第102話:成したこと

 感情の薄い顔から、彼の思いを察することはできない。もしかすると春海チュンハイは、呆れられているのかもだ。


「父さん、終わったよ」


 すぐ、破浪ポーランは父の目の前へ膝を突いた。ずっと声を発しない偉浪ウェイランは、やはり黙ったまま。


「ごめんよ」


 何についてか言わぬまま、破浪ポーランの頭が下がる。地面に額が触れ、誠心誠意。

 それでも父は息子に視線を向けず、どこか宙を見つめる。


「帰ろう。小龍シャオロンの体力があるうちに」


 どうこうを言っても、すぐに気持ちの決着が着くはずがない。おそらくそう考えた破浪ポーランは、父親に手を伸ばす。


 偉浪ウェイランもまた、合わせて手を動かした。

 応じてくれるらしい。春海チュンハイは、ほっと息を吐く。


 しかし破浪ポーランの手が押し戻される。荒々しさはなく、宥めるように。


「俺ァ、いい」

「いいって、そんなわけにいかないだろ」

「帰ろうったって、帰れねえだろうよ。寝床は一つしかねェんだ」


 寄りかかる棺桶を、偉浪ウェイランは叩く。

 そうだ春海チュンハイのように小柄ならまだしも、小龍シャオロン偉浪ウェイランとが入る容量はない。


「じゃあ帰るのはいいんだね。方法は考えるよ」

「ああ構わねェ。先にそのでかいのを連れて帰れ。俺ァゆっくり待ってる、また連れに来いや」


 馬鹿げたことを、いかにも面倒そうに偉浪ウェイランは提案する。

 ここまで片道で十日以上をかけて来たのだ。食料もなしに、また往復分を待てるはずがない。


「ここで母さんの後を追うってことかい」

「帰る方法がねェって言ってんだろ」


 きっと破浪ポーランの言う通りだろう。しかし連れ帰る方法に困るのも事実。

 彼の目が、フォウを盗み見る。けれどもすぐに、諦めの色を見せた。


 犬の歩みは運搬に向かない。どうにか縛りつけることはできようが、既に偉浪ウェイランの消耗も激しい。地上へ戻るまでに死ぬ可能性が高いと思えた。


(それなら)

