第一幕『灰をかぶる街』

第1話 ぼくの弱さ

「憲兵さーん! あそこ、喧嘩だよっ!」


 橋桁はしげたから投げられたその声に驚き、蜘蛛の子を散らすようにワッと青年達は逃げだした。

 走り去った影は四人分。バタバタと慌てた様子で夜闇の中にあっという間に紛れて消えた。

 残されたのは──……地面に伏せた黒い塊。

 朧げな光の下では、まるで地面の凹凸のようだ。しかし、その塊がぴくりと動いた。塊のように見えたそれは、紛れもない人間だった。

 

「……痛っ」


 動いた拍子にあちこちが痛んだのだろう、思わず声が漏れ聞こえる。

 黒ずんだ外套には靴底の痕がいくつも残されていて、先ほどの男達による暴行の跡が目立った。

 フードの下から覗く顔はまだ若い。成人してまだそう経っていないように見える。眉尻を下げたなんとも気の弱そうな青年だった。年の頃はせいぜい十六か、十七程度だろう。

 自分の身体の状態を確認しながら、ゆっくりと上体を起き上がらせる。だが、ボールのように蹴り倒された体は思うように力が入らず、その場にべしゃりと崩れ落ちた。それがまた痛々しい。


「……」


 青年はしばらく地面に積もった灰を眺めていたが、いつまでも瀕死の虫のように地面と仲良くしていても仕方がないと、青年は覚悟を決めたようだ。

 痛む身体を無理矢理起こし、傍らの室外機に手を伸ばした。


「……っ!」


 立ち上がろうと地面にブーツの底が着いた瞬間、足に激痛が走った。

 結局、青年は路地の真ん中から壁よりに少し動いただけでヘタり込んでしまった。なんとも情けない話だ。


「はぁ……」


 薄汚れた室外機に寄り掛かかり、湿っぽい溜息を零した。

 投げ出した太股の上に置いた自分の手先が目に入る。先の破れた手袋から覗く爪先がわずかに欠け、血と泥の塊が爪の間にこびり付いている。

 

「……はは、この程度ですんで良かった、のかな……」


 気弱そうな声がフードの下からポツリともれる。消え入りそうな程の小さな声。しかし、どこか自嘲を含んだ不快さが滲んでいた。

 青年のいたるところが泥と灰で汚れ、ところどころ血も滲んでいる。けれどどれも致命的なものではないようだ。骨の一本や二本折れることも覚悟したが、誰かの助け船のおかげで命拾いしたらしい。

 ただ耳には、彼らの嘲笑がまだこびり付いている。

 それでも抵抗の一つも見せなかったのは、それが自分の役割だと青年は理解していたからだ。


「……」


 現に路地奥に目をやれば、青年の外套とそう変わらない、灰と泥に塗れた新聞紙ニュースペーパーがグシャグシャになって落ちていた。

 路傍のゴミと大差ないのだと、思い知らされる。

 他にも表通りから投げ捨てられたのだろう──異臭を放つ紙袋や、割れた酒瓶がいくつも転がり、谷間風によって運ばれてきた灰が建物の脇にうずたかく積もっていた。

 地層が下がれば、それだけ治安が悪くなる。

 灰を集め処理するのが仕事の灰掃人スイープすら、この退廃地区には下りてきたがらない。区分けによって出来た明確な格差がそこにはあった。

 いったいこのコロニーのどこをもって『よろこびの国』などと呼んだのだろう。

 

「……」


 室外機から漏れた水が石畳の上に水たまりを作り、そこには上下が反転した世界が映る。蒸気と灰が入り交じった空は、憎らしいほどに普段と何も変わらない。

 足元に広がる鈍色にびいろの空をしばらく眺めていたが、不意に青年は目を背けた。


「はぁ……」


 小さな溜息をこぼすと、まるで幼子のように膝を抱え、あろうことか青年は瞼を閉じてしまった。

 こんな場所で無防備を晒せば、どんな目にあっても文句は言えない。そういう場所だということは彼自身が身にしみて分っているはずだった。

 けれど、ひどく身体も精神も怠く、疲れて、今の自分を守る最善の策がこれしか思いつかなかった。


「……」


 頼りなげに膝の間に額を擦りつける。身じろぎをしたせいか、胸元にしまってあったペンダントが零れ落ちた。ペンダントトップがささくれた指先に触れ、青年はそのまま無意識に握り込んだ。

 触り慣れた冷たい鉱物の感触に、ホッと息を吐く。

 目を閉じたせいだろうか。先ほどまでは気づかなかった小さな音までよく聞こえた。

 遠くで蒸気機関車の警笛の音が鳴り響き、狭い空にぶつかって消えた。

 増築を繰り返した建物の壁から突き出すいくつもの排気管からは夕食を作る音とにおい。それに混じって誰かの罵声やガラスが割れる音、子供の泣き声や品のない笑い声があちらこちらから聞こえる。

 まるで別の世界の音のようだと、ぼんやりと青年は思った。

 ──けれど、それとは別にもう一つ。

 現実に引き戻すような音が、すぐ傍で聞こえた。

 気怠そうな足音と共にジャラジャラと金属がこすれるような音だ。その音が段々と大きくなる。

 近づいてきている証拠だった。


「………」


 ビクリ、と身を硬くする。

 奴等が戻ってきたのだろうか。

 このまま息を殺していれば、路傍の石を見るように素通りしてくれるかもしれないと淡い期待を抱いて背中を丸めた。しかし、青年の願いも空しく目の前で足音はぴたりと止まった。

