後編

「えぇ?……嫌いだから」

「そりゃそうなんだろうけど、嫌うにも理由があるでしょ。フィクションを面白いと思えないとか?」

「いや別に、面白さは普通に分かるよ。でも、だからこそ嫌なの」

「どうして?」

「本当に意味があるのかよく分からないものに、意味があると錯覚させられている感じが嫌」


 どういうことだろう?──僕は首をかしげた。彼女はそれに小さな頷きで応答し、視線を窓の方へ流す。


「小説を読んで心を揺さぶられる。涙が出て、どうしてだろう? ってその理由を一生懸命考える。でも分析すればするほど、その原因が、心を揺さぶることそのものが目的のノウハウにあると分かってしまう。どんなに心を動かされた作品でも……むしろ、巧みに心を動かされる作品であればあるほど、一歩引いて俯瞰すれば、型に則った感情の曲線や構成が見えてくる。そして思うの──あたしは一体何に感動してたの? って」


 そう感じる人もいるのか、と思いつつ、娯楽なんてそんなもんじゃないのか? とも思う。


「なんか、すっごい真摯に作品と向き合うね」


「はぁ? バカにしてんの?」


「いや、どっちかというと感心してるよ。まあでもそれって、例えば遊園地のアトラクションとかでも言えることじゃない? ジェットコースターがレールを登る。緊張が高まる。いよいよ頂点に辿り着いて、真っ逆さまに落ちる。レールのカーブに揺さぶられるまま、心が非日常のスリルに翻弄される。

 そうして遊具を降りた後、怖かった、楽しかった、爽快だったと余韻に浸ることはあっても、そこで『心を動揺させてしまった』なんて後悔、普通はしない。別の遊園地にあるコースターのカーブが似通っていたとしても、それが虚しいことだとは別に思わない。なのにこれが小説だと気に食わなくなるっていうのは、ちょっと不思議かな」


「遊具と小説じゃ全然違うわよ。前者は純粋に人を楽しませるためのものだけど、後者は表現だもの。そりゃあ娯楽的な側面が強い小説もあるでしょうけど、大抵はそれだけじゃなくて、何か作家の伝えたいことが織り込まれてる。小説でもなんでも、言葉っていうのは、誰かから誰かへ何か伝えたいことがあるから書かれるものでしょう?」


「うーん? それも楽しさの一つなんじゃないかな。表現になってたらダメなの?」


 彼女は僕を一瞥すると、なぜか少し諦めたようにふいと顔を背け、頬杖をついた。


「ダメとは思わないよ。でもあたしは嫌い。物語に強く心を打たれるほど、そこで語られるメッセージに何か特別なものを見出したくなるけど、実際には感動とメッセージの正しさの間に関係がないんだもの。本当に邪悪な場合、すごく巧みな心を揺さぶるノウハウの中に、ただ取ってつけただけの空虚なメッセージがあるだけかもしれない」


 物語の肩を持ちたい気分はありつつも、彼女が語った最悪ケースより質の悪い例が胸のうちにぽつぽつ浮かぶ。世界で一番多く人を殺した本は、一体なんだっただろうか。

 頭に思い浮かんだそれと呼応するように、彼女は続ける。


「物語で何かを伝えるって、卑怯なのよ。全く正しさの保証されてないことを、理屈抜きで人に飲み込ませることができるんだから。そもそもしっかりと定義された言葉で矛盾なく理屈を組み立てる以外に、本当に正しいことなんて一つも言えるはずがないのにね」


 物語を紡ぐという営みが、いかにも正しそうな理屈で殴られている。それを特に不快だとは感じなかった。おそらく、僕は日々何かを読みつつも、それが娯楽を超えるものと捉えていないからだろう。僕にとっての読書は、一時日常を忘れさせるものであっても、魂の糧になるような教えを与えてくれるものではない。言ってしまえば不安を和らげる薬とかと、あまり変わらないのだ。


 多分、そこが僕と彼女の違いなのだろう。彼女の読書への態度は、僕のものよりもずっと誠実だ。彼女を支配する ”小説” への気分が、なんとなく分かってきた。


「感動のオブラートに包まれていて、何を食わされてるか分からないのが怖い?」


 その僕の言葉に、彼女が妙な表情をした。無表情に近いが、薄っすら何かの感情が浮かんでいる。──これは、驚き?

