私に一番親しくしてくれていた澪を、親友なんて感じた事なんてなかったのに、なくなった途端にわかる。
私はこの世の誰よりも薄情な人間なんだ。祥二が呆れるのも無理はない。
次々と思い浮かぶ自責の言葉が私を雁字搦めにして、どうにも引きずり上げられなくなっていた。そんな時、母が部屋に入ってきた。
「吹雪、もう2週間になるよ。一体いつになったら学校に行くのよ」
私は布団に深く潜って聞こえない振りをした。
ここ数日は家族とも会ってなかったし、夜中に冷蔵庫を漁る以外はマトモにご飯すら食べてなかった。
母はそんな私をじっと見下ろしているらしかったのが、痛い位の視線を背中に感じてわかった。
一体どんな表情をしているのだろう。そこまでは、伺い知る事は出来なかった。
「あんた・・・もしかして、そうやってるのは澪ちゃんとなにか関係してるんじゃないの?」
痛い所を突かれて、私は思わず吐き捨てるように乱暴に答えてしまった。
「うるさい!関係ないでしょ!」
勝ち気な母はひるまずに更に聞いてきた。「澪ちゃんのお母さんが言ってた事、あれは、どういう事?」
その言葉に、母は完全に私を疑っているんだと確信した。
予想しえなかった事ではなかったが、実際に母の口から聞くとあまりの悲しさに涙が止まらなくなった。
「あんなに頭の良い澪ちゃんが、あんたみたいなバカな真似するわけないんだってお母さんも不思議に思ってたのよ。吹雪、あんた澪ちゃんになにかやった?」
もうダメだった。重過ぎる現実に体が押し潰されそうだった。ううん。私はもうこのまま潰れてしまった方がいいのかもしれない。
母はなにも答えずにただ押し殺して泣いている私をしばらく無言で見つめていたが、ふと扉を閉めて出て行った。
残された私は、気が遠くなるような見捨てられてしまった寂しい無の時間に締め付けられながら、あの時、澪と同じように手首を切ったあの時にどうして死ねなかったのかと短い髪の毛を掻きむしりながら心底後悔した。私なんて・・・!
惨めな死に損ないの臆病者。そんな言葉が頭を横切った。
それから3日後、私はあまりの空腹で家族が完全に寝静まった夜中に何か食べようと、こっそり部屋を抜け出した。
どんなに悲観に暮れていても死のうと思っても体が健康なものだから、脳みそとは関係なく私の体はいつも通りに生命維持活動を続けていて、何日も食物を体内に取り入れてない事がとうとう緊急事態にまで発展してきたらしく、眠る事さえ許されない程に体が脳に食べ物を取り入れろと厳しく命令を出し続けているのを無視しきれなくなってしまったのだ。思えばそれも生きている故の自然の摂理で。そのまま餓死するまで飲まず食わずを決め込む事だって出来るのに、空腹に耐えきれずにこうしてのこのこ這い出してきてしまったのは、やっぱりまだ生きたいと何処かで思っているからで、同時に死ぬ覚悟なんてはなから持ち合わせてなんていなかったんだと、ますます死に損ないの惨めさを突きつけられて実感させられはしているものの、空虚なまでの空腹にそこまで深く考える事も出来ずに、ただひたすら食べ物を求める獣のように力の入らない足を動かした。
目的地の真っ暗になってひんやりと冷たい空気が漂う台所に忍び込んで、音を立てないように気をつけながらゆっくりと冷蔵庫を開けると、オレンジ色の無機質な照明の中、すぐ目の前に一人分のおかずがぴっちりとラップに包まって入っていた。
母が毎日私の分もご飯を作っては冷蔵庫にしまっているのだと思うと、また涙が溢れ出してきた。
こんな状況になってから気付く色んな人の気持ちが多過ぎて、もう泣き疲れてぱんぱんに腫れあがった真っ赤な顔に滲みる後から後から出てくる涙を擦りながら、冷蔵庫を閉めて振り返るとパジャマ姿の何処か頼りな気な母が静かに立っていた。
「ご飯くらい、ちゃんと食べなさい。今温めるから」
そう言ってさっさとレンジでおかずを温めて、ご飯をよそって呆然としている私をよそにテーブルに整えて出してくれた。白く暖かい湯気がふわふわと上がっている。
「ほら、食べなさい。また貧血になるわよ」
私は戸惑いながらも俯いて椅子に座ったはいいものの、なかなか箸をとる事が出来ずにそのままじっとご飯を眺めていた。
ご飯の湯気がやけに目に滲みて涙がぼろぼろ溢れてきた。
母はなにも言わずに、ただ向かいの席に座って方肘をついて、時々ティッシュを渡しながら、私を見ていた。
体の中の水分が全部涙に代わってしまうんじゃないかと思った程、私は長い時間そうやって泣いていた。そして、湯気がほんの僅かになってしまったご飯を少しずつ少しずつもそもそ食べ始めた。
おかずのシンプルな野菜炒めは、今まで食べたものの中で一番優しい味がして、痛いくらいに体に吸収されていった。堪らずに私はまた泣き出した。
17年間生きてきて、自分がこんなに泣き虫だったなんて初めて知った。伸びた前髪も手伝って目の前が滲んで良く見えないのに、私は箸を止める事なく黙々とご飯を口に運び続けた。涙と鼻水と料理が一緒くたになって、なんだか温かいよう切ないような不思議な味が口内と脳内を一杯に満たしていった。
「落ち着いたら、澪ちゃんのお見舞いに行こう」
不意に言った母のその優しく不器用な言葉に返すように、積を切って溢れ出したのはたった一言だった。
「私・・・私、やってない」
何日も着ている汚いパジャマのズボンが、テーブルから滴る涙の雫でびっしょり濡れて私は思わず箸を落としてその濡れている部分を力一杯握りしめた。それだけの言葉を口から絞り出すのに、なにかを掴んでいないと自分が崩れてしまいそうな圧迫感を感じたからだ。
母はそんな私を責めるでもなく、怒るでもなく、慰めるでもなく、何度も何度も頷いて、わかってるよとだけ言った。だけど、私にはそれだけで充分だった。
翌々日から、私はいつも通り母の手作りのお弁当を持って、母が時間をかけて繕った制服を着て、登校し始めた。
けれど、意識不明重体状態の澪は病院から澪の家族ごといなくなっていた。まるで最初からいなかったみたいに。
何処に行ったのかと、いくらいつかの看護婦さんに聞いても、個人情報だからと頑として教えてくれなかった。ただ、お気の毒でしたとだけ言ったのだ。
澪は助からなかったのだろうか? それすらわからなかった。澪の家は違う人が住み始めていた。まるで何もなかったように平和で当たり前の日常が残酷な音を立てて始まっていた。
全てが夢だったかのように訳がわからないままに、朝が来て夜になり、また朝になり毎日の目紛しい生活が波のように一変に押し寄せてきた。
もう誰も澪の事を私に言わなくなったし、そんな話をしなくなった。
そして、私はその毎日に溺れ、何事もなく18歳の誕生日を迎えて、痛くて忌まわしい17歳の記憶を自ら強制的に埋葬したのだ。
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