第10話

その日も私は祥二の家にいた。

 結局、自分の家にいたくないから唯一受け入れてくれるここに来てしまう。例え、祥二とあまり上手くいっていなかろうと、暴力紛いの事をされようとやっぱり来てしまうのだ。

 当の祥二も特になにも言わずに迎えてくれる。最近はもう手首を観察する事はしなくなっていた。

 太陽はまだ活気良く光を投げかけている暇な夕方、私達は別段面白くもないテレビ番組を見ながら、昼ご飯だか夕ご飯だかよくわからない感じの買って来たコンビニ弁当を黙々と食べていた。

 遠くで生き残りの蝉が必死に叫んでいる声が聞こえた。

 弟君の部屋から出てきたアメリカンショートヘアの雄猫が、前足と後ろ足で器用に扉を開けて入ってきた。

 隣の部屋でお爺ちゃんが痰がらみの咳を激しくし出した。祥二はすぐに弁当をテレビの上に置くと解放に出て行った。

 猫は祥二が置いていった弁当に狙いをつけて一気に飛び上がろうとしている。この家の猫は食べ物でさえあれば、なんでも食べるのだ。

 携帯電話の着信音がけたたましくなった。

 私の携帯電話だった。マナーにしておくのを忘れてしまったのだ。

 猫はその音に驚いて一目散に隣の部屋に退避して行った。私はそれを見送って携帯電話を開いた。澪からだった。

『吹雪ちゃん? ねぇ、どうしようー!』

 叫ぶように話す澪の声は恐怖と不安で溢れかえっていて、それが聞こえる携帯からも何か不吉な空気が漏れてくるみたいだった。

 まったく違う世界からの電話が偶然繋がったようなそんな感覚。けれど間違いなく澪の声、一体どうしたのか。

『吹雪ちゃん、助けて! 血が、血が止まらないのぉー!』

「澪、あんたまさか」

『お母さんに怒られて、むしゃくしゃして・・・それで何となく切ってみたのぉー! でも、でも、血が止まらなくて、どんどん出てくるのぉー! あたしどうなっちゃうのぉー!』

 いつもの冷静沈着な澪が半乱狂になって泣き叫んでいる。血が止まらないのは動脈を切ったのか。私もどうしたらいいのかわからず、頭がパニックになってしまった。

「ちょ、落ち着いてよ!お母さんは?」

『お母さんは買い物に行ってて、吹雪ちゃん、助けて!ねぇ、どうすればいいのぉー! あたし死んじゃうの?』

「しっかりして! 手首を押さえて止血して!」

『さっきからずっとやってるよ!どんどん溢れてきて止まらないのぉ!怖いよぉー!助けてー!』

「澪!しっかりして! 今行くから・・・」

 そうは言ったものの祥二の家から澪の家までは山を2つ超えないと辿り着かないし、車でもかなりかかるのだ。

 私はなにか方法はないかと必死に考えたが、耳元で止まる事なく流れ出て行く澪の血と命と意識を食い止める方法が思いつかなかった。

 ー私は完全に無力だった。

 救急車に電話するべきだったのだろうが、一旦電話を切ってしまってもう澪が電話に出ないのではないかと怖くて、ただひたすら澪に呼びかけるしか出来なかった。

「澪!しっかりして!落ち着いて!」

 自分の体から勢いよく血が吹き出てくるのに、落ち着いていられるわけがないのはわかっていても、それしか言葉が見つからなかった。

 澪は確実に、死のうと思ってリストカットしたのではないだろう。

 私と話した時の流れの自分の存在意識の見せつけやアピールのつもりだったのだと思う。死にたかったわけじゃない。それなのに、丁度動脈に当ってしまった。

 呼びかけていないと不安で仕方なかったのは私だったのかもしれない。澪は激しく呼吸をしながら、ずっと私の名前を呼び続けていた。時間にしたら10数秒だったと思う。隣の部屋から祥二が戻って来たのと同じくらいのタイミングだった。受話器の向こうの遥か後方から澪の母親らしき声がして、次いで叫び声と一緒に澪に駆け寄ってきたらしい音がしたかと思うと、突然電話はぷっつりと切断された。

