クーラーの鳴かない夏

尾崎中夜

クーラーの鳴かない夏

 いま思うと〈クーラー〉は、よくできたサビ猫だった。

 お腹が空いたら「ニャ、ニャ」と二回鳴き、トイレに行きたくなったら「ニャ、ニャ、ニャ」と三回鳴く。

 いっておいでー、とベランダの網戸を開けて送り出すと、五分後にはすっきりとした顔で戻ってくる。夏の日差しを浴びながら、のしのし。お腹の肉は、たぷん、たぷん(出会った頃からむちむちニャンコだったけど、餌とかどうしていたんだろう?)


 部屋に戻ってくるときは「ニャ」とひと鳴き。(またお邪魔しますね)と、〈クーラー〉は礼儀正しい猫でもあった。

 高校野球を観ている私の目の前を静かに横切って行き、ひょいとソファーに飛び乗る(一度ジャンプが足りなくて落っこちたときには笑ったなぁ)

 ソファーで再び丸くなる〈クーラー〉を見て、私はいつもくすくす笑っていた。

「君は本当によく寝るねー」

 

 当時、大学三年生だった私は、学生と社会人の綱引きが「おやおや。社会人の引きが強くなってきたぞ」と、そろそろ卒業後のことを考えなきゃいけない、けど特にすることもない、なんとも宙ぶらりんな日々を送っていた。その日もお昼過ぎになってもベッドの中でごろごろしながら、スマートフォンを弄っていた。

 大学生の夏休みなんてこんなもの。何となく夜ふかしして昼前にようやく起きる。冷蔵庫に何かあればそれを適当に炒めて「いただきます」、何もなければ、アイスコーヒーとポテトチップスだけで夕方まで過ごす。夕方暑さが和らぎ始めてからようやく近所のスーパーに出かける。


 やる気と元気があれば、あれこれ買い込んでちゃんとした料理を作るけど、まぁぐうたら学生の夕食なんて、大体お弁当か出来合いのお惣菜ですよ。ちゃんと自炊していたのは、大学一年の夏までだったかな。

 とまぁ、私はどこにでもいる女子学生なわけで、マイナスポイントをちょこっとあげるなら、先月彼氏と別れたことと、飲食店のバイトをクビになったぐらい(人員削減ってやつ? 変なお客さんに連絡先を訊かれたり、仕事がハードな割に給料が安かったり、色々不満あったからいいんだけど)


「男も仕事もない夏休み」

 言葉にすると切ないけど、特に気にしていない。ニ、三ヶ月ぐらいなら仕送りと奨学金で生活はどうとでもなるし、外面のいい浮気クズ男にまた遊ばれるぐらいなら、クーラーの効いた部屋で一日中だらだらしていたい。二十一にもなって高校生みたいなキラキラ青春を送る気はないし、逃げて行くような夏だってない(暑いの嫌いだから、早くどっか行ってほしい!)

 来年になったら就職活動、再来年はもう社会の歯車。夏の休みといったらお盆ぐらいで、それもどうせ帰省でほとんど潰れる。心ゆくまでだらだらできるのは、今年が最後だ。

 八月のカレンダーには、赤色の「☓」が既に二つ。大学の後期は九月一日から始まるので、残り一ヶ月もない。

(二十一歳、本当にこれでいいの?)と時折憂鬱になることもあるけれど、特にすることもなくて、したいこともなくて、赤色の「☓」がまた一つ、二つ書き込まれていく。


 赤バツが五つ。つまり八月六日。

 私はその日も昼過ぎに起き、冷蔵庫に炒めつけられる食材が何もなかったから、カップアイスで夕方までの飢えを凌ごうとしていた。

 エアコンの効いた部屋でカップアイスを食べていたら少し肌寒くなってきたので、私はベランダの網戸を開けることにした。五分ぐらい外の熱気を取り入れたら丁度いい室温になるだろう、と網戸を開け、そして私は「え?」と声を洩らした。

(タ、タヌキ?)

 エアコンの室外機の上で眠っている、そのむちむちとした生き物はよく見ると猫だった。茶色と黒のモザイク柄。(味噌猫? 違う。サビ猫だ!)


