彼女は小説が嫌い

川添春路

前編

 五月の末。


 高校に入って初めてのテスト期間が終わった。つい先日まで自分の生活を制限していた試験対策の反動もあって、なんだか授業に身が入らない。

 ラップトップの画面をぼーっと見やる。プログラミングの授業なんて退屈すぎてやってられない。こんなものをいくら座学で習ったって、好きでやってるやつに敵うはずもないのだ。

 板書を写経してプログラムの実行ボタンをクリックする。黒いウィンドウの中に、このラップトップがせっせと計算したのであろう『42』という結果が表示される。


 虚無だ──思わずため息が漏れた。


 この退屈な時間が、今やこれからの生活を良くすることに何か一つでも寄与するだろうか? 絶対にしない。テストの点が取れるようになるだけだ。学校で教える意味がないとは思わないけど、必修でなくてもいいだろう。こんなもの、機械オタクだけがやってればいいんだ。


 授業に集中することを早々に諦め、読書アプリを立ち上げる。昨日ダウンロードした小説の続きは画面いっぱいにデカデカと表示され、先程まで写経していた記号の羅列を覆い隠した。


 今目の前にあるこの小説に、僕は一銭も払っていない。別に違法にダウンロードしたわけじゃない。作者が死んでから所定の年月が経過して著作権が失効したため、テキストが非営利団体によって公開されているのだ。


 もうお金を使わなくたって、この世界には長い時間をかけて評価の定まった物語が、一生かかっても読めないほどに飽和している。もちろん中には自分に合わないものもあるけど、概ねのものは一時のあいだ、日常の不安だとか、理不尽だとかを適度に忘れさせてくれる。そうしたものと、あとは夜に目を瞑り、夢の世界で心を休める権利さえ確保されていれば、他のことは大体なんでも、どうでもいい。


 少し時間が空いた時、決まってする暇つぶしがある。自分の中での何かのランキングトップ10を決めるのだ。例えば面白かった映画とか、音楽とか……比べるものは何でもいい。どうせ暇つぶしなんだから。

 自分の生活を構成する時間の中で、小説を読んでいる時間の大切さはどれほどの順位になるだろう? 睡眠より大切だろうか? さすがにそれはない、これから一生眠れない体になるぐらいなら死んだほうがマシだ。では食事はどうだろう? いい勝負かもしれない。一生栄養を点滴する生活と一生読書をしない生活を選べと言われたら、かなり迷う。


 しばらくそんな意味のないランキングに思いを巡らせ、少し飽きて、先ほど立ち上げた読書アプリに視線を戻す。


 活字が流れ込んでくる。半世紀以上の時を越えて、もう死んだ人間の紡いだ物語が、この心のうちに再生されていく──


     *

 

 ふと顔を上げた時、授業はとっくに終わっていた。少し集中しすぎたらしい。毎日遊びに誘ってくる友達も今日は風邪で休んでいたから、誰にも声をかけられないまま、気づけば教室に一人取り残されていた。

 窓の方を見る。日の落ちかけたグラデーションの空に、白い絵の具をハケで伸ばしたような雲がずっと続いている。校舎に吹く風が穏やかだが、上空の大気は慌ただしいようだ。

 今日は久々にバイトもない。何をして過ごそう──そう思いながら立ち上がったところで、ふと、窓際の席に自分以外の誰かがまだ残っていることに気づいた。


 肩までの黒髪の上を、窓から差す柔らかな光が滑らかに流れている。それはうつむいた顔を遮り、表情を隠していた。

 彼女のことは知っている。名前は忘れてしまったが、確か入学式で新入生代表として答辞を読んでいた子だ。何故かあまり学校に来ないし、たまに顔を出しても特に誰と話すわけでもない。ゴールデンウィークも過ぎてすでにグループが固まりきったクラスの中で、彼女はほとんど透明人間のようになっていた。

 その子の黒縁眼鏡が見つめる先で、不自然なほど綺麗に手入れされた指先がハードカバーのページをめくる。タイトルを読もうとしたが、こちらから見えるのは裏表紙だけだった。

