終幕:これから
第103話:饅頭に劣る
地上まで戻るのに、十日かかった。
往路より短く済んだのは、あれほど居た人間の顔持ちの魔物を見なかったところが大きい。
蟲の類は
「天道様を愛おしいと思ったのは初めてだわ」
一階層の、迷宮の出口へ向かうまっすぐな通路。陽光が眼を貫く。明暗の差が背の後ろを真っ黒に見せ、出口の先を真っ白に見せた。
また頬や喉を、向かう風が撫でるのにも気づいた。まだまだ遠いうちから、迷宮の
ゆっくりと目を慣らし、表へ。
そこに艶やかな着物と牡丹の灯籠はない。もちろん持ち主も。
「またな」
「さて……」
前へ向き直る彼が、やれやれと表情を作る。理由は明白だ、迷宮と街を分ける鉄門の向こうへ、人々が押し寄せていた。
当たり前の踏み固められた地面を行く。許されるなら、何を言われようと無視を決め込みたい。
この父子には休息が必要で、それより優先されることなどないはず。
当人にもそう言いたくて堪らなかったが、先導する足取りは軽い。
「来た」
「まだ棺桶なんて牽いて」
男も女も、口々に何ごとかを言った。今か今かと、護兵が鉄門を開けるのを待ち侘びている。
かんぬきが抜かれ、門が開く。軋む音はあったかもしれないが、怒号に掻き消された。
「やってくれたな!」
「街をどうするつもりだ!」
歓迎や労いとは逆のことが待っているだろう。と
彼の言う通り、町の人々は今にも飛びかからんばかり殺気立つ。道を空けろと、護兵の言葉がこの上なくありがたかった。
「
歴戦の強者が馴染みのない女の背に居ることを、護兵が訝しんだ。姿を見て事情を察せぬ者が居ないのも良かったと思う。
そのまま護兵の天幕へ案内された。
背の高くもない
「十日ほど前から、魔物が居なくなったと報告を受けている」
天幕の中で最年長らしい護兵が言った。幕の向こう、少し離れた人々の声が聞こえるけれど、視線は通らない。
護兵自身を含め、各々に椅子も勧められた。
「
五十も超えていそうな護兵が先に腰かけ、話す
仕方のないことだ。護兵も問わずにおける状況ではあるまい。
幸い、いまだ目覚めぬ
「見て分かると思うが、奴らは逃げた。なんだかんだ、先に報奨だけ受け取ってな」
「逃げるって、どこへ」
「皇都行きの船を頼んだそうだ。噂では
海を越えた小さな島の、飛鳥なら分かる。
「それで、本当なのか。もう魔物が出てこないっていうのは」
「魔物が?
「違うのか。あの男は
人々が色めき立つのは、人が滅ぶからではないらしい。するとどうしてとなると、迷宮の終わることが問題なのだと悟った。
迷宮の存在によって栄える町だ、分からなくはない。父子に近しく居る
「間違いでもないですが、ややこしい話です。信じてもらえるかも分かりません」
そう前置き、彼は話した。
十八年前。町がほぼ全滅したのは、人形の核になる魂を得るため。その人形を倒したことで、迷宮は機能しなくなった。
いつまで延期されたか分からない、人の滅亡については話さなかった。
「辻褄は合うが……」
同じことを何度も、少しずつ言葉を変えて問われた。
創作であれば、綻びが出るというのだろう。実際には信憑性が増すばかりだ。
「疑われても、証拠はありません。近衛にしてもらおうとも思わないし、信じてもらう以外はないです。でも現実として、魔物も宝袋も二度と現れませんよ」
正確には屍鬼が現れなくなるだけだが、きっと同じことだ。
「そうか。何とも言えんが、話は分かった。しかしお前たち、どうにか逃げたほうがいい。誰に何をされるか分からんぞ」
迷宮がなければ、誰もやって来ない。当然だが、住人には仕方がないで済まぬことだ。
「そうですね。
難しい顔ながら、護兵は請け負った。日が暮れてから、町を出る手筈を用意することも。
「どうして——?」
誰かが問う。
気持ちは分かるが、誰が悪いわけでもない。護兵を困らすだけの問いなどするものでない。
「どうして
「まあ、な」
やはり、護兵は苦笑でごまかすのがせいぜいだった。向ける先が
「地の底で、地上を見上げたことがありますか? 力が及ばないと、食われるしかない世界で」
籠もる感情が怒りか悲しみか。それとも飢餓の境地で見上げた恐怖なのか分からない。
あるいは全てを混ぜ合わせているのだろう。肥大化するに連れ、声も大きく強くなっていった。
「福饅頭より劣るって、よく言えたものです。福饅頭、食べたかった。硬くなめした短刀の鞘でも、おいしいと思った。それでも及ばず、力尽きることはあります。強いとか弱いとか、そんな単純な話ではないんです」
思いつく言葉を、でたらめに並べていく。仮にも諭そうというなら、少しは考えて話せばいいのに。
誰かの言葉にそう感じる自分も冷たい。胸の苦しさに、目を瞑った。
「そんなところから、魂だけでも運び出される。私は運良く生きて戻ったけど、それでもどんなに救われるか想像できます。あの人たちには、できるんでしょうか」
護兵は黙して、首を横に振った。
「それなら、なぜこんなひどい仕打ちを? 迷宮から富を運ぶ探索者を主とすれば、屍運びは福饅頭でしょう。どちらでもない人たちは何だって言うんです? 饅頭より劣るのは、いったい誰なんです?」
みっともなく、泣きじゃくる声。こんな偉そうなことを言うのは、絶対に自分でない。
抱きしめてくれる
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