別れの曲

@_naranuhoka_

別れの曲


2013年4月執筆


  1


くじ引きの結果で、発表会の結果も決まってしまった。ペアを決め終わり先生が楽譜を取りに部屋を出た瞬間、真帆は待ちかまえていたように大きくため息をついた。

「真帆ちゃん、今年のペア誰だった?」

ピアノ教室で一番仲の良いトモちゃんが、さっそく真帆の隣に移った。ほかの友だちも一斉にそのまわりに集まる。おしゃべりをするときは、いつもそう。みんな、真帆の周りを囲んで、真帆を中心に話を進める。

「ちょ、聞いてよぉ、わたし今年ね、千晴ちゃんとなの」

しかめっ面を作って言うと、みんなが驚いた。

「えー、うそ」「ほんと?」「なにそれ、やばくない?」「だいじょうぶなの?」みんな、口々に言う。「あーもう、最悪だよぉ、今年の連弾、終わっちゃった……」と大げさに肩を落とすと、みんな笑った。その中に、千晴ちゃんもいる。気まずそうに、寂しそうに、輪からはずれないぎりぎりのポジションで、伏し目がちに、誰の顔も見ないようにして、えへ、えへへ、と肩をすくめながら必死に頬をゆるめていた。それが気にくわなくて、顔をしかめたまま言った。

「だって、千晴ちゃんって去年もミスしちゃったもんねー、ちょー簡単な曲だったのに、ペアの子大変だよね、千晴ちゃんに合わせなきゃなんないもんね」千晴ちゃんにむかって話しかけているのではなく、みんなに言い聞かせていた。「真帆ちゃん、教室で一番上手いのにねー」「わたし、真帆ちゃんと組んだ年、すごいよかったもん」「去年のも、完ぺきだったしね」「だよねー」

合いの手を入れる子は、一人だけではない。ローテーションみたいに、くるくると、ボールを奪い合うようにして、みんなが口々に言う。

千晴ちゃんも小さな声でそうそう、と相槌を打っていた。でも、誰も千晴ちゃんの声を聞いていない。みんな真帆の反応をうかがって、必死に媚びているから。なぜなら、真帆はこのピアノ教室の女王さまだから。

そのことを真帆もちゃんとわかっているから、「去年は本気だったわけじゃないし、そんなことないけど」とまんざらでもない表情で笑う。

「でもさぁ、やっぱ下手な子と組まされるとちょー迷惑、だってレベル低い曲しかやらせてもらえないもん、先生がそっちのレベルに合わせちゃうから、弾きにくくてしょうがないよねえ……今年の連弾、がんばろうと思ってたのに、千晴ちゃんとコンビじゃ、無理だよね……」

嫌なことを、わざと嫌な言い方で言った。わたしってやだな、サイテーだな、と心の中では思っているのに、ひどい言葉にかぎってよどみなくすらすらといえる。ほんとうは思っていなくても、ぽんぽんとリズムよく口を突いてくる。いつものことだ。みんなも少しは「真帆ちゃん、言い過ぎだよ」「千晴ちゃんかわいそうじゃん」と怒って千晴ちゃんをかばってくれればいいのに、真帆に合わせて「だよねー」「最悪だし、マジ」とにやにやしながらうなずいて、真帆をとがめる子は誰もいない。だからわたしいつも言い過ぎちゃうんだよ、みんなが注意してくれればいいのに、といつも心の中で文句を言っている。だから、つづけた。

「あーあ、今年休んじゃおうかなぁ。だってそうじゃん、一組だけ五年生なのに幼児クラスみたいな曲じゃ恥ずかしすぎるもん。出ないほうが絶対ましだよ、恥かくために弾くのなんかやだもんね、わたしまでへたくそって思われたくないし、ペアのひとのせいで」

ひっどーい――とは誰も言わない。たとえ思っていても、口には出さずにそうそう、と真帆に合わせてみんながうなずく。今度ばかりは、千晴ちゃん抜きで。

一瞬遅れてうなずいた子もいれば、迷う素振りも見せず大きくうなずく子もいる。みんながみんな、真帆に追従するわけではない。ピアノの上手い下手と同じで、媚びるのにも段階があるのだ。

千晴ちゃんは輪の外側で申し訳なさそうに肩をすぼめてうつむいている。うつむきながら、愛想笑いを浮かべてふう、と小さく息をつく。

ちゃんと気づいていた。でも、ちらりと目を向けただけで、「でもさぁ……」と話をつづけた。「くじ引きで連弾のペア決めるのって、はっきり言って不公平だよねー、上手い子と下手な子、分けて決めてくれればいいのにさー、結局損するのって上手い子なんだよねー」

ねばついたひらべったい声で言った。みんなも、困惑しながらもにやにやしながら千晴ちゃんを見る。真帆は知っている。忠誠を誓わせるには、誰か一人、いけにえがいればいい。千晴ちゃんごめん、といつも思っているのに、合いの手がばらけはじめてくると不安になって、結局千晴ちゃんを貶めてしまう。あとで謝っておこう、と決めた。でもそれを守れたことはいちどもないことも、ちゃんとわかっている。わかっているから、今日こそはちゃんとフォロー入れておかなきゃ、と決めて、ひらべったく伸ばした声でつづけた。

「っていうか、千晴ちゃんが先生に言ってくれればいいんだよ、わたしとレベルのあったひとと組ませてください、ペアのひとに迷惑かけちゃうから、って。あ、でも、したら千晴ちゃん、高学年クラスじゃなくて幼児クラスの子と合奏になっちゃうかぁー、タンバリン叩くだけだし、それなら千晴ちゃんも失敗しないんじゃない?」――ごめん、千晴ちゃんごめん、これ嘘だから、絶対嘘、と心の中では謝っているのに。

やだぁ、とみんなが弾けるように笑った。ほっとした。そして、ほっとしている自分が大嫌いになった。千晴ちゃんの泣き笑いみたいな顔を見たくなくて、そっぽを向いた。

だから、先生が楽譜のコピーを抱えて戻って期待とき、自然と輪がくずれて一番ほっとしていたのは、ほんとうは真帆だった。


低学年の頃には、真帆はもうピアノ教室の女王だった。

幼児クラスのときからずば抜けてピアノが上手かった。ほかの子よりピアノが上手いのは自分でもわかっていたし、先生からも「あなたは才能があるんだから頑張りなさい」と言われ、同時期に始めた子たちよりもずっと難しい曲を弾かされていた。去年は、中学年クラスで一人だけ二曲弾いたし、今年は発表会の開会式でスピーチをすることになっている。小学五年生でスピーチをするのは真帆が初めてだ。