 答辞を読んでいたぐらいだから、おそらく頭がいいのだろう。課題を写させてほしい──ラップトップを閉じて右手に携え、彼女に近寄る。

 前の席まで来たところで、微かに人工的な、花のような香りがすることに気づいた。彼女を初めて間近に見る。くたびれた本を支える爪は大人びた光沢を纏っていて、髪は今まさに美容室から出てきたようにさらさらとしていた。身なりだとか香りだとか、そういった人間のガワに頓着があるタイプだと思っていなかったから、少しはっとする。遠巻きに見る飾り気がない白黒写真のような印象と、間近で見る洗練された細部との間には、不思議なギャップがあった。


 ようやく表紙に書かれたタイトルが見える。英語だ。──なんとかさんの……不完全……定理……?


「なにそれ、SF?」


 僕が声をかけると、その子はこちらをギロリと睨んで、


「は? あんた誰?」


 こんなにしょっぱい反応をされると思ってなかった。二人称が ”あんた” なのもかなり意外だ。


「いや、なんかごめん。珍しい人が教室に残ってるなと思って。小説好きなの?」


「……小説なんか読まないわよ」彼女は開いたページをこちらに向ける。「これは数学書」


 突然目の前に広げられた活字の羅列に目をやる。うんざりするほどギュウギュウに敷き詰められた英文の合間には、確かにぽつぽつと記号の列が書かれていた。でもそれは自分が知っている ”数式” とはまるで違う。どちらかといえば、さっきまで授業で書かされていたプログラムのソースコードに近い。


 小説なんか読まない──その言葉の含みが気になる。でも、彼女はトゲトゲしたオーラをこちらに向け、今にも本を閉じて帰らんとしている。彼女と打ち解け、課題を写させてもらうことが目的なら、今は別の話題を選ぶべきだ。


「へぇ、何書いてあるのか全然わかんないけど。数学が好きなの?」


 好きなものについて話が及んだ時、気分が悪くなることはそうそうない。そう思って話題を選択した。

 彼女は一瞬意外そうに目を見開いたあとで、少し考えるように天井へ視線を移す。


「……ん〜、まあね。好き、なんだと思う。多分……」

「なにその曖昧な感じ」


 そんなにあやふやな答えになるようなことを訊いたつもりはなかった。


「いや」彼女が続ける。「なんか存在が身近にありふれすぎてて、好きとか嫌いとか、そういう二値的な気分で捉えられない……」


 全く分からない感覚の話をしている。彼女の頭の中にある ”数学” と僕の頭の中にある ”数学” は本当に同じものを指しているのか?

 質問が良くなかったもしれない。彼女が『ありふれすぎている』と言ったように、彼女にとっての数学は僕が思うものよりもずっと広い概念かもしれないのだ。なら、たとえば……。


「ふうん、まあでも、その本は気に入ってるみたいだね」


 角や縁が削れ、表紙の文字さえかすれたカバーを見て、それが色々な場所に携帯され、様々な時間の中で読み込まれていることが想像できた。


 こちらの言葉のあとで、彼女の目は突然わっと輝きだし、


「うん、大好き」


 表情から警戒が解けていく。やっと正面玄関を探し当てられたらしい。


「一冊の本をそんなにボロボロになるまで読み込んだこと、僕はないな。なんとかの定理みたいなタイトルだけど、そんなにすごい発見だったの?」


 難しい数学のことなんて正直全くわからない。分からないなりに、話題を掘り下げる努力をしてみる。

 彼女は笑顔を零れさせながら視線を本に戻した。


「それもあるけど、証明が本当にものすごくて……。はじめは算術の言葉で、形式的な小さい部品がいくつも作られていくんだけど、気づいたときにはこの手の中に、それを定義している算術自体の巧緻な模型ができあがってるの。……その時あたしは、その証明が構成した無限の入れ子の中にいて、そこから確かな足場がどんどん積み上がっていく様が、まるで精緻で巨大な建物を組み上げているみたいで──こんなことができるんだって、本当にドキドキした……」彼女の目が潤んだ。「そのドキドキを感じたくて、何度も、何度も読んじゃう」


