欲情に、恥じらいを添えて
あん彩句
犬と狼
私は羞恥心が鈍い女である。
「はぁァ?」
したがって、そんな大声を出してもなんとも思わない。代わりに目の前の男が顔を真っ赤にして「もっとちっちゃい声で!」とあたふたした。こっちが引くくらい、大慌て。
そもそも半個室だし、周りほとんどカップルだし、「うーん、ここは二軒目だな」って選ばれるような店で他人の話に耳をそばだてるヤツなんかいるか。
っていうか、なんでこんな色気たっぷりな店選んだんだ、こいつ。
古ぼけた薄暗い店——きっと可愛い女子はもっと違う言葉を使って表現できるかもしれないけど、私にはこれが精一杯。
ちゃぶ台で掘りごたつなのはいいけど、掘りごたつのこの底にはいろんな人の足が置かれたんだな、と思ったら正座するしかない。つるつるのちゃぶ台はいろんな人が「すごーい、かわいいー!」と言って撫でたんだろう、と思ったら除菌ウェットティッシュで裏側まで拭いた。
「とりあえず何か頼もう、ね? ここ、ノンアルコールの種類が多いんだって」
メニュー表を私に差し出しながらそう言うのは、タク。にこにこしてるけど、実はあがり症で人見知りでいつも心臓をバクバクさせている小心者。
タクと出会ったのは合コンだった。
私の友達が、緊張のあまり飲み過ぎ食べ過ぎて、自分の中へいっぺん片付けたものを全て世の中へ返却したタクを介抱してやったのがきっかけ。
しかも私たちはただの二人飲みで、タクは少し離れた席で合コンを催していたグループの中の一人だったんだから、どんなお節介よって話しなんだけど、そんなこんなで合コンに合流して男友達は増えたけど相手の女子から「なにさらしてくれとんじゃ!」という怨念が送られてくるほど荒らしてしまった。
タクは合コン以来、私の小判鮫になった。丁寧に介抱した友達の方を選びそうなものだけど、私の分析からすると型にはまったように同類だからダメなのだ。タクは元々世話好きでよく気が利く。そこが被ると仲良しをはみ出るのは無理らしい。
なんというかそんなタクなので、押しに弱い。押されて押されて押されて壁ドンで餌食になる。そしてそのたびに私は呼び出され、くだらない話を聞き流す羽目になる。
こんなカップルだらけ飲み屋を選んだタクの意図もわかったことだし、私たちは飲み物とそれに食べ物を少し注文した。和風かアジアンかと思ったら、料理は意外にもスペインに傾倒していて、サラダは生ハムがガッツリ乗ったものを選んだ。
早々に飲み物が運ばれてくる。店員は迷わずビールジョッキを私の前に、ノンアルコールワインをタクの前に置いて戻っていった。タクがそそくさとビールとノンアルコールワインを入れ替える——こうやって、私たちの飲みは始まる。
「今日もお疲れ」
タクがジョッキを持ち上げたけど、私は自分のグラスの飲み口を一周ウェットティッシュで除菌していた。待ちきれないタクはその最中にジョッキを私のグラスに当てて一口飲んだ。
「よかった、ルイが捕まって」
「私の予定むりくり変更したヤツ、誰よ」
仕事帰りの金曜日。本当はタクを介抱した友達と飲みに行くはずだった。それをタクが根回ししてこの状況。友達には毎回笑われる。
『昔からルイは犬に好かれるもんね』
タクが犬属性であることは認めよう。だけど、いいとこマルチーズ。私の好みはシェパードなんだけど。
「いいじゃん、たまには俺に付き合ってくれたって……」
ジャケットを脱いでハンガーへかけ、ネクタイを緩めながらマルチーズが口を尖らせる。私はノンアルコールワインに口もつけずにそのままにして、やっと肩まで伸びた髪をかき上げた——切りたい。切ってしまいたい。でも、パーマかけたいんだもん。
「たまにの頻度じゃないっつうの。先週もみんなで集まったばっかりだし、毎週会ってんじゃん」
睨んだところでマルチーズはマルチーズのまま。にこにこしてビールを飲み、きゅーんと鳴くように私の名前を呼ぶ。
——やっぱダメか。面倒だからなんか適当に話を逸らしてビールを飲ませて潰してやろうと思ったけど、そうはうまくいきそうもない。
はあ、と息をついてワインを一口飲んだ。ノンアルコール。はあ、ともう一回。
私の決意が固まったところでサラダが届いた。ドレッシングは別添えでと言ってあったから、生ハムの上には何もかかっていない。
私はその皿を自分の方へ引き寄せ、バッグから割り箸を出して生ハムを摘んだ。そして口の中へ運ぶ。香辛料が効いて少しスパイシーなのは、やっぱりスペイン産だからか。そこまでこだわっているなら大満足。
生ハムを咀嚼して楽しんで、幸せな気持ちで目を開けたら、にこにこして私を見るマルチーズがいた。はあ、とため息は止まらない。
こいつがする話はいつも同じ流れだ。何が楽しくて餌食になった話を私が聞かなきゃならないのかっていうと、タクが真剣に悩んで相談しても、男友達だと「なんだよそれ、お前おいしいな」となるのだそうだ。
