第2話 警戒心
夢を見た。
ゴウゴウと音を立てて焼け落ちる外壁。バチバチと弾けて崩れる窓硝子。鉛色の空を真っ赤に染め上げ、黒い煙を吐き出して降り注ぐ煤と灰。人影がまるでダンスを踊るように炎の中に見えた。
助けなきゃ、と立ち上がろうとする。けれど、体が動かない。指先ひとつ自分の意思で動かせない。
ただ目の前で家が、人が、真っ赤な蛇のような炎に呑み込まれていく景色をまざまざと見せつけられる。――何度も何度も繰り返し見続けてきた悪夢だった。
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「……――ァアッ!」
鋭く突き刺すような叫びを上げて、飛び起きた。
「……いっ」
急に起き上がったせいだろうか、こめかみはガンガンと頭蓋骨を殴りつけるかのように痛み、心臓は早鐘のように煩い。全身を襲う疲労感と鈍痛に息を整える間もなく、掴んだ上掛けの上に突っ伏した。
「おー……びっくりした。大丈夫、起きれる?」
不意に声が掛けられた。首だけ声のした方に向けば、髭の男が驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。
「……?」
起きたばかりの青年は状況が呑み込めてないのか、眉尻を下げ不安そうにあたりを見回す。
目に留まったのは、大きめの出窓。
鮮やかさを失ったカーテンが下がり、結露した跡があった。薄曇りの空から朧気な光が差し込んでいる。どうやらまだ太陽灯を落とす時間ではないようだ。
そのまま視線を部屋の隅に移すと、洗面台と備え付けの鏡が見えた。そこには、不景気そうな顔をした若い男の顔がぼんやり映っている。
薄汚れてバサバサの銀の髪。額には包帯が幾重にも巻かれ、左顔面は見るも無惨だった。
目の周りは腫れて赤黒く変色し、瞼が半分も開いていない。無事な方のアクアブルーの瞳が鏡越しにジッとこちらを凝視していた。
見れば見るほど沈鬱な面持ちになる自分の顔から目を逸らすと、ソファーに浅く腰かけた男と目が合った。
「気分はどう?」
コホンとわざとらしく咳払いを一つ落とす。
「ここ、は? ぼく……あれ?」
「ここは俺の借りてる部屋で、君は怪我と疲労でぶっ倒れたってとこ、かな?」
「……え」
「ま、うつらうつら起きたりもしてたけど、その様子じゃ覚えてないよね」
怯えたような目を向けられた男は、小さく苦笑を零した。
新聞を読むために掛けていた眼鏡を外すと、テーブルの上のデキャンタの前に置く。入れ替えるように、繊細な模様が施されたデキャンタと伏せていたグラスを手に取った。
本来ならワインを入れておく為のガラス容器だが、中に入っているのは透明な液体だ。トクトクトクと小気味良い音を立てながら水をグラスに注ぐと、青年の眼前へスッと差し出した。
「喉、渇いたろ?」
気遣うように柔らかく声を掛けられ、青年はグラス越しに躊躇いがちな視線を向ける。
生成りのワークシャツの上にベストを身に着け、ゆったりとしたシルエットのスラックスを穿いている。自宅でくつろぐようなラフな服装だ。
知らない人間だと思ったが、琥珀色の瞳に覚えがあった。──……そうか、路地裏で声を掛けてきた人だ。けれど、困った事にあの後の記憶がない。
素性の知れない相手に対して、警戒するべきか、お礼を言うべきか迷っていると、そんな内情を見透かしたように男がフッと口元を緩めた。
「どうにかするつもりなら、さっさとどうにかしてるよ……って、同じような台詞言ったなぁ」
青年の警戒心を少しでも和らげようとするように、おどけた調子で軽口を叩き、肩を竦める。そして、青年に見せつけるように手にしているグラスに口をつけそのまま一口飲み下した。
ほらなんでもないだろ? と言わんばかりの表情を浮かべ、グラスの縁を親指で軽く拭う。そして、もう一度青年の前にグラスを差し出した。
「はい、どうぞ」
青年は自分の手元に視線を落とす。手袋はしていなかった。
その不格好な手を握りしめ、わずかに開く。おずおずと手を伸ばし、差し出されたグラスを受け取ると、じっと自分の手の中の波紋を眺め、躊躇いながら薄い縁に口付ける。
渇いた口内をぬるい水が満たし、ゆっくりと喉を潤していく感覚にホッと息を吐いた。なんの変哲もない水が今はなによりのご馳走に感じられた。
あっという間にグラスの中身は空になり、気を利かせた男が横から再び水を注ぐ。二杯目を飲み干したところで、もう十分だとグラスを返した。
男はグラスをテーブルに置くと、ソファーの背に掛かっていたジャケットを手に取り袖を通した。
「腹減ったろ? なんか食べられそうなもの持ってきてあげるね」
洗面台の鏡の前で襟を正すとそう声を掛けた。