だから、長い間つづけているのと実力で、真帆がトップになったのは当然だった。六年生も真帆だけには「ちゃん」付けをするし、いばったりしないで五年生の子と同じように媚びている。中学生も、真帆には一目置いている――と思う。

千晴ちゃんが教室に入ってきたのは、二年生のときだった。

「手先が不器用だから、直したかったの」入室の理由を訊いたとき、恥ずかしそうにそうこたえた。

千晴ちゃんは、練習を頑張っていた。真帆も知っている。週二回のレッスンに加えて、土曜日も日曜日も、空いているピアノやキーボードを使って練習しているのは、千晴ちゃんだけだ。市や県の大きなコンクールに出る前は、真帆もレッスン日以外の日に来ていたから、ときどき練習姿を見かけていた。

それなのに、千晴ちゃんはいまでも同学年の中では一番下手だ。千晴ちゃんより後から入った子たちは千晴ちゃんが練習している時間の半分も練習しないで、どんどん上達していった。五年生の中でブルグミュラー終わっていないのは千晴ちゃんだけ。ほかの子は、もっと難しいベートーベンやモーツァルトを弾いているのに、千晴ちゃんは一人で同じ曲ばかり弾いている。なかなか先生に○をつけてもらえず、ときどき目に涙を浮かべてピアノを弾いていたことだって、何度もあった。

真帆はいつも、そんな千晴ちゃんをソファーで寝っころがってマンガを読みながら横目で見ていた。同じところでつまずいてばかりいた。本人だってわかっているはずなのに、几帳面な性格だから一小節ずつ練習するのではなく、いちいち曲を通してからもう一度始めから弾く。そんなことを繰り返すから時間かかってしょうがないし、同じところでやっぱりしくじって、顔を真っ赤にする。でも弾き直さないで、そのまま通して……。五年生でショパンの『華麗なる大円舞曲』を暗譜で弾ける真帆とは違う。ブルグミュラーなら、初見で完璧に弾けるし、流行の曲を自分でアレンジして弾くこともできる。学校でも、放課後や休み時間に「真帆ちゃん、なんか弾いてよ」と友だちに頼まれて音楽室のグランドピアノで弾いてみせれば、ほかの学年の子も聴きつけて集まってくる。毎年学年の節目に作る文集の「将来の夢」のページには、「中村紘子みたいなピアニストになる」と書いて先生を驚かせていた。

なにもかもが正反対なふたりだった。そんなコンビに先生が渡した楽譜は、思った通り易しいものだった。真帆一人なら、小学生になる前でも弾けたような、ペダルさえ使わないような曲だった。ほかのコンビは『愛の挨拶』や『春の声』、『ジュピター』など有名な、だからこそ難しい曲だったのに。

「その曲なら真帆ちゃん、幼児クラスのときでも弾けたよねー、ペアの子のせいで真帆ちゃんが合わせなきゃいけないのってサイテーじゃん」

トモちゃんがいつものようにヨイショを入れてくれたのに、真帆はそっけなく「だね」と返すだけだった。千晴ちゃんのことを名前ではなく「ペアの子」と呼んだことに、少し腹を立てていた。真帆がさっきそうしたのとは、たぶん、違う意味だったから。

だから、その日は誰とも顔を合わせないよう、そそくさとピアノ教室を出て一人でさっさと帰った。


 2


次の週から連弾の練習が始まった。だが、真帆と千晴ちゃんのレッスン日は二回とも曜日が違うので、真帆が千晴ちゃんに合わせてレッスン日を増やすことになった。そのせいで、その曜日にある学校のクラブ活動を早退けしなくてはならなくなってしまった。

そのことも、気にくわなかった。何でわたしが千晴ちゃんに合わせなきゃいけないの、と思っていた。上手な子のほうに下手な子が合わせるでしょ、ふつう――とも。

教室には、先に千晴ちゃんが来ていた。むすっとした雰囲気で不機嫌が千晴ちゃんにも伝わったのだろう、すまなさそうな顔でこっちを見て、「真帆ちゃん、ごめんね……」とすまなそうに言った。

千晴ちゃんが自分に対して卑屈なのも、なぜかおもしろくなかった。媚びないでよ、わたしばっかり悪者にしないでよ、と思ったし、自分のレッスン日に合わさせられていることを真帆ちゃんは怒っている、と思われているのが、むしょうに嫌だった。

だから、「なにが?」とわざと意地悪にとぼけたふりをした。意地悪というよりも、言葉を詰まらせてやりたかった。

案のじょう、真帆の言葉に千晴ちゃんは困惑した表情になり、慌てて「ううん、なんでもない……」と顔の前で手をぱたぱた振って、うつむいてしまった。

千晴ちゃんを無視して、ランドセルをソファーのうえに載せて、楽譜を取り出した。それに気づいた千晴ちゃんも慌てて手さげから楽譜を取り出した。先週もらったばかりなのに、もういくつものしるしがマーカーでつけてある。

「千晴ちゃん、弾けるようになったの?」

訊くと、「うん……」と曖昧にうなずいた。首を傾げるようなしぐさだった。

「なら、いま弾いてみてよ」

ほら、とピアノを指差した。突き放すつもりで、わざと挑発的な言い方をした。「できるんでしょ? 先生が来る前にわたしに聴かせてよ」

こたえがわかっているくせに、言った。意地悪だと思う、自分でも。ほかの子には、こんなふうに意地悪なことを言わないのに。千晴ちゃんだけには、いつも悪いと思っているのについつっかかってしまう。真帆がほんとうに追い詰めているのは、千晴ちゃんではない。真帆自身だ。

千晴ちゃんは、しまった、という顔になったが、うなずいてしまったので後には引けない。ためらいながら、楽譜を持ってのろのろとピアノに向かう。ゆっくりした動作で、時間をかけて蓋を開けて椅子に座った。立て掛けた楽譜の裏を意味もなく見たり、ペダルなんて踏まないくせに、位置をわざわざ確認したりする。

