第95話:嘘と使命の境界

 何を言うどころか、思い浮かぶこともなかった。苦しい、とさえだ。

 首から上を巨大な手で押さえられたかの感触。血の色に満ちた視界の次は、耳に届く音も失われる。


 百足の殻、金属の武器。それらの悲鳴がやかましく聞こえた次、きゅっと絞りきるように消えた。春海チュンハイを取り巻く周り、世界との繋がりが閉ざされたかに。


 間もなく色も薄れ、命の底が見えた。

 灰色の砂嵐。春海チュンハイの生涯は、そんな光景で終わる……寸前。


「ぐぇっ! げほっげほっ!」


 激しく揺さぶられた。頭の中で、ぐわんぐわんと鐘が鳴る。

 この数拍で見たものを逆転し、百足ひしめく広間の光景が戻った。


「げえっ、うげぇっ」


 鈍重な頭痛と、喉を裂くような吐き気。だが、吐く中身がない。はらわたを雑巾絞りにする心地がして、手のひらに一杯ほどの胃液を撒く。


 焦点の定まりきらぬ視界。その中で目立つ、と言うより面積のほとんどを占める白い塊。


 意識を向けると、人形の腕と分かった。上腕の途中で本体から離れている。この硬い地面に貫手を突き刺し、斜めに立っていた。


 刺さる位置が少しずれていれば、射抜かれていたところだ。

 いや状況からするに、触れはしたのだろう。ほかに春海チュンハイを揺り動かすものがない。


 はっと気づき、喉を撫でる。

 しかし何もなかった。凄まじい力で締めつけられたと、凹んだ肌が知らすだけで。


 赤い影が、さっと動く。細く小さな蛇が遠ざかっていった。地面に伏して見える、近すぎる地平線。

 その彼方へ去る姿に、自然と手が伸びる。けれど引き戻した。


春海チュンハイしっかり!」


 近づく声と足音。狂わされた五感も、およそ正常に戻りつつある。背に差し入れられた太い腕が、破浪ポーランのものと間違いなく知れる。


「大丈夫、平気。うまいところへ飛ばしてくれたわ」


 半身を起こされ、震える指を人形の腕に向けた。


「いや俺じゃない。きっと母さんだ」


 対峙していた破浪ポーランを、人形は追ってこない。先の位置で足踏みをして、上半身を激しく前後に揺すった。


「戦ってらっしゃるの?」

「たぶん」


 両腕が健在なら、頭を抱えていただろう。地団太を踏み、ぐるぐると回る。明らかに人形は、こちらへの意識をなくしていた。


「あっ、ファンが」

「どこへ?」


 去っていった方向を探しても、小さな蛇の姿がない。赤い地面に赤い身体というせいもある。


 己の足で立ち、春海チュンハイは右回りに。破浪ポーランは左回りに視線を動かす。それでも見つからぬまま、互いの目が人形に合った。


「往生際の悪いことだ」


 少年の声。聞き覚えのある、おかしな抑揚。それはたしかに人形の方向から聞こえ、鬼徳神ゲドが人形へ降りたかと思った。


 違う。苦痛に歪む、爛れた肌をした女の顔。その脇に、ちょんと小さな蛇がこちらを見つめる。


 人形の後背へ、陽炎のごとく。青白い美丈夫が浮かぶ。変わらず諸肌を脱いだ姿で、面白くもなさそうににやり笑う。


「どちらでも良い。新たな狩り手となれ」


 もはや思惑を隠す気もないらしい。威圧の風でもなく、今日は何の茶葉を飲むかというくらいに選べと言った。


「神が直に手を下してはいけない。そうではありませんでしたか」

「直に? 我が自身の力を以て、お前たちに触れでもしたかな」

ファンを。その蛇を、ずっと私に付けていたではありませんか」


 荒らぐでもない声が怖ろしい。

 幼い頃、泣きじゃくった時のように声が震え、それでもはっきりと問う。そんな自分がどういう心持ちやら、春海チュンハイも不思議に思う。


「たしかに、しかしお前の護衛としてだ。退屈を紛らせこそすれ、指図の一つもなかったろうに」

「はい。たった今、首を締められた以外には」

「しょせんは獣よ。我の見ぬ間に、思わぬことをしでかしもしよう」


 支えようとする破浪ポーランの手を断り、自身の手をまた首へ添わせた。

 ありありと残る痕が、熱を持ち始めている。これをあの小さな蛇が、勝手にやったと言うようだ。


「神が謀りを口にしても良いのですか」

「蛇の思索など——」

「そうではありません、私に与えられた使命について。先刻お姿を賜った時にもお聞きしました。破浪ポーランを死なせねば、人間が滅びると」


 その実、迷宮の管理者を補充したかっただけではないか。

 神へぶつけるには乱暴が過ぎると、そのままは言わなかったが。高ぶり、頭に血の上るのはどうしようもない。


「そのどこに謀りがある」

「えっ。だって、お母様の魂が消えかけているから。その代わりが欲しいのでしょう?」

「いかにも」

「では滅びの件は——」


 破蕾ポーレイを地上へ連れ戻せば、何もかもが解決となる。

 その思い込みを否定するにも、鬼徳神ゲドは表情を変えない。


「一方の条件が立ったからと、なぜもう一方が退くと考える? 言ったはずだ、人間が生き延びようが滅びようが、我はどちらでも構わん」

「そんな……」


 語気を失う春海チュンハイと同調したように、もがいていた人形も動きを止めた。

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