タクに寄ってくる女はいつも肉食だ。生ハムのようにじっくり作られたものじゃなく、分厚く切った肉を鉄板で焼いてガーリックがたっぷりのソースをかけてドン、と出てくる肉を余計なものを挟まずに最初から最後まで食べられる女。
それで、脂まみれの唇をペロリと舐めて、頂きます、とデザート代わりにマルチーズをお持ち帰り。だって、ちょっと酒を飲ませればちょろいんだもん。まあ、ある意味では自業自得。
前回の女はまた異色だった。見た目は非常に儚げな、どちらかといえば地味な感じ。まっすぐな黒髪は艶を強調させるべくアイロンをかかさないんだろう。男どもは単純だから、「すげー髪がキレイ!」と興奮していた。
バカめ。毛先を見てごらんなさいよ、シャンプーしたらひどい絡まりようで手触りも最悪だから——と思ったけど何も言わない。私は自分の髪さえちゃんとしてればいいの。他人をとやかく批判したって胸糞悪くなるだけだし。
とにかく、その女は終始うふふと可愛く笑った。
タク狙いなのは明らかで、私も私の友達もまあ今回は大丈夫かなんて言って二人で別の店に移動した。毎回品定めに呼ぶのもいい加減にしてほしい。
そしたら翌日、男友達からクレームが入った。大変だったんだって。
その女が私のことをあれこれ聞いてきて、あんな気の強そうな口の悪い女性とは一緒にいない方がいいとかなんとか。さらに、私がノンアルコールでやり過ごしたのを「本当は飲めるくせにノンアルコールなんて白々しい」と失言したらしい。飲み過ぎちゃったんだね。それで失敗、よくある話よ。
たしかに私は気が強い。口も悪い。それで何度フラれたことか。タクはそれを全部正解と言ってから、キャンキャン吠えたんだって。
「ルイが飲まないのは俺のせいだし。そこ文句言ったら……!」
文句言ったら何なのか、それは結局出てこなかったそうだ。一同爆笑で解散したんだとか。
その女から早二週間。次はもっと面倒な話を持ってきた。時々、タクってマジでバカかもって思うんだけど、今日は最上級だった。
「話したこと、ないんだよね?」
仕方なく話を振る。サラダの上の生ハムを平らげて、残りの野菜とドレッシングはタクの方へ押しやった。
「うん、ない」
堂々と頷くタクの頭を引っこ抜いて、バーテンダーみたいにシェイクしてやったらちょっとはマシになるんだろうか。壁ドンされても「ノー!」と言える男にくらいは、なってくれないだろうか。
「何で朝っぱらからそんな女に突進されんの? 赤いスーツでも着てた? どうやって回避したの?」
「トイレに逃げた」
「それで?」
「これが置いてあった」
そう言って大学ノートを破いただろう紙が四つ折りになったのを、テーブルの上に乗せる。私に読めとでも言うように、タクがその紙を人差し指で押してきた。
「やだよ、そんなトイレに置いてあった紙なんて触りたくない。よく拾ったね、それ」
私はタクへ除菌用ウェットティッシュの袋を放り投げた。タクは仕方なくその紙をポケットへしまって、ティッシュでテーブルの上を拭く。
「名前と連絡先が書いてあって、2人で話したいって。一緒に来てよ、ルイ」
「はぁァ?」
「だから声、もっとちっちゃく!」
わたわたと口に指を押し当てて「シーッ」とやりながら、タクが周りを見渡した。だから誰も聞いてないって。
「スルーしなよ。親切、丁寧、迅速って、お前は便利屋か」
「違う、そうじゃなくて。月曜の朝、一緒に電車乗ってよ」
「なんで私が!」
「だってルイが一番近いし。一時間早いの使ってくれたら同じ時間になるじゃん」
「あんたねぇ、女子の朝の一時間を舐めんなよ!」
「ルイ、声!」
私はタクを無視して、呼び出しボタンも無視して、通路に顔を出して店員を呼びつけた。そしてビールを二杯追加する——大ジョッキで。
「そんなに飲めないよ、俺」
「うるさい、飲め。そして潰れてしまえ」
「潰れたら介抱してくれる?」
「するか、バカ」
店員がアヒージョとカルパッチョとタコの料理を運んできた。一緒に持ってきたビールを私のところへ置こうとして、ジョッキを握っていたタクとノンアルコールワインが減っていない私に気づいてタクの方へ置く。
合格。次はタクじゃない友達と来よう、そしてしっかり売上を伸ばしてあげよう。
タクはビールをあと半分残して潰れた。他を当たれと突き放した私に言われた通りニヤついて誰かと連絡を取っている間に、スマホを握りしめてすーすーと寝息を立てている。
料理はすっかりタクが食べた。食欲だけはしっかり男子なのだ。私の三倍はペロリと食べる。
私はタクの手からスマホを抜いた。約一年前に同じ格好で飲み屋で爆睡してスマホを紛失した哀れなマルチーズが同じ目に遭わないよう、聖母のような優しさでカバンへしまってやろうとしただけ。
なのに、タクが飛び起きた。そして、私の手からスマホを奪うと、耳まで真っ赤にして小刻みに震え出した——それを見て、思う。
間違えた。タクはマルチーズじゃなくて、チワワだ。
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