第11話
「面会謝絶か」
最近吸い始めた煙草の煙をぶきっちょに吐き出しながら、ぽつんと祥二が言った。
「・・・うん」
落ち込んでいる私の横顔をマジマジと眺めながら、祥二はまた煙草を口にくわえた。
「吹雪が死んでたら、その澪ちゃんがそうなってた」
「そうだね。私があんな事したって、言わなきゃ良かったんだ」
その瞬間、祥二の顔が強張り、すごい速さで私の胸ぐらを掴み、その狼のような目で力強く見据えてきた。褪せたその目の中に奇妙な火が勢いよく燃えているのがはっきりと見えた。
「それ、見せたのか?」
以前、祥二に暴力を振るわれた時の気持ちが再び込み上げてきた私は、自分を守ろうともがいたが、祥二の力は強く私の手と足は虚しく空を掻いた。
「見せてない!でも、澪はわかったの!」
「・・・だからか」そう言うが速いか祥二は、私を思いっきり後ろに突き飛ばしながら放した。私は蹌踉けてしゃがみ込んだ。
見上げると、祥二は変わらない目で私を侮辱を込めて冷ややかに見下ろしている。
「私のせいじゃない」
「帰れよ。もうダメだ」
「・・・やだ」
平手打ちが飛んできた。私は顔を覆うようにして手を頭に宛てがい、亀のように丸く蹲った。頰にじんじんとした痺れが広がった。
「帰れ」
祥二は次々叩いたり蹴ったりしてくる。
痛い。確かに痛みを感じる。でも何故か不思議と、祥二に攻撃されてからそれが痛みに変わるまでの時間が恐ろしく長く感じた。きっとこれが生身の現実味を帯びた痛みなんだ。
リストカットした時に感じなかったもの。あの時は怒りの勢いで、痛みは確かに感じなかった。
痛みを脳に伝達するのが通常の働きなら、怒りと言う一種麻薬のような効果で、その働きが妨げられていたか、麻痺されていたのかもしれない。だから痛みを感じなかった。
でもあの精神状態の時だけだ。きっと薬とか覚せい剤で脳自体の働きを完全に狂わせる以外には、ただ怒りに任せても勢いに任せても、本当にやろうと覚悟を決めたその時だけしか自分を傷つける事が出来ないからかもしれない。
その瞬間に体の防衛機能かなにかが働いて、それまでの怒りや自己嫌悪で煮えたぎり渦巻いていただけの爆発した感情の溶岩に、なにかを一滴垂らす。落ち着きはしないけれど、まるで別の違ったなにか救いの要素を。
そうなのかもしれない。だから平気で自分以外の人間を残忍な方法で殺したりいたぶったりはするけど、同じ残忍な方法で自分をいたぶったり殺したりしないのか。
自分を傷付ける代わりに、他人を傷付ければ自分が満たされる。気がするだけ。
実際、自分を守る為に人を殺した人間は、自分の為に殺したくせにちっとも満たされてなさそうな顔をしているし、邪魔だと思っていたものを除外したのにちっとも幸せそうじゃない。
ーむしろとても不幸そうに見える。
自分を傷付けても、人を傷付けても満たされるものなんて元々ないんだ。
同調しているのか、手首のムカデはびくびく腫れ上がってきた時のように脈に合わせて鋭い痛みを伴い、その傷を必死に庇うが如く、手は変に前に垂れる形になっている。
脳と体は別々のものなんだ。
脳はてんで勝手に苛立ったり怒ったり憎んだり人間としての余計な事をたくさん考えて、たくさん指令を出す。
体は動物本来の機能となんら変わらない。だから体になにかあったら、理由や原因はどうあれ防衛本能が働いて一生懸命唯に守ったり治したりしようとする。
持ち主が、どんな脳みそを持っていてどんな事を考えて生きていても、体は本来与えられた役割を果たそうとする。その本来与えられた役割が、きっと健康に生きて行く為のものなんだ。
だのに、脳みそは賢くなったばかりに健康に生きて行くのに不要な余計な事を多く考えてしまって、その結果生きていくだけなら必要ないような色んな事を体に指示する。
脳の命令に従って人を殺してしまったり、自殺してしまったりする人達は目的は達成されたけど決して幸せなんかじゃない。幸せになれるわけがない。きっと人間の幸せは体本来の役割と深く結びついているんだ。
健康で穏やかに生きる事。結局それなのかもしれない。
楽しい事や嬉しい事は確かに人生を豊かにしてくれるけど、その分確実に苦しい事も悲しい事も嫌な事もある。
人間は頭がよくなった分、よりよい方法を考えはするけどいつも陽があれば影があるのを忘れがちなんだ。幸せになろうが、ならないだろうが必ず人間には影がある。
宗教によっては、人間に生まれ変わったのは苦行する為だとか言うのもそんな事からかもしれない。寄り集まってかたまっていないと不安で仕方ない弱くて愚かな生き物。
そのくせ、その中にすら自分を見出せずに、自らの居場所や存在を死を使う事で探そうとする人。そして、その中にいるバカで愚かな私。澪に自殺を誘導してしまったかもしれない私。
あざ笑うかのようにムカデはずきずき痛んで、その存在を強烈にアピールしてくる。だけど、自分がリストカットをした事に後悔はしていない。
頭の悪い私は遅かれ早かれ結局何らかの方法で自殺しようと試みてしまったろうと思うし、その時の不甲斐無さや無力さを抱え込んでいるどうしようも意義の持てない自分をなだめたり禁めたりする手段が情けない事にはそれしか思いつけなかったのも事実だから。
きっともっと先になって後悔するのかもしれないけれど、今はそうするべき事であったと思えて後悔もしていなければみんなと違う事をやってのけたと言った一種自尊心とも違っていた。仕方ない結果だったと思える。
ーけれど、それに澪を巻き込もうとは思っていなかったんだ。
今流行っているだけで、私は澪に薦めたりはしなかった。だから・・・
だから、私のせいじゃない。 私は悪くない!
私は必死になって自分の無実を主張出来るような口実や理由を探したが、思いつけばつく程、口に出そうとすればする程、なんだか嘘みたいな言い訳じみている気がして、まるで自分が悪いと何処かで自覚しているのに、認めたくなくてなんとか言い逃れしようとしている悪人の気分だった。
実際そうだったんだろうと思う。祥二が言うように、私が澪を殺めてしまったようなものだ。澪のお母さんにも、私が傷を見せたからだと正直に言わなければいけなかったんじゃないの?
こんなに無茶苦茶に攻撃されているのに、やけに高速で色々な事を掘り起こして考えて、祥二に蹴られたりしているのとは全く違う自覚し始めた恐怖が溢れ出して凍り付き始めた私の背中に、なにか温かい水のようなものが次々と降ってきた。
いつのまにか、祥二は嗚咽のような声をしゃくり上げている。
私は普段の何十倍の重力が一変に体にのしかかってきたように動けず、顔を上げる事も祥二の顔を見る事も出来なかった。
もうダメだ。瞬時にそう思った。私は祥二をも苦しめてしまうんだ。
「さよなら」
私はそう言い捨てて、言う事をきかない強張った体を何とか引きずって、祥二の部屋を逃げ出した。
祥二は追ってこなかった。その代わりに獣が叫ぶような悲し気な鳴き声が響き、いつまでも耳元から離れなかった。
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