真帆だってわかっている。真帆が「やっぱりいいよ」と言い出すのを待っているのだ。ほんとうはそう言ってしまいたいのに、黙って冷ややかに千晴ちゃんを見ていた。

千晴ちゃんも視線に気がつき、あきらめたように姿勢を正した。迷いながら鍵盤に指をのせる。空咳をして、覚悟を決めたように弾こうとした。

そのとき、ちょうど先生が「ごめんごめん、遅くなっちゃった」と入ってきた。

千晴ちゃんはほうっと胸をなでおろしたようにため息をついて、真帆のために椅子を横にずらした。真帆が自分の椅子を抱えて隣に行くと、「だめだったね……」と残念そうな顔をして笑った。

つまらない意地など、張らなければいいのに。素直に「ごめん、まだ弾けない……」と謝ってくれれば、それ以上の意地悪をしないであっさりゆるしてあげるつもりだったのに。

そっぽを向いたまま、先生には聞こえないように「別にいい」とぶっきらぼうに返した。


千晴ちゃんは思ったとおり――もしかしたら予想以上に、出来が悪かった。簡単な指変えや指くぐりでさえしくじってしまう。アルペジオのときには、右手と左手がばらばらになってしまい、真帆の手とぶつかってしまった。音をはずすのはしょっちゅうで、自分だけ先走ったり、逆に遅れたり、ひどいときには一小節まるまる飛ばしてしまうときさえあった。

「あーあ……」

ひととおり通し終えたあと、思わずため息をついた。大げさに首を振ってみせると、千晴ちゃんはしょんぼりと肩を落としてうつむいた。

「千晴ちゃん、まだ右手と左手で合わせて弾いたこと、なかったでしょ」

とがめるようににらみつける。千晴ちゃんは「うん……」とさらに肩をすぼめた。顔にはうっすら汗をかいている。先生が慌てて二人の間に割って入った。

「じゃあ、まず左手だけで一回やってみて。真帆ちゃんは休んでていいわよ」

マンガ読んでてもいいから、と先生がつづけると、むしろ千晴ちゃんが救われたような顔をした。

それにちゃんと気づいた。なんとなくむっとして「ここで見てる」と言った。先生はなにも言わなかったが、千晴ちゃんは顔を赤くした。

たどたどしく弾いていく。いくらなんでも、へたすぎる。普通の五年生には簡単すぎる楽譜なのに、タッチミスが目立つ。きっと真帆が隣で見ていなければ、もっと上手く弾けるのだろう。だが、連弾のときは必ずふたりで並んで弾かなければならない。練習のときから慣れておかないとだめだよ、と思う。せめて目をそらしてあげた。それくらいのことはわかっている。

ようやく左手のフレーズを弾き終え、右手のフレーズに移った。左手よりもっとひどい。右側にわたしが座っているから――ふと気づいて、嫌な気持ちになった。

だから、椅子から降りて「トイレ行ってきまーす」と言って教室を出た。振り返らなくても千晴ちゃんがほっとしたように息をついたことくらいわかっているから、わざと音を乱暴に立ててドアを閉めた。


洗面所で手を洗って廊下を歩いていると、教室から「違うでしょう!」と言う先生の声がした。めずらしいことではない。ここの先生たちはみんな有名な音楽大学を出ている。だから指導もほかのピアノ教室よりずっと厳しい。月謝だって安くはないのに、わざわざ遠くから来ている子もたくさんいるのは、有名な先生のもとでレッスンを受けたい、という子がほとんどだからだった。真帆もそうだ。先生たちは厳しくても、いまのうちからしっかりした指導を受けておきたい。真帆が毎年文集に書く夢は、クラスの男の子たちが冗談半分に「プロ野球選手になりたい」「メジャーリーグで活やくしたい」と書くのとは、わけが違うのだ。

千晴ちゃんもピアニストやピアノの先生になりたいのだろうか。

それとも、いつか言っていたようにただ単に器用になりたいから、叱られっぱなしのレッスンを誰よりもまじめに受けているのだろうか。

わからない。もともと器用で、なにをやらせても人並みのことはこなせる真帆には、千晴ちゃんの気持ちはわからなかった。そもそも、千晴ちゃんがピアノを好きなのかどうかさえ、わからない。ちっとも上手くならないのに、どうして三年間も休まずつづけているのだろう……。

教室に戻ると、ソファーにいようと思っていたのに「ちょうどよかった、真帆ちゃん、一回合わせてみるから来て」と先生が呼んだ。しかたなく、千晴ちゃんの隣に座る。ちらりと横を盗み見ると、目のはしがうっすら赤くうるんでいた。

気づかなかったふりをして、先生の「いち、に、さんはい」の声に合わせて弾き始めた。

一瞬千晴ちゃんの音が遅れた。無視すればいいのに、慌ててしまって音が転がる。

ゆっくりと弾く千晴ちゃんのペースに合わせて弾いているけれど、千晴ちゃんは自分の音を拾うので精一杯、というふうだった。さっきしくじったアルペジオは真帆だけが弾く箇所を間違えて弾いてしまい、「あっあっ」と慌てて手を引っ込めたので、自分の弾く番が遅れてしまった。慌てた拍子に肘が真帆の腕とぶつかった。

なんとか弾き終えたときには、二人とも疲れてしまい、揃って息をついた。先生も苦笑混じりに「まだまだ練習しないとね」と言う。千晴ちゃんはうつむきながら「はい……」としょんぼりした声と表情でうなずいた。

先生がほかの生徒のところへ様子を見に行くために教室を出たとたん、「ちょっとぉ……」と千晴ちゃんをにらみつけた。

「なんなの、いまの。ちゃんと練習してきたわけ?」

「うん……」

鋭い視線に気圧され、千晴ちゃんはますます深くうつむいてしまう。

「右手と左手、ばらばらじゃん。すぐシャープつけ忘れちゃうし、一小節の長さめちゃくちゃだしさ、そっちがちゃんとやってくれないと、わたしが困るわけ。これじゃぜんぜん曲になってないじゃん。もう、最悪だよ、マジ。なんでこんな簡単なこともできないの?

