第100話:最後に一つ

「帰ろう」


 しばらくが経ち、ぽつと破浪ポーランが言った。白蔡パイツァイの背が見えなくなってから、どれくらいか定かでないけれど。


 破浪ポーランの声は大きくなかったが、他に音のない広間にはっきり響いた。彼自身、その言葉で区切りを付けたのかなと思えた。


「でも」

「あのまま。為すがままでいれば、みんな死んでた。こうしてきみと話せるのは、その結果だよ。だから、これ以上のことなんてない」


 破蕾ポーレイのこと、人間が滅ぶということ。言おうとしたどちらもを遮り、これでいいと彼は慰めた。

 ほっと気持ちの緩む自分が許せない。許してはいけなかった。


「だって私が嫌だと言ったの。鬼徳神ゲドはきっと分かってくださると思ったから。でも駄目で、ごめんなさいと言ったって済まないわ。無責任なのは私」


 地面にへたり込み、殴りつけた。地上と同じ赤黒い土が、指の形に凹む。


「無責任ってのは、さっきのきみの言葉通りだよ」


 大きな手が、砂山の赤い部分を選って握る。それはすぐさま、遠くへ放られた。色のなくなるまで、何度も。


「赤も白も、手の感触じゃ区別がつかない。こんな人形を使って、思いのままにしようとして、うまくいかないから投げ出す。そういう奴のことさ」


 彼の優しさを否定したくなかった。だが見通しも曖昧に啖呵を切った事実は、いかんともしがたい。


「だって——」

「きみが嫌だと言わなくても、俺が断った。春海チュンハイのためにならともかく、みんなのためになんて御免だ」


 あんな啖呵に意味はない。納得はしないが、「うん」と頷く。でなければ彼は、いつまででも慰めてくれようから。


「お父様、申しわけありません」


 どれだけ謝っても釣り合うことはない。他に話しかけようを思いつかず、これから百万も繰り返す最初として言った。


 偉浪ウェイランは答えず、地面に投げ出した手から銅塊を手放す。

 その目に力強さは残っている。しかし今は、じっと砂山に向けられた。


(終わらせてしまった。私が)

 望みを抱え、迷宮へ潜る日々のほうが幸福ではなかったか。そう思えてならないが、僭越な考えとも自覚している。


 せめて何かできないか。あの砂山を持ち帰り、埋葬するのはどうだろう。名案のようなものが浮かび、かぶりを振る。


 喜んで見せては——いや本当に喜んでくれるかもしれない。しかしあまりに汚された最期を思い出す、標ともなるだろう。

 もし持ち帰ると父子が言うなら、むしろ止めるのが責任かもしれなかった。


「あ——」


 ふと気づく。物質的なものが駄目なら、精神的なものはどうか。

 春海チュンハイの目に破蕾ポーレイの魂は見えない。が、まだ諦めるには早い。


金魚ジンユ


 姉を頼むと強く願う彼女なら、何か良い案を思いつくかもと思った。これも他人任せと呼ぶのかもしれないが、結果の伴わぬより万倍もましだ。


「何か?」


 答えた。

 艶やかな紅色の着物を纏う、迷宮の入り口で見たままの金魚ジンユが。

 驚き、声の出ぬまま口を開け閉めした。すると彼女は悲しげに笑む。


「ここはもう鬼徳神ゲドの拵えた偽の場所ではなくなりました。じきに私も、冥土へ引き戻されるでしょう。話すなら、お早く」

「えっ、あ。そうなの? ええと」


 女の目にも、儚く美しい。自分の姿を嫌ったことはないが、もしも自由に作り変えて良いとなったら参考にしたい。


 破蕾ポーレイとはあまり似ていない。けれどもどことなく、姉妹と感じさす風が吹く。


「お母様はどこ? もう冥土へ連れ戻されたのかしら」

「そこに居ます。消えかかって、あなたの目にも映らないようですね」


 長く白い指が砂山を示した。春海チュンハイだけでなく破浪ポーランの視線も当てなく辺りを彷徨う。


「まだいらっしゃるのね。どうにかお父様と、少しでも話せないかしら。言葉でなくてもいいから、何か」


 魂だけの存在に何ができるか、僧の春海チュンハイにも分からない。ただ金魚ジンユを見ていると、形見の一つも与えてくれそうに思える。


 それが図々しい、大それた希望とは知っている。だから話すだけでもと、破蕾ポーレイの意思を知りたくて言った。


「——難しいようです」


 砂山に向き、金魚ジンユは何やら話していた。生きた者の耳に届く声はなかったが。


 難しいとは、そのままの意味か。消えかかって、話すこともままならないと。

 そうではないように感じたが問うにはむごいし、質しても意味がない。


(何かないの? この機会を逃せば、お母様とまみえるなんて二度とないのに)