 部屋に入ってきた祥二は気違いみたいに泣きながら携帯を握りしめているおかしな私を見て、何かあったらしい事をすぐに察した。

 携帯からはしばらく通話終了音が寂しくなっていたが、すぐにそれも止まった。澪はどうなったの・・・

「なにがあった?」

 ガクガク震えながら顔の全ての穴から水を垂らしている私の顔を覗き込んで、怪訝そうに眉に皺を寄せた祥二が低い声で聞いてきた。

「澪、澪が・・・」

 祥二は私の腕を掴んで外に飛び出してトラックのエンジンをかけた。「その澪ちゃんの家、何処だよ?」

 怒るように聞いてきた祥二の迫力に一瞬怖じ気づきながらも、私はなんとかぱくぱくした金魚みたいな口でようやく言葉を絞り出した。

「私の、家の近く・・・」

 勢いよくトラックは走って行く。もし運悪く警察に見つかっていたらとても言い逃れ出来なかったと思う。約30分程で、私達は打ち捨てられたように人気のない澪の家の前に息を切らせて立っていた。

 呼び鈴を鳴らす。が、いくら鳴らしても反応はなかった。

 澪の母親が救急車で病院に連れて行ったのかもしれない。私は諦めて、呼び鈴のスイッチから指を放して、ぼんやりと足下の小石が長く影を伸ばしているのをじっと見ていた。

 祥二はその横に前のめり気味に立って、暮れて行く赤い夕日に照らし出されたおぼつかない影のように奇態に佇む澪の二階建ての家をじっと睨んで見上げていた。

「・・・ごめん」唯一、私の頭の中に浮かんできた言葉だった。

「俺より、その澪ちゃんに言えよ」

 本体より影のように前のめりの姿勢を全く崩さずに、突き放すように祥二は吐き捨てた。

「吹雪に助けて欲しくて、かけてきたんだろ」

「・・・うん」

 表情すら判別出来ないくらいに影で染まった祥二は、まだ固唾を飲むように澪の家を見上げて幾らか緊張している風だったが望みを託すように吐き出すように言った。

「助かって欲しいな」

「うん」

 私は、顔中が皺だらけになるんじゃないかと思うくらいに力を入れて頷いた。



 なだらかなくせに、いつ果てるとも知れないくらい恐ろしく長い坂を息も絶え絶えに登りきった所に、巨大な絹豆腐のように真っ白いその病院はくっきりと建っていた。この地域では一番大きな総合病院だった。ここに澪が入院しているのだと澪のお母さんから私の家に電話が来たのは昨夜。

 澪のお母さんはすごい剣幕で私に会いたいからと訴えるように言っていたと、携帯の受話口から不安そう母が話しているのを、私は例の如く祥二の部屋で、胸一杯にどす黒いコールタールでも詰まっているような心持ちで聞いた。隣にいた祥二はテレビを見ながら乾いた笑いをたてていた。

 サイレンを鳴らしているのと鳴らしてない救急車がひっきりなしに行き交う幅広の黒光りしているそっけない頑丈な門を潜り、だだっ広い受付ロビーで澪の名前と面会の旨を伝えると、ひっつめ髪のお姉さんが面会は出来ませんと、事務的な口調でそっけなく答えた。

「何処の部屋にいるのかだけでも、教えて下さい。澪のお母さんに呼ばれたんです」

「緊急治療室で治療中ですので、そちらにどうぞ」そう言うと、お姉さんは横を向いてさっきから鳴っていた電話を取った。

 緊急治療室は人気のない奥まった一角にひっそりとあった。澪を探してガラス窓を覗き込んでいると、不意に背後に気配を感じた。振り向くと澪のお母さんが所存無さそうに窪んだ目だけを光らせて立っていた。泣き腫らして疲れ切った顔はただならぬ切迫した雰囲気が漂っていた。

「よく来てくれたわね。吹雪ちゃん。待ってたのよ」

「澪は? 澪は助かったんですか?」

「まだわからないの。血液がたくさん出過ぎてしまっていてね・・・」

 そこまで言うと澪のお母さんは堪え切れなくなったように嗚咽を漏らした。私は澪のお母さんには小学生の頃以来会っていなかったが、こんなに一気に老けてしまったような挙動不審な人ではなかった筈だった。

 私が覚えている澪のお母さんは、もっと快活な美人で朗らかな声をしていた。いつも少し派手だと感じるくらいの鮮やかな色の洋服を着ていて、フラワーコーディネーターとして活躍していたのを記憶している。

 澪のお母さんは泣き腫らした目で、なにかを掴もうとするようにして手を前方に伸ばして振り回した。前の扉が開いて看護婦が2人出てきた。

「酒井さん、お嬢さんも頑張っているんですから、しっかり見守らないといけませんよ。少し気分を落ち着かせましょうね」

 そう言って、1人の看護婦が澪のお母さんの腕に素早く注射をした。

「いいえ、いいえ!大丈夫です! 私は落ち着いてますの! 吹雪ちゃん、おばさん聞きたい事があって、あなたを呼んだのよ!」うつろな中に激しく燃える何かを秘めたような、ぞっとする目で澪のお母さんは驚いて突っ立っている私を見据えた。

