第97話:見えぬ先行き

 牙がなく、すぐに死んでしまいそうと思った。だから赤い蛇を拾い、共に歩いた。

 むしろ見せびらかすように、折れた牙を打ち鳴らす。だからファンと呼び、共に飯を食った。


 そんな相手が噛み砕かれる様を直視する勇気がない。

 しかし薄く開いた瞼の隙間から覗く。見届ける責任があると思った。


 春海チュンハイの頭さえ砕きそうな顎が、音を立てて閉じる。けれども蛇はそこに居ない。

 人形が腰をひねり、躱したのだ。背後からの襲撃を。


フォウ春海チュンハイを」


 着地した赤犬が、庇うように立った。代わりに破浪ポーランの手が、するりと逃げていく。

 もう震えは止まった。が、遠ざかる背中を目で追うのは堪えられない。


 彼は人形の脚に組み付こうとした。やはり難なく躱され、反対の脚に蹴り飛ばされる。

 二回、三回と転がっていくのは、追撃を恐れたのだろう。人形の両腕が利かぬために、それはなかったけれども。


 七、八歩先まで行って、ようやく起き上がった。

 上の着物が裂け、あちこち絡んでいる。さすがに邪魔のようで、引き千切って投げ捨てた。


 鬼徳神ゲドと同じく、諸肌を脱ぐのか。そう思って目を背けかけたが、いまだ彼の半身は袖のない革の衣服に覆われていた。


「後ろだぁ」


 やたら大きな間延びした声。白蔡パイツァイが言ったのは分かるが、誰に向けてか。

 と、立ったばかりの破浪ポーランが、また横飛びに転がる。


 たった今まで彼の居た地面へ、長く白い槍が突き刺さった。

 いや、人形の腕だ。先ほど春海チュンハイを救った腕が、今度は破浪ポーランへ飛んだ。


 その腕に錘が叩き込まれ、目にも粉々に砕けるのが見えた。巨体を仰け反らせ、ばねを最大限に利かせた殴打が繰り返される。


心癒シェンユ


 また別の声。今度は春海チュンハイのすぐ後ろで。

 偉浪ウェイランの寄りかかる棺桶の脇。横たわった烏鴉ウヤを神通力の光が伝う。


 見たことも聞いたこともない、淡い碧の術。用いるのはもちろん黒蔡ヘイツァイ

 半ば抱きしめているのは、夫婦がゆえだろうか。砂の色をしていた頬に、赤みが戻る。


 するとすぐに烏鴉ウヤは立つ。「ありがとうよ」と、わざとらしく蓮っ葉な礼を言って。

 だが短い時間に二度も死にかけたのだ、足がもつれて倒れかかった。


「あっ、大丈夫ですか」

「大丈夫かどうかは問題じゃないんだよ。生きるのも死ぬのも、誰かのせいとは思いたくないんでねえ」


 差し出そうとした手は間に合わなかった。同時に立った夫のほうが早かった。

 ただ、黒蔡ヘイツァイの動きも精彩を欠いて見える。声にこそ出さなかったが、妻を引き起こす様が「よっこらせ」と言っていた。


 何歩か行けば、二人ともがまともに歩き始めた。それでも極度の疲労は間違いないはず。

 なぜそこまで、と問う必要はない。春海チュンハイ破浪ポーランの隣で戦えるなら、きっと同じようにした。


「何か——」


 人形の蹴りを誘い、ぎりぎりで躱す破浪ポーラン

 彼の作った隙に錘を打ち込む白蔡パイツァイ

 少しの間合いを空け、鎖と笞で動きを封じようとする黒蔡ヘイツァイ烏鴉ウヤ

 片時も油断を見せないフォウ


 誰もが人形に立ち向かっている。きっと終われば、皮肉の洪水が起こるのだろう。しかし今は、一つの目的に向かっている。


 唯一、百足を凌ぎきった偉浪ウェイランは息が整っていない。しかし守ると意気込んだ春海チュンハイが、逆に守られていたのでないか。


「私にできること」


 無力が恨めしい。あと数年も修行を重ねた後なら、もう少しは役に立ったろう。

 現実として、今は何もできない。何かする力、技が必要なのは今なのに。


「ねえ、教えて。私にしかできないことがあるの? 自分で見つけなきゃいけないのは分かる。でもそれじゃ間に合わない」


 膝を折って偉浪ウェイランを気遣う素振りの金魚ジンユに叫んだ。

 彼女は悲しげに笑み、分からないと首を横に振る。


「だってあなたが言ったじゃない。私、言いたいことだけ言って何もできない。このまま終わって、お父様にもお母様にも向き合えない。破浪ポーランの隣になんて居られない」


 金魚ジンユに何かの落ち度でもあるように責めた。

 分かっている。これは八つ当たりで、自分の役立たずが悔しいのだ。


 宥めてくれる彼女の手が冷たく、何も言えぬことを謝っているらしい唇の動きが淋しい。


白蔡パイツァイ、頭を!」

「任しとけえ!」


 人形には及ばぬまでも、偉丈夫と巨漢が挟み打ちを試みている。

(やっぱり、あの人形よね)


 見る間に、粉砕された腕が元の形へ戻った。本体へ絡めた鎖を解き、黒蔡ヘイツァイが封じに走る。


 その本体も、白蔡パイツァイの一撃ごとにどこかしらが崩れた。だがすぐに元通り、人形の優位が動かない。


「あの人形が在るうちは、鬼徳神ゲドとの話にもならないのね」


 あれを動かなくすれば、鬼徳神ゲドも態度を変えるかもしれない。

 そうでなくとも、破浪ポーランたちの体力がいつまでもは保たない。


(きっとこれが、私にしかできないこと)

 強く念じ、大きく息を吐いた。それから両手で、大念珠を握る。

 幼い頃から首にかけ、春海チュンハイの神通力を溜め込んだ大念珠を。

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