 室外機の前で屈んで、「へー、猫だ」と、私はお眠り猫を観察した。

 田舎では野良猫なんてどこにでもいたけど、地元を離れてこの街に住むようになってからは滅多に遭遇することもなく、猫というと、テレビかSNSでしか見なくなっていたので、久しぶりにナマの猫を見た。

 猫を見ると、つい話しかけてみたくなるのはなんでだろう。

「君、どこから来たの?」おやすみ中のサビ猫に、私は猫撫で声で話しかけていた。「……そこ熱くない?」

 エアコンの室外機は八月の直射日光をモロに浴びている。

 試しに触ったら、「あちっ」と手を引っ込めてしまうほどだった。

「ねぇねぇ、そんなところ降りなよ」

 頭を優しく撫でながら話しかけていたら、サビ猫はパチリと目を開けた。

 次の瞬間にはさっと立ち上がり、室外機から飛び降りていた。

(あっ! 逃げられちゃう!)

 捕まえようとしても、猫の俊敏さにはとても敵わない。

「ああん」逃げられた。

(久しぶりに会えた猫ちゃん、もう少し見たかったなぁ……)

 ところが、がっくりベランダから部屋に戻ると、いた!

 逃げたかと思ったサビ猫が、ソファーに居座っている。

「ありゃりゃ、不法侵入ですか君は」

 まん丸お目々に見つめられ、私はもう蕩けそうだった。

 胸はドキドキ。でも、怖がらせないようにゆっくりゆっくりと近づいていく。

 目の前、私は身体を折りたたむようにしてソファーの前に座る。今度は逃げられなかった。

「こんにちは。室外機よりそこがいい?」

 サビ猫はふわぁとアクビをした。分かり辛い返事だった。

「可愛い奴め」と私はサビ猫のお腹を触った。たぷたぷ……たぷたぷ……。


 けど、いくら可愛いとはいえ、ペット禁止の学生アパートで猫は飼えない。

 午後の間、ずっと一緒にいたけれど、夕方には寝ている彼女を起こして、「ほら、そろそろお帰り」とベランダのそばまで抱きかかえて行った(この子、重っ!)

 部屋から出し、頭をぐしぐしっと撫でてから

「バイバイ、また遊びに来てね」と私は網戸を閉めた。

(あんまり可愛がると情が移っちゃう)と名残惜しくもカーテンも引く私だったけれど、一、ニ、三、四……、目を閉じながら三十秒数えたところで、私は再びカーテンを開けていた。そしてがっかりした。サビ猫は、ベランダからもういなくなっていたから。


「いやー、癒やされちゃったな」

 いっぱい撮った写真を見ながら、私はこの日も深夜まで起きていた。

 サビ猫の動画を見たり、キャットフードの値段に驚いたり、調べてみると、サビ猫はなかなか賢い猫のようで、性格も奥ゆかしく、ちょっと変わった見た目も、愛好家からは人気が高いらしい。

 エアコンの室外機でお昼寝していて、部屋にもさささっと入ってくる。奥ゆかしい性格かはともかく、愛嬌があるのは間違いない。猫ならなんだってオッケーだ。


(また来てくれないかなぁ)と期待していたけど、彼女が再びやって来るまでにはずいぶんと間隔が空いた。エアコンの室外機をチラチラ見ながら、来るかどうか分からない気まぐれな生き物を一日中クーラーの効いた部屋で待っている、三日で馬鹿らしくなってきて、五日目には諦めがついた。


 ところが、諦めたそのタイミングで、彼女は再び私のもとへとやって来た。

 ガリガリと網戸を引っかいている音が聞こえて、ふと顔を上げたら、例のサビ猫が(入れてください)とばかりに、ニャーニャー鳴いているではないか。

「うわー、相変わらずタヌキー!」

 網戸を開けて、彼女を抱きかかえた。重たいけど、顔の高さまで持ち上げて頬ずりする。

 太陽の光をたっぷり浴びてきたようで、干した布団みたいにホカホカしていた。

「どうぞどうぞ。ここは冷えてますよー」


 サビ猫はこの日から毎日私の部屋に毎日来るようになった。

 昼の一番暑い時間帯に、クーラーで涼みに。

 だから私は、彼女に〈クーラー〉という名前をつけた。

 ネーミングセンスはともかく、

「クーラー」と呼べば、「ニャ?」と反応してくれるので、彼女もそこそこ気に入ってくれていたと思う。

 

