第105話:天の裁き

「迷宮が閉ざされ、次の朝だった。錠を開けて見てみれば、粉々にな」


 濃黄こさき色の僧服を着た老人が、本殿へ足を踏み入れる。目に映っていても、すぐに応じる気になれなかった。

 入り口の戸も窓も、人の入れそうな場所に破壊の痕跡はない。


「幾分かの時も過ぎたが。話してもらえるのかな? 国の大事とは、何であったか」


 老人。院長から、拝礼で問うてくる。そのつもりで来たのだ、同じく拝礼で返した。


「迷宮の生まれる前に遡ります——」


 腰を下ろし、話した。偉浪ウェイラン破蕾ポーレイの出逢いから始まり、人形を滅して生徳神シィドの言葉まで。

 何もかもを話すのに、小間使いが茶のお代わりを二度運んでくれた。


「——なるほど、それで鬼徳神ゲドの像が。尋常ならざるとは思っていたが」

「左様でございますね。像が砕けるなんて」


 像が涙を流すとか、罅が入るという話は聞いたことがある。だが元の形が分からぬほど粉々にとは、凶兆として最悪の部類だろう。


 しみじみ頷く春海チュンハイに、しかし院長は「いや、それだけでは」と首を横に振った。


「何もなしでは申しわけない。仮に木札を置いたのだが、直ちに割れた。二度やり直し、何れも。さらに新しい像を頼んだ職人は、手持ちの材を全て腐らせた」

「腐る? 神像を頼もうという職人の持ち物が、腐ったのですか」


 耳を疑ったが、院長は訂正しなかった。

 木工には詳しくない。けれどもよく乾かした木を吟味し、保管にも気を遣っているくらいは分かる。

 割れたとか曲がって使えぬならともかく、腐るなど考えられない。


「どうしたものか、弟子達と話し合った。すると儂も含め、全員が立っておれんようになった。それが像をそのままにすると決めた途端、嘘のように治った」

「もう鬼徳神ゲドを祀るな、と?」


 神々の真意を知る方法はない。だがおそらく迷宮での主張は、鬼徳神ゲドよりも人間に分があったのだろう。


「で、あろうな。近隣の僧院に尋ねたが、同じことが起きておった」


 院長は一つずつ、言葉を選んで話す。表情には動揺を見せないが、慎重さに顕れているらしい。


「この院でしか、なかったこともある」


 院長の手が自身の懐を探り、布包みを取り出した。

 最初に訪れた時、手渡した父からの信書かと思った。が、どうも包んでいる絹に模様が入っている。


「それは?」

「像の破片に交じっていた。個人に当てた信書とは思わなかった。悪いが読んでしまった」


鬼徳神ゲドの像に、信書が封じられていたということ?)

 彫った職人が仕込めば、できぬことではなかろう。しかしそれを、なぜ院長は春海チュンハイへ渡そうとするのか。


「不思議なこともある。記された日付けは、像の砕けたその日になっておる」

「そんな、まさか」


 未来の日付けを書き、木像にしまう。そこまでは簡単だが、表に出た日と一致さすのは不可能だ。

 もちろん像を砕いたのが神々なら途端に、造作もなかろうとなるが。


「どなたから、どなたへ?」


 おそるおそるに受け取り、布を捲った。しかしまた中に、真白い別の布がある。二つに畳まれ、表には何も書かれていない。

 包んだ絹は、院長の用意したものらしい。


偉浪ウェイラン破浪ポーランへ。書いた者が破蕾ポーレイとは聞かぬ名だったが、これで通じた」


 落とした目を、はっと上げる。持っていけと、院長は頷いた。

 硬く緊張した頬が、大きく息を押し出す。突き返す理由はなくなった。


「一つ、お願いが」

「儂にできることなら、何なりと」

「父と母へ知らせてください。院長様のお知りになったことを。それから、もう娘は帰らないと」


 信書の中は覗かず、元通りに包む。懐へ入れると、ようやく院長は「容易いこと」と請け負ってくれた。


「しかし、良いのかな?」

「父もどうして良いか分からなかったのだと思います。だからと言って、気にするなとも言えません。時を重ねて考えれば答えは出るのでしょうけど、私には他に大切なことがあります」


 二度と会わぬ、というほどには考えていない。何かの折りがあれば、足を向ける選択肢も。と思うところもあった。


 けれど院長に伝えて、これでいいのだと確信を得た。もしかすると間違っているかもしれないが、そうと気づくまでは良いと。


 破浪ポーランに話したいことがある。偉浪ウェイランに頼みたいことがある。

 期待と不安では後者が勝つ。だが胸を張り、僧院を後にした。

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