 いつまでと示されたでもない刻限が、焦りを呼んだ。それは三つほども数えた、僅かな先かもしれないのだ。


(できることがあるはずよ。私にだって)

 一つずつ、持ち物を地面に並べた。一度に放り出したいのを堪え、吟味しつつ。


 解毒と大癒、浄霊の祝符。偉浪ウェイランから借りたままの短刀。他には天界の門シャンタンがあるのみ。


「お母様は。魂はそこにいらっしゃるのね」

「ええ。早く地上へ帰せ、と私が叱られています」


 苦笑しているが、冗談でもないらしい。「勝手ばかり言ってごめんなさい」と、心から詫びる。


「でもやっぱり、このままお別れって悲しすぎるわ。勝手ついでに、もう一つだけやらせてください」


 この迷宮を訪れて、あまりに多くのことがあった。その中で初めて行った、ゆえに勝算はある。


 破蕾ポーレイが何と答えたのか。金魚ジンユは困ったという顔で、どうにか首肯めいて首を動かす。


破浪ポーラン、勝手をしていいかしら」

「きみのすることだ、文句はないよ。でも何をするつもりか、教えてくれると安心できる」

「あなたの破れた着物に、その砂を掬ってもらえる?」


 父子のどちらかでも否と言えば、当然に取りやめる。ただし説明をするのに、途中まで進めたほうが話しやすい。


「この砂はもとを辿れば、お母様の屍。あなたの着物に染みた黒色は、お母様の血」

「……うん」


 両手分の砂を目の前に置き、破浪ポーランは神妙に頷く。

 ここまででも大まかな意図は察せたのだろう。「でも」と続いた。


「まさか母さんの屍を取り出そうって言うのかい?」


 そんなことができるのか。さすがに見たことのない、疑いの表情が浮かぶ。

 どうやって行うかを知れば、さらに珍しい顔を見られるはずだ。


「いえ、それはお母様次第」

「ええ?」

「この広間に、お母様の魂もいらっしゃるわ。あなたとお父様にどんな形見を遺したいか、選んでいただくの」


 人形が喰らったのは破蕾ポーレイの肉体だけでなく、身に着けていたあれこれと共にだ。

 その中から遺品に相応しい物を与えてもらおう。そう言うと破浪ポーランは、慎重に頷いた。


「きみに無理はかからないね?」

「ええ」


 とは嘘だ。何を取り出すかにもよるが、場合によって偉浪ウェイランの短刀を用いねばならない。

 しかし大癒の祝符がある、問題はない。


金魚ジンユ。お母様はどうかしら」

「分かったと」


 すぐさま答えがあり、破浪ポーランは父親を眺めた。けれど何を言うこともなく、「頼む」と。


「父さんは意地を張って、要らないって言うよ。でもそれは、これからずっと悔やむことになる。俺もね」

「うん、勝手を聞いてくれてありがとう」


 自分を含めたそれぞれの決心が鈍らぬうち、春海チュンハイは短刀を握った。

 白い砂を包む破浪ポーランの着物を、細い麺のように裂いていく。


 どれだけあれば足りるかは分からない。丸めて置いたものが、やはり両手にいっぱいとなるくらいを拵えた。


「じゃあ、始めるわ。まず、この着物と砂を食べるわ」

「たっ、食べる?」

「ええ、腹の中で祝符を作ったのと同じ。神通力の壺が他にないもの」


 押し寄せる蟲の大群を退けた時と同じだ。単に術を用いるのでは、これほどのわざはこなせまい。


 彼がやめろと言えば、そこまでのつもりだった。しかし数拍の沈黙を持って、破浪ポーランは呻く。


「ありがとうと言えばいいか、悪いと言えばいいか——とにかく頼む」

「ううん、ありがとう」


 彼の苦悩に報いる機会をくれた。そのことに礼を言い、すぐさま手を動かす。

 斑に黒い麺、ではなく紐。数多の屍を取り込んだ白い砂。由来に目を瞑っても、どちらも乾いてなかなか喉を通らない。


 嗚咽し、涙の零れることが申しわけなかった。悲しいのでなく、臓腑の受け付けぬものを飲み込むのが苦しい。


 ——どれだけの時間を使ったか。体感として半日ほどで、目の前に置いた半分ほどを飲み込んだ。


 見当違いのことをして、破浪ポーランに呆れられているのでは。偉浪ウェイランが怒っているのでは。

 などと後悔もしたが、途中で投げ出しはしない。


(あと半分)

 自身を勇気づけ、奮い立たせる。その耳に誰かの囁く声がした。


春海チュンハイ。なりふり構わないあなたの覚悟、恐れ入りました。すぐに立ちなさい。人形の砂山に、飲んだものを振りかけなさい」


 先に聞いたより弱々しいが、間違いなく破蕾ポーレイの声。

 遺品を選ぶ当人の言葉に逆らうことはしない。春海チュンハイは直ちに立ち上がる。

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