第104話:緩やかな頽廃

 ふた月ほどが過ぎ、あれから初めての来客がボロ小屋にあった。父子のでなく、春海チュンハイの側の戸が叩かれる。


小龍シャオロン、具合いはどう?」


 戸を開けると、艶の良くなった禿げ頭を撫でる巨漢が居た。

 具合いと言っても、肉体的な損傷はなかった。極度の疲労と、目覚めて知った飛龍フェイロンの死に関してがおそらく大きい。


「おかげさんでな。そっちこそどうだ」


 まだ微笑にぎこちなさが見える。

 とは言えこのひと月余り、格段の改善も間違いない。見舞いには何度も行ったが、あちらから訪ねてくれたのが何より。


「変わらないわ。食事はしっかりと食べてくださるけど、ずっとあそこに」


 そっちと問われたものの、春海チュンハイのことでない。小龍シャオロンは首を返し、小屋から離れた浜を見る。


 陽の射す間じゅう、波打ち際で釣り糸を垂れるのが偉浪ウェイランの毎日となった。

 針こそ付いているものの、餌はない。誰が通りかかっても、何を言われても、じっと海だけを眺めた。


「まあ、寝込むよりはいいだろうぜ」

「そうね……」


 原因は分かっている。元気になれ、と言ってなるものでもない。

 まして同じような思いを抱えた小龍シャオロンに、用いる言葉を持たなかった。


「ところで破浪ポーランは?」

「今日も漁よ。最近はお昼の食事をもらえるんですって」

「ハッ。いいことじゃねえか、そう拗ねるな」


 拗ねてなどない。否定しようとしたが、念のために自身の顔を触れてみた。

 げはは、と笑声が小屋を揺らす。それほど笑う、何ごともなかった。そもそもが、いかにも作りものめいた声。


(気遣うなってことね)

 気落ちして慰め合ってもいいことはない、とでも言いたいのだろう。

 他の誰でもなく、この男にと思うけれど。


「朝、網を揚げて。日が暮れる前にまた引き揚げて。その間は使わない網を干したり、舟の修繕を手伝ったりしてるの」

「なんだ、すっかり漁師だな」


 どうやって笑うのだったか、小龍シャオロンを馬鹿にできない。顔のあちこちを軋ませる感を覚えつつ、愛想を作る。


「力だけはあるから」


 というのは謙遜であり、事実だ。身体を使うことなら、破浪ポーランは大抵を人並み以上にこなす。

 しかし舌打ち混じりにも彼に仕事をくれるのが、漁師だけだった。


「町を出ねえか?」


 冗談の続きという調子。しかし疲れの見える目で、小龍シャオロンは言う。


「連れ出しちまえば、偉浪ウェイランも観念するだろ。居心地のいい場所なんざ、探さねえでもたくさんあるぜ」

「——どこかへ行くのね」


 そうとは言わない。が、一緒に行こうという思いが透けた。問いの答えも、自嘲気味ながらたしかに頷く。


「母ちゃんを世話してくれた商人が出て行くんだとよ」

「着いてこいって?」


 ならば小龍シャオロン杭港ハンガンへ残る理由は薄い。兄の最期の地さえ、もはや影も形もないのだ。


「いや、逆だ」


 笑う芝居に拍車がかかる。それを押してなお、逆とはどういうものか具体的に聞く勇気はない。


「私は破浪ポーランとお父様を支えたいだけ。だからどこへ居たっていいの。でも誘ってもらって、勝手に返事はできないわ」

「もちろんだ。明日や明後日ってわけじゃねえ、その気になったら言ってくれ。近いうちにな」


 小龍シャオロンはもう一度、偉浪ウェイランを眺めて去った。

 言う通り、あのまま潮風に干からびそうだ。破蕾ポーレイと関わりのない、まったく別の場所へ移るのが良いようには思う。


 しかし護兵に出て行けと言われても、偉浪ウェイランが頑なに拒んだ。老いたりといえ現役の護兵を、殺気だけで後退らせて。


 ——次の日。波が高く、破浪ポーランは漁に出かけなかった。

 嵐の季節だ。昨日は晴天でも、今日は分厚い雲が垂れ込める。


「僧院へ行ってこようと思うんだけど、いいかしら」

「もちろんだよ。俺も行こうか?」

「いいえ。お父様を見てあげて」


 偉浪ウェイランはやはり、波打ち際で海を眺める。誰も傍に居なければ、もしものことがありそうだ。


「うん、まあ。そうだね、ごめんよ」

「謝ることなんてないわ」


 朝食の片付けを終えた冷たい手で、破浪ポーランの頬を挟む。それをまた彼の両手が包み、互いにしばらく黙った。


 この町へ来てすぐ、いくらか話した後には立ち寄っていない。父や母への便りも出していない。

 破浪ポーランに添い遂げるつもりはあっても、何も知らせぬわけにいかぬだろう。いや知らせぬなら知らせぬと、決断をする必要があった。


 ゆえに一人で向かうほうが都合が良かった。邪魔にしているのではないと胸の内で謝り、小屋を出た。

 風はまだ乾いている。しかしとても強かった。


 門番の武僧。小間使いの男の子。どちらも様子に変わりない。

 元気そうで良かった。などと言いたくなるのは、あまりに多くを経験したからに違いない。


 院長を待つには、また本殿へ案内された。

 入って正面に始徳神サイド生徳神シィド終徳神スゥドの像。

 信心はさておき、礼儀として両手を合わせた。誰かの大切なものを、自分にはそうでないからと蔑ろにしたくない。


 記憶がたしかなら、左手には鬼徳神ゲドの像がある。そちらはどうすれば良いか、目を瞑って悩んだ。


 だが三神に礼儀として手を合わせたなら、同じで構うまい。そう踏ん切りをつけ、向き直る。


「えっ……」


 像がない。

 木製の台座は残り、その上に砕けた木片が散らばる。

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