ありえない、悪いけど千晴ちゃん、ピアノ下手すぎ」

「……ごめんなさい」

「こんなんで、発表会だいじょうぶなわけ? ほんと、まいっちゃうよ、こんなんじゃ……わたしまで恥かいたら、千晴ちゃんのせいだからね」

「……ごめんなさい」

いまにも泣き出しそうな顔で謝る。それはそれでなんだかしゃくで、「別に謝ってほしいわけじゃないんだけど」とはねつけるように言うと、口ごもって黙りこんでしまう。

そっぽを向いて、本棚に並んだ楽譜のタイトルを目で追った。千晴ちゃんが取りつくようにこっちの様子をうかがっているのが気配で伝わるから、うっとうしくて、わずらわしくて、振り払いたくなった。背を向けたまま、「あのさあ……」とそっけない声でつづけた。

「千晴ちゃん、下手なんだから、レッスン日、先生に言って増やしてもらえば? 自分で言えないんだったらわたしが言ってあげるし、そうしてくれない? そうじゃないとわたしが困るんだもん、めーわくなんだもん。それができないんだったらせめて毎日自主練に来れば? ほかの上手い子に教えてもらいなよ、基礎から。それが嫌なんだったら……ピアノ、やめちゃえば、もう」

冷たく、払いのけるような口調で一気に一息で言った。

千晴ちゃんは、今度はなにも言わなかった。


家に帰ったあと、夕食のときに千晴ちゃんのことをお母さんに愚痴った。先生には言えないぶん、お母さんには文句がすらすらと言えた。

「とにかくさあ、ほんと下手なの、あの子。びっくりしちゃったよ、簡単なとこでもすぐミスるし、楽譜もまともに読めないし、こっちはちょー迷惑だよ、ほんっと最悪」

お母さんは口では「そんなこと言わないの、千晴ちゃんもがんばってるんでしょ?」とたしなめたが、先週、連弾の相手が千晴ちゃんと決まったことを告げたとき、絶句したあと「今年は独奏のほうに力いれなきゃね」と苦笑していたのだ。

「けっきょく恥かかされるの、こっちなんだもんねー、今年、ほんと損しちゃった……

お母さんが先生にペア変えてくださいって頼んだら、なんとかしてもらえるんじゃないの?」

「むちゃくちゃ言わないの、できるわけないでしょ、決まっちゃったんだから。それに、千晴ちゃんだって大変なのに」

味方をしてもらいたかったのに、お母さんは千晴ちゃんをかばった。それが悔しくて、おもしろくなくて、「たいへんなわけないじゃん、こっちが合わせてあげてるんだから」とふてくされると、「なに言ってるのよ、ほんとよ」とお母さんは少し怖い顔をして言った。「千晴ちゃんのお母さんに発表会で会ったとき言ってたのよ。千晴ちゃん、隣の市からわざわざ通ってきてるんだって」

「……そうなの?」

「そうよ、お母さんがパートの仕事があるときは電車使って一人で来てるんだって。たいへんよねぇ、電車通いだと。乗り継ぎもしなきゃいけないだろうし」

知らなかった。千晴ちゃんが違う小学校に通っていることは知っていたが、同じ市内と勝手に思いこんでいた。先生がわざわざレッスン日を千晴ちゃんに合わせた理由がやっとわかった。

あんなこと、言わなければよかった――いまになって悔やんだ。隣の市に住んでいるのを知っていたら、「毎日練習に来れば?」なんて意地悪なことは絶対言わなかった。土日に来るだけでも大変なはずで、ひとりぼっちで電車に乗るときは、怖い目に遭ったこともあるかもしれない。大きな石を飲み込んだみたいに、喉がきゅうっと締まって、その日は大好きなコロッケだったのに半分も残してしまった。

夕食を終えたあと、千晴ちゃんに電話をして謝ろうか、迷った。「今日言ったこと、全部嘘だから」と一言、言っておきたかった。でも、千晴ちゃんはごはんのときに、真帆がしたように家族に真帆に言われたことを話してしまったかもしれない。電話をかけて、もしお母さんが出て今日のことを怒られたりなじられたりしたら……そう考えると、子機に伸ばしかけた手は、たちまちこわばってしまう。だが、それよりも千晴ちゃんに謝罪を拒まれてしまうことのほうが、怒られるよりずっと怖い。

結局、電話はしなかった。次からはもうちょっと優しく接しよう、と本気で誓った。


 3


次の週の、発表会の各自の独奏の曲決めをする集まりのとき、先に集まっていた五年生は、いつもと様子が少し違っていた。

いつもなら真帆が教室に入ってくると、ほかの子が「真帆ちゃん、やっほー」と声をかけたり駆け寄ってきたりするのに、その日はみんな、入ってきた真帆を冷たい目で見ていた。

「……どうしたの?」

きょとんとして訊いても、誰もなにも言わない。じっとりと冷えた空気がまとわりつく。みんながかたまっている場所の中心にいたのは、千晴ちゃんだった。うつむいていた。じっと見つめても、目を合わせようとせず、隣の子に肩を抱かれている。ハナのてっぺんが、少しだけ赤かった。もしかして――白いシャツに墨汁をこぼしたみたいに嫌な予感がじわじわとにじむ。「あのさぁ」とせきを切ったように、トモちゃんが真帆をにらみつけながら口火を切った。

「真帆ちゃん、こないだの連弾のレッスンのとき、千晴ちゃんにひどいこと言ったんだって?」

なにも言えなかった。

「ペア決めたときも、千晴ちゃんの悪口、ずうっと言ってたよね。うちらさ、いままで黙ってたけど、真帆ちゃん、千晴ちゃんに冷たすぎない? なんで千晴ちゃんにばっか意地悪するわけ? いっつも集中攻撃じゃん、違う? 千晴ちゃんのこと、そんなに嫌いなの?」

それは違う。必死に首を振ったが、「じゃあなんであんなひどいこと言えるわけ?」とぴしゃりと言い返されただけで、信じてもらえない。あたまがどんどん真っ白く塗りつぶされていく。