 春海チュンハイ破浪ポーランの隣へ膝を突き、同じく額を地面へ着けた。


「お父様、どうか私にやらせてください。至らぬ女ですが、どうか」


 謝るべきは自分だと思った。だがそうすれば、おそらく偉浪ウェイランは地上へ戻ってくれない。

 ゆえに頼みごとだけを口にした。小賢しくとも、これが最良と信じて。


「お前が? 春海チュンハイ、お前はいい女だ。馬鹿息子にはもったいねェ。それでもできないことってのはある。仕方のねェこった」

「では。私にできるのなら、一緒に戻ってくださいますね?」


 破浪ポーランを下げての褒め言葉が扱いに困る。しかし今は、それさえも後回しだ。

 逃げ道をなくす物言いが罪深く、早口になった。


「……あァ、できるもんならな」

「ありがとうございます!」


 口車に乗ってくれたことを、心から感謝した。これも偉浪ウェイランの優しさに違いない。


 気の変わらぬうち、すぐに取りかかった。自身より大柄の男を運ぶ目処はついていた。

 天界の門シャンタンを拾い、破浪ポーランに頼む。


「これ、飾りを外したいの」

「ええ? ——ああ、なるほど。いいのかい?」

「もちろん。お父様を運ぶより優先することはないわ」


 僧として、あるまじき行為。数日前までは、思いつきもしなかったろう。

 今はむしろ、誇らしかった。意図を汲んだ彼が手際よく、門の形を崩していくのが。


 偉浪ウェイランも「おい」と言いかけた。しかし黙って、姿をなくしていく様を見守った。

 最後におよそ背負い子の格好となり、観念した様子のため息を吐く。


「考えたもんだが、それにしたって行けるのか」

「武僧としての鍛錬もしました。お任せください」


 背負い袋を被せ、少しは座り心地も良くなったか。屈んで待ち構えた春海チュンハイの背中に、破浪ポーランが背負い子と偉浪ウェイランを乗せてくれる。


「ありがとう春海チュンハイ。きみにはどんな言葉でも、お礼をしきれない」

「そんなことないわ。私がかけてしまった迷惑こそ、どうしたって消せないもの」


 いつか、三人ともに含むところなく笑い合うことができようか。

 これからの新しい、そして長い年月の始まりを感じた。


金魚ジンユ。あなたは?」

「私はここへ残ります。冥土へ戻るのに近いですからね」


 多少、冗談のつもりがあるのかもしれない。破蕾ポーレイの名を出さなかった彼女に感謝し、別れを告げる。


「纏め髪のやり方を教えてもらいたかったわ」

「ああ、そうでしたね。またいつか」

「またいつか」


 すらとした長身を伸ばし、金魚ジンユは笑む。変わらず儚げではあったが、泣き出しそうな印象は失せていた。


 小龍シャオロンを乗せても、ガラガラと調子良く回る棺桶の車輪。曳く男の背だけ見つめ、振り返ることをしなかった。


 杭港ハンガンへ来て。迷宮へ潜って。何も成すことができなかった。

 振り向けば春海チュンハイこそ、ここへ残ると言ってしまう。


(どんなに恥ずかしくても、破浪ポーランとお父様の傍に居るわ)

 せめてこの誓いだけでも貫くために。


 破浪ポーランも何も言わぬまま、十二階層へ上る。と、死の回廊の扉が開け放たれていた。

 そういえば戻れなくなっていたのだった。すっかり忘れていたが、これなら普通に歩いて行ける。どうやら屍鬼の姿もない。


 先頭を行く破浪ポーランの歩みはもちろん慎重だったが、何ごともなく回廊を抜けた。


 しかしその先、階段を下りたところへ座り込む誰かの姿がある。

 春海チュンハイより少し体格の良いくらいの、僧服を着た男。


「知っている人?」

「いや、深層へ潜る連中には見ない顔だよ。構わず行こう」


 密かに話し、進む。

 彼の口調に警戒の雰囲気があった。背負い紐をしっかりと握り直し、僧服の男を横目に盗み見て。


「まあまあ、そう怪しむな」


 ちょうど真横の位置で、男は言った。若者のようにも年寄りのようにも聞こえる声、おかしな抑揚で。


 破浪ポーランは抱えようとした棺桶を慌てて置き、春海チュンハイの男の間へ割って入る。


「待って破浪ポーラン。私、この方を知っているかも」

「そうなのかい?」


 そう言っても、彼は警戒を解かない。自身も後退りながら、春海チュンハイと男との距離を広げる。


「察しの通り」


 男は言った。三十歳前後と見える顔は、見覚えがあるようなないような。皇都の僧院に居たと言われれば信じたが、名前は出てこない。

 いや、居たはずがないけれども。


「あの。察したと言っても、お三方のどなたかは」

「良い良い、些細なことよ。人間の道にあり得ぬことを成した。その者の顔を見たかったのだ」

「すると——生徳神シィドでしょうか」


 鬼徳神ゲドと同じ話し方で、もしかするとと思っただけだ。さらには人間の道の在り方が云々と言うなら、生徳神シィドの役割りと。


「然り然り」


 男はにこやかで、機嫌良く酔っ払っているようにも見える。

 だがそれなら、整って話す言葉はあり得ぬものだ。


「さて我の目的は、お前と話すことそのもの。しかしついでに、教えてやれることもある」

「それは?」

鬼徳神ゲドの勝手を、我らは良しとせぬ。ゆえに少しばかり、人間の先行きを延ばした」


 それはまさか。耳を疑い、破浪ポーランに目を向けた。彼もまた、丸くした目でこちらを見る。

 改めて同定する必要もない。聞いた言葉は、同じものだ。


「さ、先行きを延ばすとは、いかほどでしょう」

「そこまでは教えられぬ。しかしまあ、努めて生きよと言っておこうか」


 人間が滅びる運命は、先延ばしにされた。眼前の男がただの人間で、酔狂を言っていることはあり得ない。事実を知るのは、他に黒蔡ヘイツァイ一家しかないのだ。


「あ、ありがとうございます!」

「なんの。人間の自ら起こす奇跡というものを、見せてもらった礼でもある。春海チュンハイ、お前の手柄と誇っていい」


 最拝礼の頭上に、信じられぬ言葉が降った。信心など意味がないと、投げ棄てたことを悔やむ。


「ついでのついでだが、少しばかりの土産も用意した。幾つあるかは教えてやらん。努めて探せ」

「は、土産でございますか」


 探せと言うからには、ここで渡してくれぬのだろう。さらには手で触れられる物のはず。

 何であれ、神に似合わぬ遊び心の利いた計らいだ。疑うでもないが、俄に信じられぬ思いで顔を上げた。

 だがそこに、男の姿はない。

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