 一瞬の奇妙な沈黙の後で、彼女はまたこちらに顔を向けた。


「うん……偽物に心を動かされて、自分の中の感動の価値を貶められるのが耐えられない。感動が強ければ強いほど、血管に猛毒を注射されてるような感じがする。何かの主張を納得させるために人工的なノウハウで気分を操作するなんて、もうそんなの、洗脳との本質的な違いが分からない」


 どうやら彼女は、本当に正しいと信じられること以外、自分の心に取り込みたくないようだ。しかもその要求水準がすごく高い。数学のように、理性で正しさが検証できるものしか断固として認めないぞという勢いだ。

 とはいえ、その感覚には共感できる部分もある。物語を通じてぬるりと入ってくるメッセージに心を汚されることは、物理的な身体を汚されるより自分という存在を毀損するかもしれない。気分を操作されることは、便器を舐めるよりも嫌悪感があって然るべきなのだ。


「だから感動にも理屈の下支えを求めるんだね。本物と認めた感動……例えば君が、その本から受け取ったようなものの価値を、間違っても毀損しないように」


 彼女は目をらんらんと輝かせ、口元を緩めた。”自分のことが理解されて嬉しい” という気分がありありと伝わってくる。

 まるで孤独に耐性がない人間の反応だ。彼女は普段好き好んで独りでいるのだと思っていたから、突然見せられた人懐っこさに少しぎょっとしてしまう。


「そう!」彼女は興が乗ったように喋りだす。「しっかりとした理屈で下支えされてない感動なんて全く信じられない。有意味な議論をして、本物と偽物を区別できるとは全く思えない。そういった表現の世界にもヒエラルキーや権威が存在してることが、ごっこ遊びにしか見えなくて笑っちゃう」


 気心の知れた友人とこっそり誰かの陰口を言うときのような、俗っぽい笑顔。彼女は嘲るような調子のまま、さらに続ける。


「権威の中で『良い』とされてるクラシックなんかを読み耽って、それをアイデンティティにしちゃってる人なんてもう寒すぎて見てられないわ。虎の威を借る狐みたいに、ことあるごとに引用しちゃったりなんかしてね。それ、張子の虎だから」


 おっと……。


「……あ〜分かる。ネットスラングで会話しようとする奴みたいな痛さあるよね」


 危なかった。もし僕の趣味がバレていたら、おそらく彼女と打ち解けることはできなかっただろう。初手で自分ことをベラベラ喋らないというのはやっぱり大事だ。


 ここからどうしよう。正直僕も真面目な話より、ちょっと下世話な話のほうが楽しい。大っぴらには言えない話をサシでこそこそやるときの、暗い笑いや独特の連帯感が好きだ。

 でも、なぜかは自分でも分からないけど、今の僕には、それよりも見てみたい彼女の姿があった。


 今僕がここで梯子を外したら、彼女は一体どんな顔をするのだろう?


 本当に正しいと確かめられること以外は摂取したくない潔癖な彼女。理性で扱えるものだけを心の周りに置いて、常に正しさの中に留まろうとする彼女。

 理性で扱えない、俗世の曖昧さのなかでのたうつ人々の姿は滑稽だろう。彼女が不自然なほどその営みを嘲るのは、おそらくそうすることで、自分が常に正しい側にあることを信じようとしているからだ。自身の魂が無謬のものに守られ、純潔であると感じたいからだ。でも──


 僕には彼女が、本当にそこまで純粋なものだけで構成されているとは信じられなかった。


 理性で検証できるものの美しさと、今目の前にいる彼女の美しさは、繋がっていなかったからだ。


「……あのさ」

「なに?」


 彼女の顔は、ごちそうが出てくるのを待つ子供のようだ。これまで僕は彼女が心地よくなるようなことしか言わなかったから、またこの口から心地いい言葉が出てくるのを期待しているのだろう。

 その気持ちを裏切ることへの罪悪感はもちろんある。もともとの印象に反して、彼女がとても寂しがりであることが分かってしまったから、より一層かわいそうだ。でも何故か、これからしようとすることを止められない。


「……僕は俗物なんだ、人並みにね。だから、どんな服を着て、どんな振る舞いをして、どんなふうに話せばこの曖昧な俗世から受け入れられるか、人並みには分かる。従う価値があるのかも分からない曖昧なルールの中で、ごっこ遊びができる」


「なに、どうしたのいきなり」


 半笑いでぽかんとしたままこちらを見ている彼女に、僕は言った。


「ねぇ、どうして君はそんなに、綺麗なの?」



〈了〉

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