「だいたいさぁ、嫌いじゃなかったらふつう、ピアノやめればとか言わないでしょ、たとえ冗談でも」――逃げ道を、ふさがれた。「千晴ちゃん、すっごい傷ついたんだからね」

そう言って、真帆から千晴ちゃんを隠すように、立ちはだかってにらみつけてくる。ほかの子も、そうだよ、千晴ちゃんかわいそう、と目つきをとがらせてうなずきあう。

そんなつもりじゃなかった――という言い訳はできないことくらい、わかっていた。やっぱり、勇気を出して電話をすればよかった。ふと思いかけたが、そういうことじゃないんだ、とくちびるを噛んだ。

「はっきり言って、真帆ちゃんのやってること、いじめだと思う」

トモちゃんは真帆をまっすぐにらんでそう言った。トモちゃんだけでなくみんな、怖い顔をして真帆をにらんでいた。

呆然としたまま、なにも言えない。反論しようとも思わなかった。ただ、トモちゃんの言葉はきれいなカウンターになって胸に深々と突き刺さり、、しばらく立ちすくんだまま、動けなかった。


トモちゃんたちはずっと千晴ちゃんのそばを固め、真帆が近づけないようにした。だから、いくら謝りたくても、千晴ちゃんに話しかけることはゆるされなかった。たとえ話しかけることができても、言いたいことがありすぎて、結局なにも言えなくなってしまいそうな気もする。

一言だけ伝えられるなら、「ごめんなさい」しかない。

けれど、本当に伝えたいことはそれではないような気がするから、いつまでたっても電話をかけることができなかった。

ピアノ教室に通い始めて七年経つ。ひとりぼっちで教室を過ごすのはこれが初めてだった。いつも誰かに囲まれていた。ちやほやされて、人気者なんだと思っていた。

そうじゃなかったんだな、とひとりぼっちで帰り支度をしながら思う。真帆のまわりにいないと、ピアノ教室で居場所がなくなるから、みんなしかたなく――最初はそうではなかったかもしれないが、五年生になった頃からは、しかたなくだった子もいたのだろう、たぶん。

結局、独奏曲を決めることはできなかった。先生はいくつも候補を探してくれていたが、CDを聴いてもどれも同じにしか聞こえなかったからだ。

借りたCDを手提げにしまいながら、やだな、とぼんやり思った。いまため息をついたら、一緒に涙も出てきてしまいそうだった。

やめちゃおうかな。

心の隅で、声がした。うそ、そんなわけないじゃん、と思いかけて――それもアリかも、と思い直した。ピアノをやめてしまえば、学校が同じトモちゃんや何人かの子はともかく、隣の市に住んでいる千晴ちゃんとは、もう顔を合わせずに済む。

最初はただの思いつきだったのに、だんだん本気になっていた。このピアノ教室より腕のいい先生がいる教室は、この辺りにはないだろう。いまやめてしまえばもう、中村紘子やフジコ・ヘミングのようなピアニストにはなれない。

で も、この方法なら、トモちゃんたちにも格好がつく。千晴ちゃんにも、謝る代わりに「わたしがピアノやめるから」と言えばいい。

いちどそう決めてしまうと、もう迷わなかった。今年の発表会が終わったら、「やめます」と先生に言おう、と決めた。先生や両親は反対するだろう。「どうして?」と訊いてくるだろう。

でも、ケジメはつけなきゃいけないんだよ、と思う。そうじゃないと、千晴ちゃんは納得しないだろうし、トモちゃんたちにもしめしがつかない――たぶん。

やめていく子には、最後にお別れパーティーを開いてもらえる。七年もやっていたから、五年生だけではなくほかの学年の顔見知りの子たちも、来てくれるかもしれない。

でも、どうせ誰も来てくれないよ、と思ったら涙が二粒ぽろんと零れた。


曲を決めた。「やめる」と決めてしまうと、なぜだかすんなり決まった。というより、メロディがふっと耳に響いたのだ。これしかないよね、とCDを聴きながらうなずく。

『別れの曲』――。

先生に告げると、とても驚いていた。先生が挙げた候補の中には入っていなかった曲だからだろう、と思っていた。

だが、理由はそれだけではなかった。

「その曲、すごく難しいのよ、中学生でも選ばないのに。いくら真帆ちゃんでも『別れの曲』は無理よ。ほかの曲は? シューマン好きじゃない、『飛翔』じゃだめなの? とにかく変えなさい」

真帆は首を縦に振らなかった。

困りはてた先生は、お母さんにも相談した。「ショパンがいいなら『軍隊ポロネーズ』くらいにしておけば? 『ノクターン』もいいと思うよ?」――あきれたように言われても、「この曲にする」と言い張った。「中学生になってからでいいじゃない」と先生にも両親にも言われたが、それじゃ意味ないんだよ、とうなずかなかった。

『別れの曲』は――千晴ちゃんとの別れのために、弾きたかった。ピアノとも、もうお別れだろう。だから、この曲を弾くしかない。真帆にとって、けじめの曲になるのだ。

結局根負けした先生は、「今年はその曲だけになるわよ? いいのね?」と釘を刺した。黙ってうなずく。ほかの曲を弾くつもりはなかったし、『別れの曲』以外に弾きたい曲も

なかった。

ただ、問題は、連弾をどうするか、だった。トモちゃんたちが先生に「千晴ちゃんと真帆ちゃんのコンビを変えてください」と頼んだかもしれない。そうでなくても、千晴ちゃんに「連弾、今年はやめておけば?」とくらい言ったかもしれない。その方がいい、とこっそり思った。

いくら簡単な曲でも、千晴ちゃんの隣で弾く限り、上手く弾ける気がしなかった。


『別れの曲』の練習が始まった。先生の言葉は、脅しだけではなかった。見たことのない記号がいくつもある。こまかい標語がなにを指示しているのかわからない。右手と左手がずれているので、どう弾けばいいかさえ、CDを繰り返し聴いてもちっともわからない。

こんなことは初めてだった。たいていの曲は、慣れればすぐ弾けた。だが、一週間経っても、まだ両手で弾くことができない。片手だけでさえ、やっとやっとで弾いている。もどかしくて、じれったくて、情けなくて……指がしくじると、そのたびに喉の奥がカッと熱くなって、くやしさのかたまりがマグマのように熱を持って込み上げてきて、泣きたくなってしまう。

二回目の連弾の練習は、さぼった。「風邪気味だから」と嘘をついて、家でずっと右手だけでの『別れの曲』の練習をつづけた。弾くのをやめると、ひとりで連弾の曲を弾いているはずの千晴ちゃんのことを考えてしまいそうになるので、夕食の時間にお母さんに「指がだめになっちゃうわよ」と言われるまで弾くのをやめなかった。