「……いえ、あの、大丈夫ですから……」
今にも倒れそうな顔色をしながらも、首を横に振る。しかし、消え入りそうな言葉とは裏腹に、腹は正直だ。食事と聞いて腹の虫がグゥゥーと鳴いた。
「……ッ!」
「ほら、やっぱり」
「本当に大丈夫ですからっ! ……見ず知らずの人にまで、これ以上の迷惑をかけたくないので……」
羞恥のあまり耳まで真っ赤に染めた青年は声を張り上げたが、段々と力なくボソボソとした呟きに変わっていく。しまいには完全に俯いて沈黙してしまった青年の様子に男は愉快そうに笑った。
「見ず知らず、ねぇ」
男は自分の顎を撫で、少し首を傾けてそう言った。
「そうかそうか。自己紹介をするのをすっかり忘れてたよ。俺はケージー。知り合いはだいたいそうやって呼ぶからキミも気軽にケージーって呼んでね」
「……」
「それじゃあ次はキミの番だよ。名前を聞いてもいいかな?」
人好きのする笑みを浮かべケージーと名乗った男は青年に問う。僅かな沈黙のあと、青年は伏し目がちに男を見て、観念したように口を開いた。
「……ア、アオって言います」
「アアオ君? 変わった名前だね」
「あっ、いや、違くて……」
「あはは! 冗談だよ、アオ君ね。うん、覚えたよ」
戸惑った顔で男を見れば、からかい混じりに言葉を返す。そして男は楽しそうに笑い、満足そうに頷くと、ベッドに背を向けた。
「さて、これで見ず知らずの関係じゃなくなったわけだ。……ってことでアオ君、ちょっと待っててね~」
有無をも言わせずそう言い残すとヒラヒラと手を振り、軽快な足取りで部屋から出て行った。ガチャリと施錠される音が扉の向こうから聞こえる。
取り残されたアオと名乗った青年は、ただ呆然と男が去った扉を眺め、小さなため息をこぼした。
言葉をほんの少し交わしただけの相手を自室に置いていくなど信じられない。警戒心がなさすぎる。
それとも自分には警戒する価値すらないとでも言うのだろうか。
──……いや、その通りだな。
満足に動かすこともできない指で上掛けの縁を握りしめ、自分自身を嘲るような嫌な笑みを口元に浮かべた。
そして次に家主のいなくなった部屋の中に視線を向ける。
「……」
丸いテーブルの上には、中身の減ったデキャンタのセットと、ガラスの灰皿、それに記憶よりも日付の進んでいる新聞。ソファーの背に残されているのは男が身につけていたらしいストールと、無造作に畳まれた毛布。
ソファーの後ろには半開きのクローゼットがあるが、中にはハンガーに吊されたシャツが数枚見え、足元の収納スペースには大ぶりの革袋が力なく転がっている。
確かに他人を警戒するほどのものは部屋の中には置いていないようだ。身なり自体は悪くなかったが慈善事業を行う貴族風というわけでもない。なら、ただ人がいいだけの人間なのだろうか。
しかし、どんなに考えても答えはでない。
天井のシーリングファンがカラカラと乾いた音を立て、まるでこちらを嗤っているかのようだった。
「……帰らなきゃ」
一体どのくらいの時間が経ってしまったのだろう。
アオは腕に力を込める。全身に走る引き攣るような痛みを無視しベッドサイドに腰掛け、立ち上がろうとした──次の瞬間、世界がグルグルと回転するような目眩に襲われバランスを崩した。
咄嗟に地面に手をついたことで転倒は免れたが、これでは満足に体を動かすこともままならない。
けれど自分の履いていたブーツがベッド脇に揃えて置いてあることだけは確認できた。あとは外套や装備品だが、それは目の届く範囲には見当たらない。
こんなご時世だ。売り払われてしまった可能性だってある。
「せめてケースだけでも取り返さないと」
男の親切心が到底理解出来なかった。だが、見ず知らずの他人をわざわざ助け、手当までしてくれた人間を疑うということに気が咎めた。
いいや、とアオは首を振る。
「……信用してはいけない」
自分に言い聞かせるように言葉に出した。
……──だって、この世界で信じていいのは、ただ一人だけなのだ。
前開きのシャツの下は大袈裟なほどに包帯が巻かれ、体を動かすと湿布のにおいが空気に混じる。
頼りない指先が胸元のペンダントトップに触れた。これは外されなかったのか、とアオはホッと息を吐く。縋るように淡い緑を帯びたブルーの鉱石の表面を撫でると、縋るように優しく握りしめた。
固く、冷たく、いつもと何も変わらない。
「……帰らなきゃ」
深く息を吐く。
けれど、一人になって緊張の糸が切れたせいかもしれない。手足も瞼も鉛のように重たく、アオの意識を再び刈り取るにはそう時間はいらなかった。
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