 〈クーラー〉が毎日来るようになってからというもの、私の生活スタイルも大きく変わった。

 まず一つ。彼女はいつも一日の中で一番暑い時間帯にやって来るので、昼間の外出が一切できなくなった。

 もっとも、イケイケの同級生達と海や山に行ったりするバイタリティなど、私にははじめからないけれど、それでもときには、近くのコンビニに出かけたり、突発的なイベント発生で外出しなきゃいけないこともある。

 そういうときに限って、もしも〈クーラー〉がやって来たら?

 涼みに来たのに誰もいない。強い日差しの中でとぼとぼ帰って行く姿を想像しただけで涙が出そうになる。夜型生活を止めるようになったのも、〈クーラー〉との生活を守るためだった。


 用事がある日は午前中までにすべて済ませて、どんなに遅くても十二時半までには帰宅。一時から二時の間にやって来る〈クーラー〉を、お昼ご飯を食べながら待つ。

 そして夕方、暑さが落ち着くまで一緒にいるわけだ。

(猫はほんといいわ。可愛いし、人の悪口も言わない。嘘だってつかない)

 安いカリカリフードでも、とても美味しそうに食べてくれる。

 だんだんノリが合わなくなってきている同級生達と意味もなく騒いでいるよりも、よっぽど心が落ち着く。私が私らしくいられる。


 そうそう。〈クーラー〉との生活でもう一つ変化があった。

 なんとインドア人間の私が高校野球を観るようになったのだ!

(よくこんな炎天下でスポーツなんかできるなぁ……)

 と、私はそれまで屋外スポーツ全般を火星人の祭典ぐらいにしか思っていなかった。

 だからあの日、高校野球を五分も十分も観ていたのは、本当にたまたまだ。

「カキーン!」「わーわー!」「アウトー!」「ファール!」

 気まぐれの観戦も飽きてきて、チャンネルを変えようとしたときだった。

 普段寝てばかりいる〈クーラー〉がいきなりテレビ台に飛び乗った。そしてあっちこっち移動するボールを、追い始めたのは。

 ボールの動きに合わせて、右に「カッ!」、左に「カッ!」……と、テレビの画面にタッチする〈クーラー〉がとても可笑しくて、そういう経緯もあって私は、高校野球を少しずつ観るようになった。

 はじめは〈クーラー〉が遊んでいるのを眺めていただけだったけど、ゲームを観る時間が増えてくるにつれて(ルールはちっとも分からないのに)一生懸命頑張る球児達を応援するようになっていた。どっちが勝ってもどっちが負けても、彼らは最後まで諦めずにプレーする。

「アウトー!!」

 一塁に滑り込んだ最後のバッターが泣きながらベースを叩く姿を観ていたら、私まで泣けてきた。

 そんなとき、ぎゅーっと抱き締められた〈クーラー〉は、「フニャー……」と苦しそうに呻く。


 ――猫だから、と言ってしまえば、それで終わってしまうのだけど、〈クーラー〉は、高校野球の準々決勝を境にぱったり来なくなった。

 決勝戦を一緒に観るつもりだったのに、贔屓のチームがこてんぱんにやられるところを、私は一人で観た。最後の打者が見逃し三振で天を仰ぐのを観たとき、〈クーラー〉は、もうこの部屋に来ないのだと悟った。


〈クーラー〉と初めて出会ったのが、八月六日。

 カレンダーの☓は二十。今日は、八月二十一日。

 途中来なかった時期もあるけれど、大体二週間。


(気まぐれ屋さんとの付き合いにしては、長かったほうだよ……きっと)


 カレンダーの☓は増えてゆき、三十。

 八月三十一日、夏休み最終日。

 私はこの日も、クーラーの効いた部屋で一日中サビ猫が来るのを待っていた。

 時計の針が、既に三時を指していても。

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クーラーの鳴かない夏 尾崎中夜 @negi3

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