寝る前はずっと、お母さんにねだって買ってもらった『別れの曲』のCDをなんどもなんども繰り返し聴きながら眠った。こんなに一つの曲に集中したことはコンクールのときでさえなかった。学校でも、文句を言う友だちに手を合わせて謝りながら、休み時間はずっと教室のオルガンを占領して『別れの曲』を練習した。テンポが乱れがちな、不出来な曲を聴きに集まる子は誰もいなかった。でも、ちっとも気にもならなかった。十一月の終わりにある発表会までに、なんとか完璧に弾けるようにならなければならない。

必死だった。千晴ちゃんに謝ることはたぶんもう、できない。だからせめて、『別れの曲』を弾くことで、真帆にとっては最後になる発表会で、きちんとお別れを言いたかった。

『別れの曲』は、「ごめんね」と「さよなら」を言う代わりの曲だったのだ。


 4


次の週はさすがに二回つづけて休むわけにいかなかったから、しかたなくピアノ教室に向かった。千晴ちゃんと顔を合わせるのはずいぶんひさしぶりだ。本音を言えば、会いたくなかったし、一緒に弾きたくなかった。たぶん、千晴ちゃんだって、わたしが休んだ方が助かるんだろうな、とわかっているから、自転車のペダルを踏む足はずん、と余計に重くなってしまう。

ため息をつきながら、のろのろと二階にある教室に向かう。わざと時間をかけて来たせいで、約束の時間より十分も遅れていた。たぶん、叱られはしないだろう。でも、それよりも千晴ちゃんと顔を合わせることの方が気持ちを重くさせた。

しょんぼりしながら廊下を歩いていると、部屋からピアノの曲が聴こえてきた。「ほら、またシャープ抜けたよ」と注意する先生の声も、一緒に。千晴ちゃんの弾く音は、相変わらずちぐはぐだった。

嫌だなぁ、入りたくないなぁ、と思いながら教室の前をうろうろしていると、中から先生が「ちょっと外見てくるから、千晴ちゃん練習してて」と言う声がした。ヤバッと思って慌てて階段に逃げようとしたが、中から出てきた先生にあっけなく「真帆ちゃん、来てたの?」と見つかってしまった。中にいるはずの千晴ちゃんにも聞こえるぐらい大きな声だったから、頬が燃えるようにカッと熱くなった。

「来てたなら、入ればいいでしょ。さ、中に入って練習しなきゃね」

とっさにあとずさった。

「……無理です」

「はあ?」

「わたし、今日は自分の曲練習しに来たんで、下でやってますっ」――言うなり、階段を転がるように降りた。足音がみっともなく廊下に響き渡る。

「ちょっと、真帆ちゃん?」

先生の、怒ったようなあきれたような声がしたが、振り向かなかった。心臓が、喉から飛び出しそうなぐらい激しくどきどきと脈打っていた。階下まで降りて、トイレに入ると、からだから力が抜けて、しばらくうずくまったまま立ち上がれなかった。


とぼとぼと、なんどもため息をつきながらひとりで自転車を漕ぎながら帰っていると、ふいに後ろから「真帆ちゃん!」と呼ばれた。まさか――驚きながらブレーキを慌ててかけて後ろをそっと振り返ると、千晴ちゃんが手さげをかかえてこちらに駆け寄ってくるところだった。

「……どうしたの?」

なにも考えないまま、頭で考えるより先にたずねていた。さっきまでは、来週はどうしよう、連弾やめちゃおうかな、でもそんなことをすれば千晴ちゃんと弾くのが嫌なんだと言っているようなものだから、感じ悪いかな……と悩んでいたのに、千晴ちゃんの顔を見た瞬間、心にあった「壁」があっけなく崩れた。

千晴ちゃんも、こっちが普通な態度で接したのでほっとしたのだろう、「あのね……」と安堵した声と顔でつづけた。「その、なんていうか、お願いがあるんだけど……」

「……なに?」

「えっとね、わたし……真帆ちゃんに、ピアノ、教えてほしいんだけど……」

「え?」

 思いがけない提案に、困惑の声が出る。千晴ちゃんは耳まで顔を赤くした。

「……わたし、ほんと下手だし、ほんとは毎日来たいんだけど、家、遠くて無理なの……だからせめて、来られる日に教えてもらえたらいいな、って思って……」

身振り手振りをまじえて、千晴ちゃんはピアノの弾き方と同じようにたどたどしく説明した。「だから……だめ、かなぁ?」と眉をハの字に下げていまにも泣き出しそうな顔で、自転車にまたがったままの真帆を見つめる。

すごく、うれしかった。千晴ちゃんだって、トモちゃんたちのことで気まずいはずなのに、胸をどきどきさせながら勇気を振りしぼって追いかけてきてわたしを呼び止めたんだろうな、と思うから。

でも、その一方で、胸がずん、と重くなった。このあいだ言ったことをそこまで気にしていたんだ、と思うと、申し訳なさや悲しさや後悔が喉の奥からせりあがってくる。だから、とっさにはこたえることができなかった。困ったな、どうしようかな、とこたえあぐねていると、沈黙を勘違いした千晴ちゃんは「だよね……」としょんぼりとうなだれた。「迷惑だよね、いきなり言われても」

そんなことない、と慌てて首を振った。

「付き合うよ、練習。一緒にやろう」

「ほんと?」千晴ちゃんの顔がパッと明るくなった。「いいの? いいの? ありがとう……でも、迷惑だったらすぐ言ってね、ほんと、ごめんね」

声をさえぎって、「土日に来るから。一時ぐらいでいいよね?」と訊いた。

「うん、ぜんぜんいいよぉ、ありがとう……」

お礼を言っているわりには、逆に謝っているような声で千晴ちゃんがうれしそうに笑う。真帆も、笑い返すことができた。

じゃあね、わたし駅だから、と言って千晴ちゃんが手を振って来た道を引き返す。最後まで、「ごめんね」を言うことはできなかった。千晴ちゃんも、トモちゃんたちのことをむし返したり、「今日、来てたんだよね?」と訊いたりもしなかった。

