第100話:最後に一つ
「帰ろう」
しばらくが経ち、ぽつと
「でも」
「あのまま。為すがままでいれば、みんな死んでた。こうしてきみと話せるのは、その結果だよ。だから、これ以上のことなんてない」
ほっと気持ちの緩む自分が許せない。許してはいけなかった。
「だって私が嫌だと言ったの。
地面にへたり込み、殴りつけた。地上と同じ赤黒い土が、指の形に凹む。
「無責任ってのは、さっきのきみの言葉通りだよ」
大きな手が、砂山の赤い部分を選って握る。それはすぐさま、遠くへ放られた。色のなくなるまで、何度も。
「赤も白も、手の感触じゃ区別がつかない。こんな人形を使って、思いのままにしようとして、うまくいかないから投げ出す。そういう奴のことさ」
彼の優しさを否定したくなかった。だが見通しも曖昧に啖呵を切った事実は、いかんともしがたい。
「だって——」
「きみが嫌だと言わなくても、俺が断った。
あんな啖呵に意味はない。納得はしないが、「うん」と頷く。でなければ彼は、いつまででも慰めてくれようから。
「お父様、申しわけありません」
どれだけ謝っても釣り合うことはない。他に話しかけようを思いつかず、これから百万も繰り返す最初として言った。
その目に力強さは残っている。しかし今は、じっと砂山に向けられた。
(終わらせてしまった。私が)
望みを抱え、迷宮へ潜る日々のほうが幸福ではなかったか。そう思えてならないが、僭越な考えとも自覚している。
せめて何かできないか。あの砂山を持ち帰り、埋葬するのはどうだろう。名案のようなものが浮かび、
喜んで見せては——いや本当に喜んでくれるかもしれない。しかしあまりに汚された最期を思い出す、標ともなるだろう。
もし持ち帰ると父子が言うなら、むしろ止めるのが責任かもしれなかった。
「あ——」
ふと気づく。物質的なものが駄目なら、精神的なものはどうか。
「
姉を頼むと強く願う彼女なら、何か良い案を思いつくかもと思った。これも他人任せと呼ぶのかもしれないが、結果の伴わぬより万倍もましだ。
「何か?」
答えた。
艶やかな紅色の着物を纏う、迷宮の入り口で見たままの
驚き、声の出ぬまま口を開け閉めした。すると彼女は悲しげに笑む。
「ここはもう
「えっ、あ。そうなの? ええと」
女の目にも、儚く美しい。自分の姿を嫌ったことはないが、もしも自由に作り変えて良いとなったら参考にしたい。
「お母様はどこ? もう冥土へ連れ戻されたのかしら」
「そこに居ます。消えかかって、あなたの目にも映らないようですね」
長く白い指が砂山を示した。
「まだいらっしゃるのね。どうにかお父様と、少しでも話せないかしら。言葉でなくてもいいから、何か」
魂だけの存在に何ができるか、僧の
それが図々しい、大それた希望とは知っている。だから話すだけでもと、
「——難しいようです」
砂山に向き、
難しいとは、そのままの意味か。消えかかって、話すこともままならないと。
そうではないように感じたが問うにはむごいし、質しても意味がない。
(何かないの? この機会を逃せば、お母様と
いつまでと示されたでもない刻限が、焦りを呼んだ。それは三つほども数えた、僅かな先かもしれないのだ。
(できることがあるはずよ。私にだって)
一つずつ、持ち物を地面に並べた。一度に放り出したいのを堪え、吟味しつつ。
解毒と大癒、浄霊の祝符。
「お母様は。魂はそこにいらっしゃるのね」
「ええ。早く地上へ帰せ、と私が叱られています」
苦笑しているが、冗談でもないらしい。「勝手ばかり言ってごめんなさい」と、心から詫びる。
「でもやっぱり、このままお別れって悲しすぎるわ。勝手ついでに、もう一つだけやらせてください」
この迷宮を訪れて、あまりに多くのことがあった。その中で初めて行った、ゆえに勝算はある。
「
「きみのすることだ、文句はないよ。でも何をするつもりか、教えてくれると安心できる」
「あなたの破れた着物に、その砂を掬ってもらえる?」
父子のどちらかでも否と言えば、当然に取りやめる。ただし説明をするのに、途中まで進めたほうが話しやすい。
「この砂はもとを辿れば、お母様の屍。あなたの着物に染みた黒色は、お母様の血」
「……うん」
両手分の砂を目の前に置き、
ここまででも大まかな意図は察せたのだろう。「でも」と続いた。
「まさか母さんの屍を取り出そうって言うのかい?」
そんなことができるのか。さすがに見たことのない、疑いの表情が浮かぶ。
どうやって行うかを知れば、さらに珍しい顔を見られるはずだ。
「いえ、それはお母様次第」
「ええ?」
「この広間に、お母様の魂もいらっしゃるわ。あなたとお父様にどんな形見を遺したいか、選んでいただくの」
人形が喰らったのは
その中から遺品に相応しい物を与えてもらおう。そう言うと
「きみに無理はかからないね?」
「ええ」
とは嘘だ。何を取り出すかにもよるが、場合によって
しかし大癒の祝符がある、問題はない。
「
「分かったと」
すぐさま答えがあり、
「父さんは意地を張って、要らないって言うよ。でもそれは、これからずっと悔やむことになる。俺もね」
「うん、勝手を聞いてくれてありがとう」
自分を含めたそれぞれの決心が鈍らぬうち、
白い砂を包む
どれだけあれば足りるかは分からない。丸めて置いたものが、やはり両手にいっぱいとなるくらいを拵えた。
「じゃあ、始めるわ。まず、この着物と砂を食べるわ」
「たっ、食べる?」
「ええ、腹の中で祝符を作ったのと同じ。神通力の壺が他にないもの」
押し寄せる蟲の大群を退けた時と同じだ。単に術を用いるのでは、これほどの
彼がやめろと言えば、そこまでのつもりだった。しかし数拍の沈黙を持って、
「ありがとうと言えばいいか、悪いと言えばいいか——とにかく頼む」
「ううん、ありがとう」
彼の苦悩に報いる機会をくれた。そのことに礼を言い、すぐさま手を動かす。
斑に黒い麺、ではなく紐。数多の屍を取り込んだ白い砂。由来に目を瞑っても、どちらも乾いてなかなか喉を通らない。
嗚咽し、涙の零れることが申しわけなかった。悲しいのでなく、臓腑の受け付けぬものを飲み込むのが苦しい。
——どれだけの時間を使ったか。体感として半日ほどで、目の前に置いた半分ほどを飲み込んだ。
見当違いのことをして、
などと後悔もしたが、途中で投げ出しはしない。
(あと半分)
自身を勇気づけ、奮い立たせる。その耳に誰かの囁く声がした。
「
先に聞いたより弱々しいが、間違いなく
遺品を選ぶ当人の言葉に逆らうことはしない。
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