シットオンシットオンシットオンカヤック
スミ・スミオ
シットオンシットオンシットオンカヤック
溶けた氷がグラスとぶつかって、キンッと乾いた大きな音を立てた。音はバーの中をゆっくりと回遊し、部屋中の人々の顔をひとつひとつ丁寧にたしかめるとそのうちの一人の鼓膜に取り入り、中耳腔を通り抜け、蝸牛の入り口でその内部構造に頭をふるとがっかりした様子でぼくのグラスのもとまで帰ってきた。気づけば後ろでガリガリと音がする。何事かと振り返って見ればそこには船がとまっていた。二人組みの男が海中に垂れた鎖を引き上げようとしている。不思議なこともあるもんだ。アルコールでボケた頭が見せた幻。バーで酒を飲んでいたと思ったら、船? そして鎖? どうしていま鎖が出てくるんだ? 話の順序を正そう。
思えば昔から、他人の打ち明け話を聞く機会が多かった。
その頃のぼくは年がら年中ふわふわふわふわしていて、宙に浮かんでるシャボン玉みたいに意識がはっきりとしていなかった。それは母親に言わせてみれば甘えたであり、妹から見れば兄貴は夢の中を生きているというものだった。どうしようもないやつ。母と妹の間でぼくへの評価は一致していた。仕事も恋人もころころ変わった。そして気づけばあっという間に結婚を意識しなければならない年齢に差し掛かっていた。ぼくのこれまでのプロセスはこんな感じ。同棲を求められる。別れる。同棲を求められる。別れる。同棲を求められる。別れる。その繰り返し。カウンセラーからはいい加減父親を探すことはもう諦めなさいと言われた。これからはありもしないものを探すより、物事を現実的にとらえなおしていきましょう。あなたに必要なのは父親的存在ではありません。あなたが父親になるべきなんです。かりそめのものをいくら得たところで決して満足できませんよ。それはたとえあなたが(あり得ないことだが)実の父親から愛されたとしても変わらないでしょう。すべては今更なの。だから、あなたは与える側にまわるべきです。なるほど。ありがとうございます、先生。前向きに受け止めてくれたみたいで嬉しいです。ぼくは先生に礼を告げるとカウンセリングを終えたその足で沖縄へと飛んだ。
突発的に。
誰に告げることなく。
ただただ癒しを求めて。
もちろん仕事はクビになった。
水の上。海。エバーグリーンの輝き。仕事と恋人とカウンセラーの言葉たち、そのすべてに嫌気がさしたぼくはリゾートホテルに宿泊していた。部屋は最上階のスイートを取った。朝食を食べ終えると、日がな一日、バルコニーに備え付けられた椅子に寝そべって眼前に広がる海を眺めた。太陽の位置によって、海は様々な姿に形を変えた。中でも夕暮れ時の陽が沈もうってする瞬間が最も美しかった。暗くなってからも夏の夜風にあたりながら波の音を聞いた。
三日目の夜になって、人恋しくなったぼくはホテルのバーを訪れ、マスターと取り止めのない話をした。適当で当たりざわりのない会話だ。そうやって三杯か四杯か飲んで、酔った頭でぼんやりと棚に並んだボトルを眺めていると、ふと隣に誰かの座る気配がした。見ればドイツ系の顔立ちをした男が座っていた。彼はにっこりとぼくに向かって微笑むとウイスキーを注文した。彼は空になったぼくのグラスを見て「となりの彼にも」とマスターに告げた。流暢な日本語で、彼のイントネーションには独特な愛嬌があった。
「オンザロックでよかった?」と彼が言った。
「ああ、ありがとう」
「ひとりなの?」
「うん」
「きぐうだね。ぼくもだ」
「そうなんだ」
「ここにはどのくらいいるの?」
「もう三日かな」
「このあたりはほんとに海しかないよね」
「そうだね」
「日中はなにしてる?」
「海を見てる」