 感極まりながら気に入った映画の感想を語る人は見たことがあるが、感極まりながら数学の定理証明の感想を語る人は初めて見た。

 彼女は一度胸を落ち着けるように息を吸い込んで、はぁと吐き出し、


「……さっき、数学が好きかって訊いてたよね? これは数学の話じゃなくて、あたしが主観的に数学をどう捉えてるかって話なんだけど……」


 彼女がどうしてそんな断りを入れたのかはよく分からなかった。とはいえ、意外と普通に喋るタイプのようだ。頷き、続きを促す。


「数学はあたしを含むこの世界の一切に依存しない。でもこの世界の一切は、数学に依存してる。数学はこの世界とそういう一方的な関係を保ったまま、時の流れによる劣化もせず、誰にも侵されない場所でいつまでも永遠にありつづけるの。だから、数学がくれるものは絶対に本当で、特別なんだ。そういうもので頭をいっぱいにしているときだけ、あたしは人工的で不定形な現し世のことから、自由になれる」


 彼女は安心に包まれているような柔らかい表情で、少しゆっくりとそう語った。

 僕にとっては数学なんてトップクラスに嫌いな科目だが、そんなふうに話されると案外いいものなのではないかと思えてくる。彼女の手元にある本が、急に魅力的なものに見えてきた。

 とはいえ、彼女が言っていることは最初から最後まで一つもピンとこない。ただその表情から、彼女が本の内容に魅せられていると分かるだけだ。彼女は ”数学” を、まるで俗世から切り離された聖域であるかのように話すが、それは僕が知っている ”数学” とは違う。


 でも、彼女が語る言葉の端々には妙に既視感がある。放置するのが少し気持ち悪くて、僕はその正体を知りたくなった。


 多分僕は、彼女が説明するような美を経験したことがない。だから彼女が感じているものは、自分が知っているもののうち、近そうなものから類推するしかない。

 不可侵の場所にあり、この世を規定する、永遠の何か。無常であやふやなものから魂を遠ざける絶対性──そんなもの、やっぱり僕は知らない。何か信仰を持っている人は、その教義やらの中に彼女が抱くような気分を感じていたりするのだろうか?


 ぐるぐると考えを巡らせ、あれでもないこれでもないと記憶を辿っているうちに、ふと既視感の源泉に辿り着く。


 彼女が語っているような美と近いものが、ある小説のなかで語られているのを読んだことがあった。もっともその小説が説明する美の対象は数学ではなく、ある寺院の建築物についてだったが。


「はは、なんだかそれって……」


 それを口に出そうとしたところで、急に危うさを覚えて言葉を飲み込む。


「……なに?」

「いや、なんでも」


 既視感の正体が突き止められ、喉の奥に小骨が刺さったような気分は解消されたものの、結局その小説で描かれていた美と彼女が語る美の間に意味のある対応があるのかは怪しかった。火をつければ燃える木造の建築と、破壊されるような実体を持たない数学は、やっぱり違う。二つの性質を説明する表面的な言葉が偶然似ているだけで、それらを目の当たりにした当事者の心の内に沸き起こる感情の間には全然関係がないかもしれない。そもそも的外れであろうがなかろうが、それを口に出すことは彼女を不快にさせる可能性を十分に孕んでいた。


「はぁ? 変なとこで黙んないでよ。気になるなー」


 彼女は呆れたように眉を顰めたが、口元はまだ笑っていた。


「いや、分かったようなことを言うのもちょっと烏滸がましい気がしてさ」

「ふーん」彼女の手に支えられていた本が机に横たわる。「変なやつ」


 くたくたになった本は重力に負け、寝そべるように開いて夕日を浴びている。彼女は視線をページに戻さず、椅子の背もたれに体重を預けた。


 窮屈さのない柔らかな沈黙が流れる。こうして会話を続けることを、彼女に許されたような気がした。


 もともとは、課題を写させてもらおうという下心のもとに話しかけたのだった。でも、会話の中でもともとの印象をことごとく裏切っていく彼女のことを、僕はもう少し知りたいと思うようになっていた。


 まるで展開の見えない彼女との時間──わくわくする。続きが気になってやめられない。この気持ちは、面白い物語を見つけたときと同じものだ。今、彼女について一番気になることは……。


「……さっき、『小説なんか読まない』って言ってたよね。あれってなんで?」

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