そのことに拍子抜けして、ほっとしてもいて、やがて、自転車をゆっくり漕ぎだした。


休日の特訓の甲斐もあって、千晴ちゃんはだんだん上手くなった。一番苦手なアルペジオの箇所も、完璧とは言えなくても、最初の頃とは比べものにならないくらい上手くなった。真帆も、もういらいらしたり、怒ったりすることはない。練習を重ねるうちに、千晴ちゃんの弾くテンポが急にずれても、とっさに合わせられるようにもなった。

『別れの曲』も、毎日練習しつづけたおかげで、なんとか両手で合わせて弾けるようになった。まだ最後まで通すことは無理でも、「曲」として成り立つ程度のレベルにまでなり、一番驚いていたのは先生だった。

ただ、一つだけ。曲の一番盛り上がる箇所の、クレッシェンドとディクレッシェンドが、どうしてもできない。ちょうど、クレッシェンドとディクレッシェンドが向かい合った、平たいダイヤのようになったところの、てっぺんにあたる箇所までは難なく弾けるのに、そこからだんだん小さくしていくのが、どうしてもできない。ゆっくりやってみても、だめ。音をすぼませたいの、逆に大きくなっていってしまう。

千晴ちゃんに聴いてもらった。千晴ちゃんは「うーん……」と首をかしげ、「だんだん、指の力を抜いていくと上手くできると思うよ」とアドバイスした。でも、意識して楽にしようと思えば思うほど、指はこわばり、力が入ってしまう。

「わたしはどっちかっと言えばクレッシェンドの方が苦手だから……よくわかんないや」

申し訳なさそうに千晴ちゃんは言ったが、自分がディクレッシェンドを苦手な理由を、なんとなくわかりはじめていた。要は、性格と同じなのだ。だから、トモちゃんたちが真帆をはじいているのは、大きくなりすぎてしまったクレッシェンドを止めているようなものだ。

同じ箇所ばかり弾きつづけた。歯を食いしばる代わりに、鍵盤を叩く。悔し涙をこぼす代わりに、ペダルを踏む。大きくなりすぎたものも、いつかは元に戻さなければならない。いままで知らん顔してきたつけが回ってきたんだ、と思う。

千晴ちゃんも、自分の独奏曲を必死に練習していた。今年弾く曲は、シューマンの『トライメロイ』――去年までのものよりずっと難しい曲だった。「すごいじゃん」と素直に驚くと、「先生には止められちゃったんだけどね」と恥ずかしそうに笑った。


みんなはだんだん、真帆をはじくのをやめた。みんな、真帆と千晴ちゃんが休日に特訓していることは知らない。ただなんとなくうやむやになり、真帆は元のピアノ教室の女王に戻った。「真帆ちゃん、真帆ちゃん」とみんなが媚びる。真帆の冗談にみんなが笑う。でも、もう千晴ちゃんの悪口を言わない。言ったせいではじかれたから――なんかじゃない、絶対。

トモちゃんだけは、微妙によそよそしい。遠慮がちに、おそるおそる接してくる。みんなとのおしゃべりで、真帆に合いの手を入れることも減った。愛想笑いを浮かべているだけで、居心地悪そうにしている。

「朋美、なんかあったの?」とあとでほかの子に訊くと、「ちょっとね、トモってでしゃばりだからシカト中なの、いま」と言いにくそうに、それでいて少しうれしそうに言われた。

土曜日、ピアノ教室での練習から帰る途中、留めておいた自転車にまたがって「じゃーねー」と千晴ちゃんに声をかけて帰ろうとしたとき、「あ、ちょっと待って」とあせった声で呼びとめられた。

ブレーキをかけて振り返る。「なに?」とうながすと、「お願いがあるんだけど……」と遠慮がちに、すまなそうに切り出した。「急なんだけど明日……暇?」

唐突な質問に面食らいながら、うん、まあ……とうなずくと、「よかったぁ……」と千晴ちゃんはほっとしたように胸に手を当てた。

「なんかあった?」

「うん……あのね、もしよかったらでいいんだけど……明日、ウチに来てくれたり、する?」

「……なんで?」

きょとんとして訊くと、「お母さんが連弾するの、聴きたがってるの」と顔を赤く染めて言う。「ふたりで弾くところを見たいんだって」

「発表会があるじゃん」と少しあきれていると、「違うの」とかぶりを振る。「発表会のときは、横しか見えなくて、並んでるの、見えないから……なんかね、わたしと真帆ちゃんが並んで弾いてるのを、後ろから見たいんだって」

正直、へんなの、と思った。横から見ても後ろから見ても同じじゃん、と思うから。千晴ちゃんも気持ちを察したのだろう、「なんか、へんだよね……横からじゃだめなんて」と苦笑いを浮かべ、「でもね」と言葉をひるがえした。

「わたし、毎年伴奏の方、弾くから……左側なの、座るところ。だから、客席からだと見えないんだよね、いつも」

思わず、千晴ちゃんから目をそらした。夕陽のまぶしさに目を細めるふりをして「何時に行けばいい?」とそっけなく言った。


 5


駅で千晴ちゃんと待ち合わせて、電車を乗り継いで千晴ちゃんの家に向かった。子供だけで電車に乗ったのは、これが初めてだ。そう告げると、千晴ちゃんは「わたしは二年生のときからだから……もう慣れちゃった」と照れくさそうに笑う。怖くなかったの? と訊くと、しばらくして「忘れた」と返ってきた。忘れたのではなく、思いだしたくないんだろうな、とわかるから、もうなにも言わなかった。

しばらく沈黙がつづいた。肘をついてボックス席の窓の外をぼんやり眺める。この景色を見ながら千晴ちゃんは通ってきたんだな、と思うと、知らない街がもっと遠くに思えた。

「……千晴ちゃん」

「なに?」

言うか言うまいか一瞬悩んだが、迷いやためらいを振り切って「千晴ちゃんって、ピアノ、好きなの?」と訊いた。

黙ったままだった。真帆は窓の外を見ているから、表情は読めない。だから、いきなりそんなことを言われて驚いたのか、それとも、もっと別のところで戸惑ったのか、わからなかった。