 心臓が跳ねる。

 最悪の事態を想定し、指先に力が入った。


「――……大丈夫?」


 しかし、投げかけられたのは予想外の言葉。

 耳に馴染む、低く落ち着いた男の声だった。まるで、こちらを気遣うような言葉に、青年は思わずフードの隙間から目を向ける。

 靴底がすり減ったブーツが見え、男が視線を合わせるように腰を落としたのが分かった。


「おーい、生きてる?」


 そう言って、男は青年の顔の前で指をパチパチと鳴らす。指を弾く音につられるように、男の姿を視界の中に捉えた。

 紫の髪の間から琥珀を煮詰めたような目が、興味深そうにこちらを見ている。重たそうな瞼と、少し皺の入った目元には泣きぼくろ。

 年の頃は青年よりも一回りほど上だろうか。洒落たストライプのジャケットを羽織り、口元を覆うように厚めのストールを首に巻いている。


「痛む? しゃべれる?」


 僅かに反応した事を確認した男は、いくつか質問を投げかけるが、青年が言葉を返すことはなかった。

 明らかに警戒されている事をひしひしと肌で感じた男は、ストールを少し下げた。整えられた顎髭は男によく似合っていて、人好きのする愛嬌のある笑みをニッと浮かべる。


「大丈夫、大丈夫。どうにかするつもりなら、さっさとやってるし、わざわざ橋の上から心配して見にきたりしないって」


 男はずり落ちそうになる中折れ帽を押さえ、顎をしゃくった。その先には水路の上にかかる石造りのアーチ橋が見えた。確かにあの橋の上からなら奥まったこの路地もよく見えたことだろう。


「憲兵さーん、あそこ、あそこ――ってね」


 青年を袋だたきにしていた男達が蜘蛛の子を散らすように退散していく前、確かにこの男の声が聞こえた気がする。


「……あなた、が」


 青年は訝しむような目をフードの下から男に向ける。男の一挙一動を見逃すまいと怪しんでいるのが目を見なくとも分かった。

 男は小さく肩を竦めて、青年の目深に被ったフードに手を掛けた。


「ちょっと失礼」

「……あ」


 そう言って、青年のフードを少しずらす。血で赤く斑に汚れた銀糸が一房、肩に零れ落ちた。

 フードで守られていた視界が急に開けたせいか、青年はアクアブルーの瞳を心許なさそうに彷徨わせて下を向く。

 頬を伝った血液がポタポタと滴となって落ち、太ももを濡らした。


「うわぁ、けっこうパックリ切れてるね。ほら、これ使って、とりあえず止血しなよ」


 男は顔を痛そうに顰め、ジャケットの内ポケットから綺麗にアイロンの掛けられたハンカチを差し出すと青年の額に軽く押し当てる。じわりと赤いシミが滲み、みるみる白いハンカチは血を吸って真っ赤に染まる。


「すみま、せん」


 腫れた頬では少しばかりしゃべりづらいのか、絞り出すようなか細い声が青年の口から聞こえた。


「だめだよ、こんな人気の無いところで喧嘩なんて。おじさんが通りかからなかったら、死んじゃってたかもしんないよ」

「……たす、かり、ました」


 そう言って軽口を叩く男に、小さく頭を下げる。


「憲兵に事情説明して捕まえてもらう?」

「……無駄、だと、思います……」


 袋叩きに合っていた当人が諦めた口調で首を横に振った。

 憲兵の詰め所はこの場所からだいぶ離れた市街地にあり、管轄外で起きた小さないざこざなど、まともに取り合ってくれるとも思えなかった。


「だよねぇ。じゃあ、せめて近くの診療所まで付き合うよ」


 それも大丈夫だと首を横に振る。青年の頑なな態度に、男は困ったように頭の後ろを搔き、大きくため息をこぼした。


「でもなぁ、こんな場所に放っておくのも危ないし、キミは歩けそうにもない。一応確認だけど、立てる?」


 その問いにようやく青年はコクリと頭を縦に振る。


「じゃあ、肩くらい貸すよ」


 男が膝に手を置き立ち上がると、チャラチャラと金属がこすれるような音が耳に残った。

 思い出せば、男が歩いてきた時に聞こえた音の正体は、この腰のベルトに下げられた鍵の束だったのだろう。男が動くたび楽しげに擦れあい、さながら旋律を奏でているかのようだった。


「痛いかもしんないけど、頑張って」


 少し考える素振りを見せた後、座り込む青年の脇の下に手を入れ、支えるように体を持ち上げた。脇腹に激痛が走り小さく呻くと「ゴメン、ゴメン」と軽い口調で男がいなし、そのまま肩を貸すように青年を立たせた。どうやら背丈は僅かに男の方が大きいようだ。


「憲兵もダメ、診療所もダメ。なら家まで……ってこれは嫌だろうしなぁ」

「……」

「どうしよっか。家の近所ならオーケー?」


 そう言って覗き込む男の言葉に対し、青年は再び小さく首を振った。「大丈夫」「放っておいて」とうわごとのように繰り返す。もはや目の焦点は合っていない。どうやら立ち上がった事で急激に血圧が下がったらしい。

 視界が狭く、音が遠くなる。

 男がまだ何か言っていることだけは分かったけれど、まずいな、と思った時にはもう目の前が真っ暗になっていた。


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