オフィーリア

紫鳥コウ

オフィーリア

 真夏の陽のたもとの川の水に浸かり、いくぶんか丸くなりつつある石の敷物の上に座っていると、風鈴がチリンと鳴った――と思ったら、橋を渡る自転車のベルだった。川上から海の方へと宛先のない風が吹くたびに、二度と夜はこないのではないかと感じてしまう。この川の、落ち葉さえ眠らざるをえないような流れは、進みゆく時間の比喩のように見えた。


 わたしはいずれ、身体と心が無数の桃色の花びらへと解かれて、この川のような、なにかの比喩にさらわれて散らばっていくのだろう。そして、自分というものが、青春と呼ばれるものに寄生され、脳髄から左足の小指の爪までが、なすがままに隷属させられている、このいまというときを回想するたびに、おのれの心身がうすら寒くなり、すっかり可動域が定まった両腕で、抱えることのできるだけの心と身のすべてを、抱きかかえようとするのだろう。


「鮫島くんって、森の奥から人里に迷いこんだ狼みたい」


 わたしは、彼のことをあまりにも軽率に扱っていた。孤独を抱える者は充足していない――なにかに飢えている。そんな決めつけから、遠慮なく彼に近づいて、善行という名の麻酔銃をこめかみに突きつけていた。彼は彼なりの論理、信条、理屈、価値観、倫理、美徳――そして、鍵をかけて上から縄で固結びした秘密を抱えて生きている。しかしわたしは、子供の悪戯のような気軽さで、例えば、彼の論理をわたしの論理へと入れ替えてやろうとしていたのだ。


 自己中心的で自意識過剰で、自分の正しさは、誰が見ても正しいものなのだと信じきっている――そう、こうしたことにハッと気づいて、そんな自分を過去のものとして遠ざけて、内省だの羞恥だのに悶えることで、寄生虫は食べるものを失っていく。爪先からだんだんと、桃色の花びらが鱗のようにはがれていく。そしてオトナというものになり、恋というものが、偶発的に芽生えるものではなく、探求するものであると思い立ち、いまとは違うどこかへ行きたがるのだ――と思う。


 あの日、わたしは醜悪な光景を見た。六月のことが嫌いになった。


 友人という名称は、わたしとあなたはパンという部類よ――という連帯を示す証書のようなもので、それは、机から落っこちて風に吹かれてドアの隙間から廊下へと消えて、追いかける間もなく掃除機に吸われてしまえば、もうなかったものになる。それでも、友人という名称を使い続けて、その虚構を努めて現実のなかに位置づけようとしてもがくのが、青春というもの。しかしオトナになれば、そうした虚構を虚構として受けいれて、建前というものを器用に使い、うまく立ち回れるようになる――らしい。


 神社の裏手で息絶えた蝉を踏んづけてしまった。三日前に。


 そして、宇宙へと届くはずもないのに威勢をはった破裂音のたもとで、窒息しそうになった。あの一時の高揚と衝動により作られた雰囲気としか言えない未完成な物体は、すぐさま嘔吐するほどのものではなかったが、幽かな明かりを頼りに家へと帰る途中、廃校になった小学校の校庭の奥にあるプールを見たその瞬間に、浴衣に描かれた金魚が蠕動したかと思うと、そいつは身震いをして、未消化のそれを遠慮なく排泄した。


 翌朝、わたしは、かまびすしい蝉の音のなかから、わたしというものを構成する数枚の譜面から飛び出てしまった音符を探そうとした。タオルケットを伸びきった爪で引っ掻きながら。枕を遠くに投げてしまって。……


 ただでさえ、青春という寄生虫に蝕まれることは耐えがたいのに、わたしたちは、お互いを怨みあい、傷つけあい、しらじらしく慰めあい、オトナというもののオトナ然とした態度を、特権階級の娯楽だと受けとって、反抗をしては沈黙をして、ぐちゃぐちゃになった感情をゆさゆさと揺らしながら、切り刻まれた瞳のなかの記憶と、張り裂けてしまった傲慢な妄想を、手縫いで修繕していくのだ。


「青春そのものだねえ」

「ほっといて」


 わたしは依存している――裏切られたあと、裏切られたことを根にもちながら、いつか復讐してやろうという慾望に。


「描いていい?」

「勝手にして」


 涼やかな風が水面を走ると、なにもかもが厭になって、丸まった石の上に頭を乗せ、半身を川の流れに捧げて、仰げばそこにある太陽を軽蔑した。わたしは、陽光に照らされると、その熱によって愚かになり、青春における必要条件を数えはじめてしまう。


「オフィーリアみたい」

「オフィーリア?」

「ミレーの絵画のひとつ」

「そう……」


 醜悪に描いてほしい。それをきっかけに絶交したい。わたしは不器用で、嫉妬深くて、自分を客観的に見ようとしては、失敗する。


「ピンクの花びらが……」

「なんか言った?」

「ううん、なんでもない」


 風鈴がチリンと鳴った――と思ったら、彼が橋の上から覗きこんできた。太陽を背にしたせいで暗くなった顔を向けて、ただ黙って、わたし――わたしたち――を見くだしている。

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オフィーリア 紫鳥コウ @Smilitary

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