「見てるだけ?」
「うん」
「ふうん」彼はウイスキーを一口ふくむと、くるくるとグラスを回した。「海には入らないの?」
「ベタつくのが嫌で」
「じゃあカヤックに乗れば」
「カヤック?」
「一人でぼんやり海に浮かぶんだ」
「そんなことできるの?」
「もちろん。想像してごらんよ。きみが一日中眺めている海にぼんやり漂うことができたらって」
ぼくは目を瞑って想像してみた。
「かなり素敵だ」
「だろう?」そう言うと彼はグラスを置き、にっこりと微笑んでからぼくに向かって手を差し出した。「ぼくはステフ」
そのようにしてぼくらは友達になった。
翌日。朝食を食べ、ホテルのロビーで落ち合うと、ぼくはステフと一緒に海に出た。二人乗りのシットオンカヤック。ぼくが前で、ステフが後ろ。海上は凪いでいて、とても気持ちが良かった。しばらくゆっくりとパドルを漕いで身体をならすと、岸辺から離れ、遠くに見える小島を目指して全力で漕いだ。小島について岸に上がると、ぼくの肌は茹でたタコみたいに真っ赤になっていた。砂浜に腰を下ろしてステフが持ってきたツナサンドを頬張り、ビールを飲んだ。昼寝をし、煙草を吸い、寝そべって空を眺めた。上空ではミャーミャーとカモメが鳴いていた。ぼくはすっかりカヤック遊びに夢中になった。夜になると二人でホテルのバーに顔を出し、朝はビュッフェでエネルギーを蓄えるとまたすぐに海へと繰り出した。ステフと海に出るのは気分が良かった。
「すっかり気に入ったようだね」とステフが言った。
「うん」
「次は別々のカヤックで海に出てみようよ」
「いいね」
ぼくらはチップスを摘みながら他愛もない話をした。夜が更けてバーが閉まるとぼくの部屋に場所を移し、バルコニーで波の音を聞きながらコーヒーで割った泡盛を飲んだ。気づけば時計は二時をまわっていた。ぼくはうとうとし始めていた。もう眠ろうか、と切り出そうとしたところでステフが口を開いた。
離婚したんだ。日本人の妻がいた。妻とはフライブルクの大学で出会った。ぼくは哲学の博士課程に進んでいて、学生の頃、日本語を専攻して一通り話せるようになっていたから、夏休みの間、小銭稼ぎにと日本からの短期留学生向けのチューターをしていた。彼女はその短期留学生だった。一目でぼくらは恋に落ちた。そのうち彼女はぼくの部屋で一緒に暮らすようになって、翌年妊娠した。ぼくは歓喜した。彼女が出産して、息子が生まれると、ぼくはますます論文を書くことに精を出した。幸せだった。チューターの仕事も続けていた。毎年、たくさんの日本人の子たちがきた。ぼくは彼らをあちこちに連れて行ってあげた。有名な古城を巡り、海や山でのレクリエーションを組んで、フライブルクの街並みを案内した。夜になれば酒場に繰り出して、やんちゃな子はクラブに連れて行ってあげた。たくさんの子と仲良くなった。そしてたくさんの好意にさらされた。そのうちぼくは彼女と子どもを置いて夜な夜なクラブに出ては若い子を口説くようになった。もちろん、セックスのためだ。妻とはうまくいっていたし、子供のことも好きだったけど、やめられなかった。こんなことはこれで終わりにしようってなんども思った。でも、数日もするとぼくはダメになった。気づけばクラブにいてデタラメなことを話しまくっていた。ショックだった。ぼくは絶対にこんなことはしないって信じていたのに。ぼくは身を以て知っていたはずなのに。ぼくはおんなじことをした。ある日、家に帰ると妻と子どもは消えていた。ぼくへの悪態ひとつなかった。でも、すべてがぼくのせいってわけじゃないんだ。これは血と遺伝子の問題なんだ。だから、その問題に向き合うことにしたんだ。
