第101話:破蕾の遺すもの

『血から血へ、道を開く。そこへ私が在るように、神力を置く』


 神へ祈るための言葉。腹を撫で、内にある異物の感触をたしかめる。

 大雨の時の土のうに似ていた。そう、偉浪ウェイラン破浪ポーランが決壊せぬように置くものだ。


『お母様の。破蕾ポーレイの意思に添い、穢れなき形を』


 いったいどれだけの人間を喰らってきたか。鬼徳神ゲドの指示を果たし続けた人形と、その光景を見届けさせられた破蕾ポーレイを想う。


 まだまだ未熟者の自分が、どんな感想をも挟めない。と考えるのに、涙が溢れた。


(お疲れさまでした)

 心の底から湧き出る言葉を念じるくらいは許してほしい。決して声に出さぬよう、密かに胸へ浮かべた。


浄霊ジンリン


 手にした祝符を発動させる。

 中で誰か、手足を突っ張っているのでは。などと思えるくらいにはちきれそうな腹が、すっと軽くなった。


 どうやら腹を割く必要はないらしい。どころか、吐き気に類するものもなかった。

 胃の奥から、喉を僅かに押し広げ、温かな何かがこみ上げる。


 春海チュンハイのしたことと言えば、出口となる唇を上下に開いただけ。

 芳しい桃の香をした、黄金の吐息が目の前に広がる。


「——春海チュンハイ


 金色の靄が砂山を覆う。表面から、雪の融けるように嵩を減らす。

 ゆったりと進む光景を眺めていると、破浪ポーランの手が肩へ置かれた。後ろから、左右の両方に。


「うん、何ともないわ」

「良かった」


 案じてくれる彼の手に、自分の手を重ねた。平気だと伝えると、破浪ポーランの両腕に包み込まれた。


 暖かい。これ以上、何を言えばいいか分からず、腕に頬を預ける。するとほんの少し、彼の腕に力が増した。


「人の形に……」


 間もなく、破浪ポーランが呟く。言う通り融け残った砂が、人間の頭からつま先までを形作る。


 破蕾ポーレイの屍を返してくれるのか。それならきっと、長年に渡ったこの父子の思いも報われるはず。

 単純に良かったとも言えまい。しかし今日から改めて弔うことで、ずっと空きっぱなしだった穴も埋まるだろう。


 と、心を弛めたのは早計だった。


「誰なの」

「母さんじゃない」


 造形を細かくしていく砂の彫刻は、明らかに大きかった。

 垣間見た破蕾ポーレイは女性として長身だったが、問題にならぬほど背が高い。


 また肉付きも到底、女ではなくなった。むしろ破浪ポーランよりも隆々として見える筋肉をした、戦う男の姿が顕れる。


「まさか——」


 肌の色の濃い、禿げ頭。漬物石に似た丸い顔。ただ眠っているだけに見える顔を、他の誰かと間違うことはない。


小龍シャオロンだ。春海チュンハイ、小龍だよ!」


 九割九分、驚きの色で破浪ポーランは叫んだ。薄れゆく靄へ近寄るのに、春海チュンハイの小部屋を解体したのも仕方がない。


小龍シャオロンも……」


 先に死んでしまったことをうまく言っておいてくれと、飛龍フェイロンに頼まれた。

 どんな言葉にするか考える必要はなくなったが、弟まで見送る羽目になるとは思わなかった。


(弔えるだけ、良かったと言うべきなんでしょうね)

 破蕾ポーレイはなぜ、彼女の形見でなくこの男の屍を遺したのだろう。

 望むべくもないことだったが、代わりにとなると意味が違ってくる。


春海チュンハイ、来てくれ」

「もちろんよ」


 破浪ポーランの声は震えた。友の死を目の当たりに、先よりも動揺が強くなったかもしれない。


 何もしてやれないが、寄り添うくらいはしてやろう。長年の友だった彼のほうが、きっと自分よりも悲しいはずだ。

 両膝を突く破浪ポーランの隣へ、両手を合わせて座る。


大癒ダァユを使ってやってくれないか? かなり衰弱してる」

大癒ダァユを?」


 既に死んだ者へ、どんな神通力も意味を成さない。そうと知った上で気休めと言うなら、それはそれで意義のあること。


 だが彼は、衰弱していると言った。

 それはどうも話がおかしい。辻褄の合う返答は、一つしか思いつかない。


「生きてるの——?」

「ああ、死にそうなんだ。傷は見当たらないけど、このままじゃ危ないだろ?」


 破浪ポーランの動揺は、瀕死の友へのものだった。

 目の前で起きている事実に、理解が追いつかない。けれども触れてみると、たしかに弱々しい息をしていた。


「ええ。でも大癒ダァユは傷を治す術で——」

「どうにかならないか」

「ええと……」


 黒蔡ヘイツァイの用いた心癒シェンユというのが、こういう時に使うものだろう。

 だがまったく知らぬものは真似のしようもなく、どうしようもなかった。


春海チュンハイ。私は既に過去のもの。まだ若い、あなたたちの友人のほうが大切でしょう?」

「お母様!」


 また破蕾ポーレイの声が聞こえた。破浪ポーランには聞こえないようで、春海チュンハイの視線を辿ってきょろきょろと見回す。


「あなたの念珠も勝手に使ってしまったわ。でも大丈夫。私の夫と息子は、人ひとりを外へ連れ出すくらい慣れたもの。この若者も、それに耐えるくらい強い人よ」


 言われて、己の胸を見下ろす。そこに大念珠は変わらずあった。しかし触れると、蒸気のごとく散って消えた。


「わ、分かりました」


 何がどうなったかは分からない。けれどもこれからどうすべきかは明白だ。


「お母様が、自分より小龍シャオロンのほうが必要だろうって。地上へ戻るくらい、耐えられるって」

「母さんが?」


 彼に破蕾ポーレイの声が聞こえていないのなら。言うことの二転三転する春海チュンハイを信じられぬかもしれない。


(私なら、どういうことよって詰め寄るかも)

 案じる春海チュンハイを前に、破浪ポーランはすぐさま答える。


「分かった、帰ろう」

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