第98話:信じる

「お母様は……」


 気がかりが一つ。

 人形にも自我のようなものがあり、長い年月の間に破蕾ポーレイの自我を食い尽くそうとしている。


 ならば修復の間も与えぬほどひと息に人形を消し飛ばせば、他に寄る辺を持たぬ人形の自我も消滅するに違いない。

 ただしそれは、破蕾ポーレイも同じでないか。


 持っていかれたという屍が残っているなら、人形を滅ぼすのは破蕾ポーレイを切り離す作業だ。

 しかしその事実の、たしかめようがない。


「おい女」

「はっ、はいっ」


 これと決めても、なおグズグズと。焦る耳に威圧の利いた低音が届く。

 答え、振り向く。すると抱き合う寸前の距離に偉浪ウェイランは居た。


「お前、こいつで何をするつもりだ」


 ごつごつとした大きな手が首もとへ伸びる。「あっ」と声を出した時には、大念珠を奪われていた。


「それは——」

「大昔の話だ。無茶をした賞金稼ぎが、冗談みてェに強い魔物と出くわした。連れの僧が、今のお前と同じツラをしてやがった」


(ご存知なのね)

 神通力は外へ発しても、いずれ戻ってくる。用いた術が大きければ、すぐに大きな反動がある。

 この人形ほどの屍鬼を滅ぼす術は、きっと春海チュンハイをも滅ぼす。

 そうと知っているなら、返してはくれまい。


「その僧は魔物と仲良く、跡形もなく消し飛んだがな」

「……ええ」


 諦め、頷く。偉浪ウェイランの舌打ちが耳に痛かった。


「生き急ぐんじゃねェ。あの馬鹿どもが残らずやられちまって、どうしようもなくなったら試してみりゃいい」


 あからさまな、からかう口調。破浪ポーラン黒蔡ヘイツァイ一家を眺める視線は、正反対を向く。


「中でもとびきりの大馬鹿野郎だがな、やるときゃやるんだ俺の息子は。親父と違って、嫁を泣かせもしねェ」


 いつも何が気に入らないのだろう。十も二十も不満を噛み潰した顔で、偉浪ウェイランは「へっ」と笑声を落とした。

 そして奪った大念珠を、また春海チュンハイの首へ戻す。


「もう少しだけ、あいつを信じてやってくれ。なァ春海チュンハイ


 結ばれた唇が、言うことはもうないと示した。無論、彼の父親にこれだけ言われて否はない。

 言葉に含まれた、たくさんの意味に溺れていなくともだ。


破浪ポーラン!」


 大念珠を放し、両手を合わせた。

 呼びかけては邪魔になる。ちらと向いた視線に、よそ見をするなと言いたくなる。

 分かっていても、言わずにおれない。


「信じてる!」


 だからなんだ、と烏鴉ウヤが言うだろう。春海チュンハイ自身、今でなくてもと思う。

 しかし彼のためでありながら、それだけでなく。己の心の方向を変えるのに必要だった。

(これから私の信じるのは、あなたなの)


「おおおおっ!」


 上がったのは雄叫びで、答えはない。

 ただフォウと見紛う機敏さで跳ね、人形の足を掬う。転倒はさせられないが、体勢を保つのに反対の足を踏み出させた。

 そこへ白蔡パイツァイの錘が降り注ぎ、大腿部分を圧し折る。


「あの阿呆、はしゃぎやがって。おい犬ころ、手本を見せてやってくれ」

「ウォッ」


 首を傾げた赤犬に「な?」と声が低まる。渋々といった面持ちで、フォウ破浪ポーランのところへ走った。


 黒犬と赤犬が二匹並び、人形の手出しを誘う。折った脚もすぐに再生したが、また白蔡パイツァイが砕く。

 何度も、何度も、何度も。

 どれだけ続こうが、根気の勝負とでも言うように繰り返す。

 

 魔物とまで呼ばれる獣と同等に駆け回る男。金属鎧も突き通す人形の身体を、確実に割る男。

 人の言葉を解し、手伝ってくれる獣。愛する息子の戦いやすいよう、援護に徹する夫婦。


「みんな、お願いします——」


 祈ることしかできなかった。これでいいとは言えないが、待つことが信じることと思った。


 やがて。


「おおぅぉぉおぁおぅおぉぅ」


 不気味な呻き声に、全員が距離を取る。むせび泣くような、はらわたを吐き出すような、心地よさとは対極の音色が長く。


「おい」


 この場の人間の誰も、警戒の面持ちから声を発することはない。一人を除いて。


「……崩れるぜ」


 偉浪ウェイランの声が合図のように、それでものろのろと動いていた人形が止まった。


 弾ける。

 水を足せば饅頭を捏ねられるほど、細かな粉末となって崩れ落ちた。白い煙が広がり、それもすぐに落ち着く。

 あとには二、三人がすっぽり潜れるような砂山が残る。

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