ひとしきりそう話すとステフはソファーに横たわってすぐに寝息を立て始めた。ステフの話についてぼくがなにか意見や感想を言う暇もなかった。結局、ぼくはうまく寝付くことができなかった。気がつくとバルコニーの椅子に座ったまま眠っていた。
次の日もぼくらは一緒に海に出た。別々のカヤックに乗り込むと、気の向くままに海上を走らせた。昼時に持参した食事を取ると強烈な眠気に襲われた。「疲れてるみたいだね。少し眠ろう」。そう言うとステフはぼくのカヤックにロープを繋いで、錨をおろした。「こうしておけば流されない。すこし経ったら起こしてあげるよ」。「ありがとう、おやすみ」。「おやすみ」。
目を覚ますと今にも陽が暮れようとしていた。どうやら寝過ぎてしまったらしい。ぼくは上体を起こして伸びをするとステフに声をかけた。「もう帰ろう」。ここ数日で普段使用しない筋肉を使い倒したつけが体のあちこちで噴出していた。カヤックの底は硬く、長時間眠るのにはあまり適していなかった。「なあステフ。帰ろうよ」。ロープで繋がれた彼のカヤックを揺らす。返事はなかった。「ステフ?」。ぼくは眠っているステフのカヤックを覗き込んだ。だが、カヤックの中にステフの姿はなかった。ぼくはカヤックの縁を掴んだまま固まった。うまく事態が飲み込めなかった。
海に落ちた?
もしそうだとしたら早く助けを呼ばなければならない。
ぼくは急いで錨を引き上げようとした。だけど、錨はびくともしなかった。どうやら海底で複雑に根がかりしているみたいだった。すぐにでも助けを呼びたかったが、貴重品はすべて部屋に置いてきていたし、岸からは離れ過ぎていた。ただ時間だけが過ぎていった。あたりはどんどん暗くなった。時折、近くで魚の跳ねる音がした。ぼくは途方に暮れた。幸い、海は凪いでいたが、いつ天気が変わるともわからない。ぼくはステフのカヤックを漁った。中身の入ったビール缶が二つ。空き缶が四つ。煙草のパックとライター。そしてハンドタオル。ぼくはタオルを首にかけ、カヤックの底に寝そべると煙草を一本吸った。タオルからはステフの匂いがした。なぜステフは消えてしまったのだろう? どうして錨はもち上がってくれないのだろう? 彼ならぼくの父親役にぴったりだったのに。波に揺られながら、そんなことを考えた。一時間か二時間、カヤックの底に寝そべって煙草を吸った。煙草はあっという間になくなった。最後の煙草に手をつけた時、ぽつぽつと雨が降り出した。万事休すだ。このまま神に祈りを捧げながら一晩過ごすか、岸まで泳いで帰るか、さてどうしようかと考えていると遠くの方から明かりが近づいてきていることに気がついた。
ぼくはタオルをちぎれんばかりに振り、大声で呼びかけた。船はすぐに気づいてくれた。
「どうしたー? 戻れなくなったのか」
ぼくが事情を説明すると船人は快く手伝ってくれた。
「念のため海保には連絡しといたから」
「ありがとう」
「早くその錨をあげちまおう」
錨は二人がかりでもびくともしなかった。鎖を船に繋いで引っ張るとようやく錨は動き出した。ゆっくり、ゆっくりと。根がかりした岩ごともち上がっているような具合だった。ようやく海面から黒い塊が見えるとぼくたちは鎖を掴んで船に引きあげた。
錨。
それはステフの死体だった。
彼の身体には海底にあったであろう大きな岩がいくつものロープで括りつけられていた。手から滑り落ちた鎖が岩にぶつかって、キンッと乾いた大きな音を立てた。音はうねりをもってあたりに響き渡ると、やがて暗い海の中へと吸い込まれていった。
シットオンシットオンシットオンカヤック スミ・スミオ @sumio
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