欲情に、恥じらいを添えて


 私は羞恥心が鈍い女である。


 でもさすがに恥じらうこともある。そして生きてきた中で最も恥だと思ったことが、タクと一緒の時は絶対にアルコールを口にしないと決めた理由と結びつく。



 タクが顔を真っ赤にして、それで今にも溶けていきそうなほど震えているので、私はもうノンアルコールワインのグラスさえ空にできなかった。

 この店で口にしたのはサラダの上の生ハムと、アヒージョの海老のみ。


 マルチーズ改め、チワワをこれ以上震えさせるのは罪悪感がある。あんなことがあって、さらに私と二人で会おうなんて、その勇気は讃えねばなるまい。

 私の羞恥心より、タクの羞恥心の方が一大事だったに違いないんだから。



 合コンで知り合ってからすぐに、タクとは定期的に二人で飲むようになっていた。

 肉食女子ばかりに言い寄られる特異体質なタクが、度々もう嫌だと泣きついてくるのだ。その度に私は優しく優しく慰めて——だったらドキドキする何かに発展するんだろうけど、そうはなってない。


 お前が悪いんだろ、とビールを飲みながら悪態をつく。


 嫌なら嫌とはっきり言え。曖昧に愛想なんて振りまくから脂身を食べ終えた女子にのしかかられるんだぞ、なんてそんな説教もした。自分の引力を理解しろ、と。


 キャンプ、買い物、どこへ行ってもタクを一人で放り出したらやっぱり何かしらを引っかけた。男友達と一緒に「入れ食いだな」と観察したものである。旅行に行けば露出狂みたいな女を、海辺に行けばビキニから半分乳をはみ出したような女に引っかかって、顔を赤くして谷間と顔とを行き来するタクの視線に辟易した。そう、チワワも男だ、仕方がない。



 そして、半年ほど前の驚きの現実。

 度重なる出張のおかげでタクの誘いを断り続け、やっと自分の家に帰れると電車に乗ったらタクにバッタリ会ってしまった。


 翌日からの連休と開放感に誘われ、チワワにきゅーんと名前を呼ばれてちょっとだけと飲みに行ったのが大間違い。

 ビールを飲んだのは憶えている。でも他の記憶がない、さっぱりと。


 翌朝目を覚ますと、私はきちんとベッドの中で眠っていた。お風呂も入って化粧も落とし、保湿もいつも通り。荷物もあった。スマホも充電してある。

 タクと二人で飲んだことすら忘れていた。連休は飲み歩き、疲れ果てた体も元通り。心なしかさっぱりしていい休みだったな、なんて至福だったほど。



 翌週は久しぶりにみんなで飲んだ。みんなというのは、タクと出会った合コンでのメンバー。もちろん当時の相手の女子はいない。

 そして、私と目が合ったタクは、今みたいに真っ赤になって顔を逸らして震えたのだ。


 なんだなんだと、私もみんなもちょっとざわつく。そして私は思い出す——そういえば一緒に飲んだんだった。でも記憶がないのよね、記憶が。



 ピンと来てしまった。だから私はそれを口にした。だって、羞恥心が鈍いと言う前に憶えていないことをタクみたいに体を捩って恥ずかしがれなかった。


『もしかして私、タクのこと襲っちゃった?』


 タクは縮み上がってますます顔を赤くした。大当たりか、と私は確信する。やっちまった。疲弊状態でビールはやっぱり効き過ぎたか。記憶がないもんな、何年かぶりに。酔えば理性のクッションを挟まずに欲望と行動が直結する。弁えていたはずだったんだけど。


 その飲みは大いに盛り上がった。こんな日がいつか来るだろうと、みんなが予想していたらしい。

 そういえば私も肉食の類だ。チワワよりシェパードという嗜好の違いがあるだけで。



「そのパンツ見られた女子中学生みたいな恥ずかしがり方はやめて」


 真っ赤なタクに声をかける。タクはぎゅっと口を結んで、乙女な顔してスマホを胸に抱いていた。


「飲んでないじゃん、私」


 両手を上げて降参の姿勢。私はあれから絶対にタクと一緒にいる時は飲まない。『0.1』も許さない。完全なノンアルしか口にしない徹底ぶり。


 一回目は事故で済む。タクはどうか知らないけど、記憶がない私はね。でも二回目はまずい。きっと途中で我に返って、酔いなんか冷めて、それからどんな気持ちになるかなんて考えたくもなかった。

 脂でギットリした唇を舌舐めずりしてチワワを襲う狼とは違うと思っていたのに、持ってる色気を全放出でタクに向かって行った自分を想像したら——ああ、いくら鈍くても恥ずかしい。



