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 それから何分経ったのだろう、帰ってこないのを心配した一ノ瀬さんが様子を見に来た。

 「おーい、大丈夫?」

 「あっ、はい、ちょっと疲れちゃって…」

 また下らない噓をつく。もう一ノ瀬さんの顔をまともに見ることはできなかった。

 「キミ今日ちょっと変だよ。少し休んだ方がいい」

 薄暗い空間ではっきりとは見えないが、一ノ瀬さんが心配そうに自分の顔を覗きこんでくる。

 「……送っていくから」

 「…いいです」

 「遠慮しなくていーから」

 「私なんかより、一ノ瀬さんは奥さんの心配してあげて下さい。せっかくのイヴなんですから…」

 彼は何も悪くないはずなのに、つい底意地の悪いことを言ってしまう。そんな自分が酷く醜く感じる。

 「え? 奥さん?」

 「左薬指の指輪してるじゃないですか」

 ほんの少しの沈黙の後、一ノ瀬さんが急にゲラゲラと笑い出した。

 その様子に自分はさぞかし不機嫌な表情をしていたことだろう。自ずと声にもその感情がこもる。

 「何がおかしいんですか?」

 「そうだね。いきなり笑ってごめん。キミは信用できるから本当のことを話しておくよ」

 本当のこと?

 拗ねた子どもをなだめるように、一ノ瀬さんがいつもの落ち着いた口調で話し出す。

 「取引先にさ、そーゆーのしつこく勧めてくる人が多くてさ、それで指輪付けてんの。だから一応俺、表向きは奥さんいることになってるからよろしくね」

 「えっ……」

 頭の中が真っ白になる。返す言葉どころか、言葉という存在すら忘れてしまったかのようにその場に立ち尽くしていた。

 「だから俺、まだ奥さんいないよ。それどころか彼女すらいないし」

 「……いいじゃないですか、一ノ瀬さんはどこに行ってもモテまくりなんですから」

 つい皮肉っぽく言ってしまう。やっぱり自分はひねくれ者だ。

 「いやー、俺そーゆーのマジでいいんだよね。俺は自分の好きな人だけにモテれば満足だから」

 心なしか一ノ瀬さんの顔が少し赤くなっている。

 「これは、キミだけの秘密」

 その言葉の真意に気づくことになるのは、もう少し先のことだった。

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『聖なる夜に、ケーキを二人で』 駿介 @syun-kazama

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