「いいの!看護婦さん、大丈夫よ!この子と2人で話がしたいの!もうすぐこの子のお母さんも来ますから、大丈夫ですから!」

 到底大丈夫じゃなさそうな口調で、澪のお母さんは看護婦を追っ払った。自分の母も来ると聞いて私は幾らか安心した。知っているとはいえ、こんなに不安に取り乱している澪のお母さんと2人きりになるのは、なんだかすごく怖かったのだ。

「ごめんなさいね。あの、澪が手首を切った時に携帯で話していた相手って吹雪ちゃんだったんでしょ?」

 やっぱり来たかと思い、私は思わず生唾を飲んでしまった。無意識に唇を噛んで、きつく拳を握りしめて自分の足下に目を落とした。

「はい。でも私はなにも出来なかったんです・・・ごめんなさい」

 息苦しい程の重た過ぎる沈黙がしばらくの間、私と澪のお母さんの周りに立ち籠めた。壁にかかった小さな時計の秒針の音だけが鋭く耳に迫ってくるようだった。

「・・・澪が、あなたに助けを求めていたのね?」

 冷ややかとも取れる澪のお母さんの声に、私は全身の力を集中させて頷いた。

「どうして澪があんな事をしたのか、吹雪ちゃんは知ってるの?」

 澪が澪のお母さんに怒られてムシャクシャしてリストカットしたなんて、私の口からはどうしても言い出す事が出来なかった。何も答えられずに私は黙りこくってしまった。ムカデがやけに熱くなっているのがわかる。冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。

 なにこれ? 私、なにかしたの?

 遠くの方から命を運ぶ救急車の悲痛なサイレンの音が流れてきた。

「なんで答えられないの? もしかしてあなたが澪に手首を切る事を誘ったからじゃないの?」

 違う。そんな事していない。どうしてそんな事を思うのだろうと、目を上げて澪のお母さんの方を見遣ると、もう正気の沙汰とは思えない程の悲壮感を顔に貼付けていて、その捌け口を一生懸命に探しているようだった。

「ち、違います。私は・・私は澪を助けたかった」

「本当にそれだけなの?! じゃあ、どうしてすぐに助けにきてくれなかったの? 家だって近いのに」

 それは・・・と言いかけて私は止めた。遠くにある男の家に転がり込んでいて、家にはいなかっただなんて言ったら、澪のお母さんは増々私の印象を悪くして、事態はどんどん悪い方向に話が進んでいくだろうと、とっさに考えたからだった。

 サイレンの音はもうかなり近くなっていて、今にも赤いライトまで見えそうだ。

「・・・ごめんなさい」

 その時、後ろから母の声がした。私が安心して母の方を振り返った拍子に、澪のお母さんが気違いじみた大声で弾けるようにいきなりのたうち回った。

「でも、あなたが澪に手首を切らせたんでしょ? ねぇ、そうなんでしょ? そうだって言って頂戴!お願いだからっ! じゃなきゃ、あんなに賢い澪がそんな愚かな真似するわけないわっ!」

 その場に崩れ落ちた澪のお母さんの泣き声はテカテカした病院の床や壁に木霊して浸透しながら地を張って行くように低く響き、救急車のサイレンの不安と悲しさを轟いていく音と相俟って不思議な音楽を奏でた。

 澪のお母さんは、頭が良い澪があんな事をしでかしたハッキリとした理由を唯一仲が良かった私が知っていて、ただそれを聞きたかっただけなのかもしれない。けれど私は答える事が出来なかった。と言うか考える事ができなかった。

 なにが原因だったのかなんて、澪がこんな事になってしまった今ではなんの意味もない問いのような気がした。それは無責任な反省のない考えだろうか。

   『あたしになにかあったら助けて・・・』

 無言の母に連れられて病院から帰る途中、坂の途中に大きく突き出た見事に彩る紅葉の木を見上げた時、澪が屋上で言った言葉が聞こえてきた。

 ーそうだ。私は助けるって言ったのに、澪を助けられなかったんだ。

 しかも一回しかない、一番大切な時に。私しか助けられなかったのに。澪は私しか頼れなかったのに。私はその澪を救う事ができなかった。

 私は澪を助ける事ができなかった・・・

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