片隅の老人
青山 忠義
片隅の老人
横山昌明は図書館から出ると、激しい空腹に襲われた。
朝から食パン1枚しか食べていない。図書館のトイレの水を飲んで、なとかしのいできたが、もう限界だ。
家に帰れば、朝食べた食パンの残りが1枚だけ残っている。しかし、家までとてももちそうにない。空腹のあまりどこかで倒れてしまうかもしれない。
図書館の前にある古びた小さな喫茶店のドアが開き、学生風の男が出てきた。
ドアが開いた瞬間、コーヒーのいい香りが昌明の鼻をくすぐる。
まだ両親が生きていたときには、豆から挽いたコーヒーをよく飲んでいた。砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲んだら、何とか家まで帰れそうな気がする。
ポケットには500円玉が1枚と100円が2枚入っている。これが今の昌明の全財産だ。
200円あれば家までの電車賃にはなる。
昌明は意を決して喫茶店の扉を開いた。
カウンターの前に5脚の椅子と二人掛け用のテーブルが一組あるだけの外から見たとおりの小さな喫茶店だった。
「いらっしゃい」
昌明がカウンターの席に座ると、70過ぎぐらいの店主らしい小柄な男が無愛想な声を出した。
昌明はカウンターに置いてあるメニューを見た。
ブレンドが400円。
500円でお釣りがくる。
「ブレンド」
店主は何も言わずに、豆を挽き始めた。
ずいぶん無愛想な人だ。よくこれで店がやれるなあと昌明は感心した。
昌明の前にコーヒーが置かれた。
1杯、2杯、3杯とシュガーポットから入れる。砂糖はタダだ。
「そんなに砂糖を入れたら甘すぎて飲めないぞ」
店主が渋い顔をする。
昌明は苦笑いをして、一口飲んだ。たしかに甘すぎてコーヒーの味があまり分からない。だが、空腹をしのぐためだ仕方ない。
「おにいさん、学生か?」
昌明は首を横に振った。
「違います」
「それにしてはよく図書館に来ているね。毎週土日は開館と同時に来て閉館までいるじゃないか。本が好きなのか?」
よく見てるなと思った。
朝、昌明が開館まで前の道で待っていると、この店主は前の道を掃いていて、閉館で帰ろうと店の前を通るときは、看板を店の中に片付けるのを見かけた。おそらくそのときに昌明を見たのだろう。
「早くに両親が亡くなったから高校を中退して就職したんだ。だけど、働いていたところが倒産して。高校中退の身寄りのない男をこの不況のときに雇ってくれるところなんてなかなかないよ。職安で紹介してもらったところも期限付きのところばっかりで、期限がきたらポイさ」
「それは大変だったな」
「だから、少しでも知識があったら安定した暮らしができるんじゃないかと思って、一生懸命に本を読んでいるんだよ。金もないから学校にも行けないしね」
「そうか」
店主が冷蔵庫からハムや野菜を取り出して切って、パンに挟んだ。
どうやらサンドイッチを作っているらしい。
昌明の前にサンドイッチをのせた皿が置かれた。
「食べな」
「お金ないよ」
昌明は店主を見た。
「奢りだよ。その代わりにわしの話を聞いてくれ」
「えっ」
昌明は何か怪しい話ではないかと思った。よく見れば、店主の目は異常に鋭い。
強盗の相談だろうか。それとも強盗か人殺しだろうか。
話を聞いたらきっと断れない。もし断ったら殺されるかもしれない。
昌明の顔は引き攣った。
「そんな恐ろしそうな顔をするな。何もとって食おうとは言わん。わしは降り積もる時代に埋もれた老人だ。だがな、このわしでも降り積もる借金に苦しんだことも降り積もった札束の中を泳いだことがある」
店主は昔を懐かしむような目をした。
顔の皺の一本一本が店主の生きてきた時代を刻んでいるように昌明には思えた。
「何も本を読むだけが、知識を得る手段じゃないよ。わしの生きてきた経験を聞くことも勉強になるんじゃないか」
昌明は店主のいうことはもっともだと思った。
「そうですね。聞かせてください」
「そうかい。わしが産まれたのは……」
店主は嬉しそうに話し始めた。
昌明はこの店主が「兜町の風雲児」と言われ、一世を風靡した相場師だったということを知るよしもなかった。
片隅の老人 青山 忠義 @josef
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