少し間があった。しばらくして、「好きだよ」とぽつんとしたこたえが返ってきた。

意外だった。嫌いか苦手のどっちかだろうな、と思い込んでいたから。わたしだったら、嫌いになっただろうな、とも。

「……でも千晴ちゃん、ピアノ上手くないじゃん」

意地悪を言ったつもりはなかったが、言葉にしてから後悔した。責める口調ではなかったが、言いすぎたかも、とすぐに悔やんだ。だが、千晴ちゃんはきっぱりと言った。

「でも、好きだよ」

思わず、隣に座る千晴ちゃんを振り返った。千晴ちゃんは自分の言葉に照れてしまって、「……下手くそなんだけどね」と笑った。


 6


千晴ちゃんの家に着くと、おばさんが「いらっしゃい、わざわざ遠くからありがとう」とにこにこしながら迎えてくれた。千晴ちゃんによく似た、優しそうなひとだった。

千晴ちゃんに「リビングにピアノがあるの」と声をかけられ、うなずいて中に入った。通されたリビングでは、おじさんがビデオデッキの準備をしているところだった。

カメラを回すなんて聞いていない。思わず千晴ちゃんを振り向くと、「ごめん、お父さん、撮るの好きだから……」とすまなさそうに手を合わせる。おじさんも「嫌ならやめるから」と言ってくれたが、断れなかった。毎年おじさんが撮っているはずの発表会のビデオの連弾のシーンは、ペアの子に隠れてしまって千晴ちゃんはほとんど映っていないんだろうな、と思ったから。あとから家族で見返すとき、千晴ちゃんや両親は、どんな思いでそのビデオを見ていたのだろうと想像すると、なんだか断るのが申し訳ないような気がした。

「じゃあ、弾こっか」

真帆がうながすと、千晴ちゃんは「ちょっといい?」と、簡単にアルペジオの箇所を練習した。緊張している。両親の期待を背負っている背中は、こわばっている。それでも、頬は誇らしさでうっすら上気していた。

大げさだなぁ、と思う。だが、自然と浮かんだ笑みは、冷ややかな薄笑いではなく、微笑ましいものを見ているようなやわらかな笑みだった。

「いいよ、弾こう」

千晴ちゃんに声をかけられ、隣に座った。メロディーを弾く右側。真帆は毎年、こっち。千晴ちゃんはステージから見えるこっち側に座ったことがないんだな、とそっと唇を噛んだ。きっと、来年も、再来年も。

でも、思う。たとえ客席からは見えなくても、ふたりいないと連弾は成り立たない。だから、そっちのポジションって、けっこう、だいじなんだよ――口したら自分の方が照れてしまいそうだし、励ましているみたいで嘘っぽいから言わなかったけれど。

なんども練習してすっかりよれた楽譜を並べた。おばさんが後ろのソファーに腰を下ろし、おじさんがビデオを構えた。ふたりとも、背中をじっと見つめているのがわかる。弾いているときの千晴ちゃんの表情を見られなくて残念だろうな、と思った。ピアノを弾いているときの千晴ちゃんの笑顔は、ほんとうにピアノが好きなひとしか浮かべることのできない、透き通ったやわらかな笑みなのに。その笑みの深さは、隣で弾くコンビの子にしかわからないのだ。

「じゃあ、いち、にい、さん、はい」

おばさんの合図に合わせて、すっと息を同時に吸い込み、ふたりはゆっくり弾きはじめた。


「真帆ちゃん……今日、来てくれてありがとう……」

駅まで送ってくれた千晴ちゃんが照れくさそうに言った。黙ってかぶりを振る。両手には、おばさんが持たせてくれたおみやげが入った袋をかかえている。

「お母さんとお父さん、また来てねって言ってたけど……無理だよね、勝手なこと言ってて、ごめん……」

「そんなことないって」

楽しかったし、とつづけると、千晴ちゃんははにかんだ。お世辞だと思われたくなかったから、「ほんとだよ」と念を押した。

実際、連弾は本人たちが驚くくらい上手く弾けた。おじさんもおばさんも、手を叩いて喜んでくれた。「発表会で失敗しちゃったらごめんね」と千晴ちゃんは心配していたが、この調子ならなんとかなるだろう。

いまなら、あの日のことを謝れそうな気がした。深呼吸して、「あの……」と切り出そうとしたが、それよりも先に「ねえねえ」と言う千晴ちゃんの弾んだ声に遮られた。

「ふと思ったんだけど……連弾って、二人三脚と似てない?」

思いがけない言葉だった。素直に「そうかも」とうなずくと、千晴ちゃんはうれしそうに「でっしょー?」と笑った。「ずっと思ってたの、やってることは一緒なんだよね、たぶん」うん、うん、と噛みしめるように、一人でなんどもうなずきながら。

「わたしたち……あんまりいいコンビじゃなかったかもね……」

ふいに口調を変え、しょんぼりした声で千晴ちゃんがつづけた。こっちがなにか言う前に、「迷惑ばっかりかけちゃって、ごめんね」と申し訳なさそうに言う。

そんなことない、と言う代わりに、「来年も、来るから」と言った「一緒のペアになっても、あと、ならなくても……絶対、遊びに行くから。また一緒に弾こう」

千晴ちゃんは一瞬驚いたあと、顔をくしゃくしゃにして、泣き顔すれすれの笑顔で「ありがとう……」と言った。

電車が入ってきた。少しためらいながら乗り込む。千晴ちゃんがなにか言った。だが、発車ベルの音に紛れて、聞き取れない。千晴ちゃんは声が届いていないことに気づかず、笑顔でなにかしゃべっている。

ドアが閉まるのと同時に「ばいばい」と言う声が滑り込んできた。

電車が走り出す。千晴ちゃんが手を振っている。真帆は振り返さず、遠ざかっていく千晴ちゃんをじっと目で追った。やがて、視界から千晴ちゃんが途切れる。息をついて、そのあとふふっとまるく笑った。

空が見えた。紫色に染まった空に、小さな雲がぽろぽろと浮かんでいる。まるで、楽譜から落っこちてしまった音符みたいだった。雲の音符に、シ、ミ、シ、レミファ、と『別れの曲』の楽譜を当てはめて口ずさむ。ピアノ、やーめないっ、とひさしぶりに意地悪な口調でつぶやくと、胸がくすぐったくなった。

耳には聞こえないピアノが、胸の奥で、いつまでも響いていた。

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