 タクが深呼吸してから、恐々と口を開いた。


「…………見た?」


「何を?」


 チワワが震えながらスマホを持ち上げる。私はめんどくせぇな、と眉を寄せた。


「誰か探すふりしてエロゲーでもやってた?」


「声がおっきいって!」 


「ニヤついてたの知ってるし。別に隠しててもいいけど」


「でも絶対に引くじゃん」


「タクがゲイで実は攻めだって自白されても引かない自信あり」


 胸を張ってそう言ったら、タクがおずおずとスマホを差し出した。そして差し出したその画面を自分で見て目を丸くする。


 そうでしょうね。五分で画面ロックするでしょうよ。だから私がその画面を見るなんて皆無。タクはそれを理解して、それでもロックを解除して私に差し出した。


 スマホを受け取ろうと手を伸ばした私は、もうすでにそれがなんなのか見えていた。受け取ってこちらへ傾けて向き合ったら、その威力よ。

 なんて例えればいいか——ゲーム序盤でヒャダルコ食らった感じ。パーティみんなガッチガチ。



「ほらー! やっぱり引いてんじゃん!」


 タクが両手で顔を覆って叫ぶ。タクの声が一番大きいって——私はスマホをちゃぶ台の上へ投げてノンアルコールワインを飲み干した。


「引いてないし。でもタクがこれ見てどんな顔してたか繋いだら、泥水飲んだ気分なだけ」



 その画面には私がいた。髪をかき上げてアヒージョの中の海老を割り箸で弄ぶ私。ガラが悪すぎる。私ってこう見えるのか、男が寄り付かないわけだわ。


「も、もういっこ告白するけど」


 タクが声を震わせた。


「襲ったの、俺。ルイじゃない」


「はぁア?」


 今度は声が大きいと注意されなかった。タクは自分の両手で窒息死すると決めたように手を顔から離さない。


「ちょっと、タク」


 私はその腕を掴んで力を込めた。人差し指と中指の隙間から、恐怖に震えるチワワの右目がのぞく。


「ちゃんと説明しろ」


「——ん、だって! 我慢できなくなっちゃって、ちゅうしてた」


「ちゅう?」


「うん。ルイが酔ってて、すげーかわいくて我慢できなかった。止められなかった。だって、俺、ルイのこと——」


「えっ、まさかそれだけ?」


「いや、激しい方のを……」


 指の隙間からタクの左目も現れた。大傑作に茹で上がったチワワは、私と目が合うとやっと手を下ろした。



 嘘だろ、と、私はタクの目の前にあったジョッキに手を伸ばす。それを空にしながら呼び出しボタンを連打した。すぐさまやって来た店員に、急いで持って来いとビールを注文。有能な店員は、素早くキンキンに冷えたジョッキを持って来た。


「五分経ったらもう一杯持って来て」


 私が言うと、その店員がすかさず腕時計を確認した——素晴らしい。やっぱりもう一回絶対に来よう、タク抜きで。



 よく冷えたビールを一気に半分飲んだ。そうしている間、タクは私の目をじっと見たままで、口からジョッキを離すとそれにつられて視線が私の口へ移動した。

 泡が口の端についている、それが感覚でわかった。それから、次にどうするのが正解かわかっていたけど、私はそれの反対をいく。


 泡を拭うように、舌を出してペロリと舐めた。タクの顔が一瞬歪んで、きゅっと唇を結んだと思ったら、勢いよく身を乗り出して手を伸ばしてきた。

 右手が私の後頭部を捕まえ、引き寄せられ、唇にガチンと体当たりされる。やっと離れたと思ったら、鼻先がすれすれふれる距離でタクが私を見つめた。


「誘ったよね、今」


「なに食いついてんのよ」


 チワワのくせに、と心の中で悪態をついた。タクの酒臭い熱い息がまとわりつく——タクに食われそう。そういえば犬の祖先は狼だったか。


「ネクタイがアヒージョだけど」


「げ!」


 慌てて離れたタクは、おいしそうに浸かったネクタイの先っちょを手拭きで包んだ。そうしながら、残りのビールを飲み干す私を恨みがましく見た。


 五分後にやってきた店員に追加のビールを注文し、二杯目を水のように飲む私を見てタクが頭を抱える。私は滅多に酔わない。当然のようにそれをタクは知っていた。



「なんであの時、酔ったの?」


 濁った声を口の中で響かせてタクが訴えるように私に言ったけど、視線はアヒージョになったネクタイの先っちょに逃げている。


 私は言葉を返さずにタクを見た。チワワなのかマルチーズなのか、もはやそんなのはどうでもいい。

 だって最初からわかっていたことだ。タクのまやかしをそのまま受け止めた時、私は何も疑わなかった。


 酔うと理性のクッションを挟まずに欲望と行動が直結する。つまり、私は——。



 押されて押されて押されて壁ドンで餌食になるはずのタクが、顔を上げて私を射るように見据えた。脳みそがゆらゆらと宙を彷徨った。逃げる術はもうないと思う。


 いや、逃げる気なんかない、最初から。



「もう一回、酔ってみようか?」


 呟くように言ったら、タクは再び顔を真っ赤にした。目まで充血させて、そんな姿は見たことがない。


 う、わ——迫られるってこんな感じ? 貞操の危機に喉を詰まらせたら、店員が三杯目のビールを持って女神のように現れた。タクは目眩を起こしたのかちゃぶ台に突っ伏し、私は水の底から生還したみたいに息をした。


 今度はタクの顔がアヒージョになりかねないので皿を下げてもらって、まだまだいけると元気よくジョッキを煽る。飲みながらタクの手に触れたら、目をうるうるさせたチワワがこちらを向いた。そして、タクの指が私の指に絡みつく。



「……帰りたい。ルイの部屋か、俺の部屋」


 さて、どうしよう——ど直球で来たぞ、このチワワ。先祖の血を思い出す前に躾けねばなるまい。まず手始めに、『待て』からはじめようか。




[ 欲情に、恥じらいを添えて 完 ]


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