第3話 灰狼

 森の中の歩き方にはコツがある。

 高さのある山などとは違い、そこまで意識されることは無いが、特に人によって踏みしめられた道ではない場合、相応に歩き方を考えるのが良いと、この三年の経験でわかった。

 障害物を大きく避ける時を除き、通常の道を歩く時の七割程度の歩幅で進んでいく。木の根や泥濘、石などに足を取られた時に大きく足を踏み出していると、そのまま重心が崩れて倒れてしまう。場合によっては足を挫くこともある。特に野営具を背負っている時などは、重心が崩れやすいため、余計に気をつけている。リンウォース北部の山間地帯のような場所では、また違った重心の取り方と歩き方が必要になってくる。


 本来ならばこういったコツを若いうちに身に着けておく必要がある。身につきやすいし、何よりも怪我をした場合でも回復が早いからだ。誰かに教えてもらいやすい、というのもある。酒場でも宿でも、先輩冒険者に一杯奢れば、気のいい奴ならば何でも教えてくれるだろう。むしろ、酒の一杯で食事をご馳走になれる可能性もある。一緒に依頼や探索に出てくれることもあるかもしれない。そうやって交流していくことで、冒険者として必要な様々な知識や経験を身に着けていくのだ。


 しかし、ルークスはその若い期間を冒険者として過ごしていたわけではない。三年前、二十九歳の夏にファスバーンの街で、冒険者として登録をした。三十歳といえば、半数以上の冒険者が引退をして、第二の人生を歩み始める。これまでの戦闘や探索などの技能を活かして、どこかの街や村の警備兵や狩人というのが多いだろう。また、酒場や食事処といった店を開いたりする者もそれなりにいる。三十歳前後というのはそんな年齢だ。

 二十九歳から冒険者となったという話を聞いたことは一度も無い。もしかしたらそんな奴もいるのかもしれないが、ほとんどが何かしらの事情を背負って、冒険者以外に生きる道がなかった者だろう。そして、最後にすがったはずの生きる道で命を失う。しかも、ほとんど人との交流が無いのだろう。そうでなければ、多少なりとも話に出たりするはずだからだ。

 ファスバーンはリンウォース国内でも王都を除けば一二を争う規模の都市だ。そこの冒険者組合でそんな中年から冒険者になった人間の話を聞いたことがないというのは、実在しないに等しいだろう。登録に行った時に、わざわざ年齢を伝えることはしなかったが、それでも風体を見て怪訝そうに見られたのも、今となっては納得がいく。


 そんなことを考えながら歩いていると、視界の端に動くものが見えた。右。剣に手をかけて、右側に視線をやるが何もいない。

 音。反対から草の触れ合う音が流れるように移動している。次は右。音。身体は大きく動かさず、視線だけを動かす。


 灰狼。

 複数で連携を取って獲物を狩る魔物は、この付近では灰狼くらいのはずだ。音の移動速度からも、まず間違いないだろう。二匹はいるのは確実だ。あとどれくらいいるのか、そこが問題だった。三匹までならなんとかできる自信も、何より経験があった。ただ、四匹を超えて襲ってきた時に、どれだけ対処できるかは正直なところわからない。


 周囲を音が動き回っている。姿は見えない。こうして圧力を増して行く中で、獲物が動き出すのを待っているのだ。どちらかに動くと背後から飛びかかってくるはずだ。背中にじっとりと汗が浮かんでいるようだ。背負い袋が重く感じる。下ろす時間があるのか。あると思うしかない。背中の攻撃を防ぐことができても、動きが鈍い状態では足元への攻撃を避ける余裕がなくなってしまう。覚悟を決める。


 ルークスは長剣の鞘を握っていた左手をそっと離し、ベルトの右腰に吊るしてあるナイフを抜いた。次いで、逆手に持ち替え、刃先が身体に当たらないようにしながら、左手を背負い袋の肩紐から抜く。背中から荷物が右に垂れ下がる。この動きに釣られたのか、左後方から音が急速に近づいてきた。

 右側に流れた荷物の重さを利用して、身体を回すように右手も肩紐から抜き去り、音の方に視線をやる。やはり灰狼だ。一匹が走ってくる。十歩ほどの距離。一瞬で縮まる距離だ。

 灰狼の方に足を踏み出しながら、右手は剣の柄を握る。鞘を吊るしているため、左手で抑えていないと少し抜きづらい。身体と腕を回すように大きく動かしつつ、灰狼が飛びかかって来たところを抜き打ちざまに上段から斬りつける。

 返り血が少し顔にかかるところまで見えた。集中できている。同時に音。斬った灰狼の唸り声。それだけではない。吠え声をあげながら、背中からもう一匹が迫ってきているようだ。他の灰狼の姿は見えないが、警戒しなくてはならない。ただ、もうそんなことを気にする余裕がない。


 二匹目が足元に飛びかかってきたのを横っ飛びに躱し、地面を転がるようにして向きを変えて、反動で起き上がる。正面。息つく暇もなく、すぐに飛びかかってくる。

 右手の剣を真っ直ぐ突き出し、灰狼の喉を突き刺した。同時に前足の爪が、剣を持つ右腕に振り降ろされる。熱さが腕に伝わる。痛み。だが、剣が刺さる方が早かったのか、勢いが多少削がれて、そこまで深い傷ではなさそうだ。剣を握っている力も抜けていない。

 一瞬の交錯もそこまで。刺さったままの剣を右側に強く振るように切り払う。灰狼の首が半分千切れつつ、血飛沫と共に剣から抜けた灰狼が飛んだ。

 構えを戻し、耳をすませる。周囲もゆっくりと見渡す。違和感はないか。どれくらい見ていただろうか。問題はなさそうだと判断して、一匹目の灰狼に近寄る。絶命している。首が半分千切れた二匹目も念の為近くで様子を見る。こちらも死んでいる。


 二匹を確実に倒したこと、周囲から再度襲ってくる魔物がいないことを確認したのち、剣を振り、血を払い落とす。落とした背負い袋を拾い、ボロ布を取り出して剣を拭い、そして鞘にしまう。左手のナイフはまだ持ったままだ。

一度、大きく息を吐き出した。背中が汗で濡れている。そして右の前腕には三本の筋が走っており、血が滲んでいた。ナイフで破れた袖を切り落とし、それで前腕を縛る。深い傷ではないのでそのうち血は止まるはずだ。念の為に、残り少ない水をかけて、汚れを洗い流しておく。そして余った水を全て飲み干した。


 灰狼の肉は不味い。食えないことはないが、解体の労力に見合わない。特別な理由がなければまず食うことはない。また、皮は綺麗に剥げば多少の金にはなるが、今はそんな時間は無い。

 しっかりとした解体は諦めて、灰狼の胸辺りをナイフで裂き、刃先で心臓付近を探る。

 魔物の心臓の横には、極稀に魔石と呼ばれる宝玉のような石がある。全ての魔物にあるわけではなく、どういう理屈でそれが発生するのか様々な議論があるようだが、解明されてはいない。ただ、そのおかげで、見つければそれなりに高値で売れるため、魔物を倒したら、心臓のあたりを探ることは冒険者の習慣となっている。

 二匹とも心臓付近を開いたが残念ながら魔石はなかった。死体は動物なり、魔物なりが処理してくれるはずだ。街道ではないので、わざわざ埋めたりはしない。汚れた手とナイフをボロ布で拭き、荷物を背負い進むことにした。まだ昼にもなっていないだろう。昼前には水場に着いていたいと、歩を進めた。

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