第94話:鬼徳神の手

 低く足元を刈る人形の腕を、破浪ポーランは踏みつけた。が、直ちに追い打ちをする脚を捌くのに逃してしまう。

 話すことで邪魔をしているのでは。案じたところで、聞かぬ選択などない。


「心当たり?」


 それでも躊躇する気持ちが、窺う口調にさせた。

 ただ、励ましてくれる声もあった。


 首の後ろ。春海チュンハイの髪に紛れ、カカッと乾いた音が鳴る。皇都からずっと着いてきてくれる、蛇の友人が目覚めたらしい。


「俺を連れた奴が居る。十階層で分かれた後、まっすぐここまで」


 破浪ポーランと離れることとなって再会まで、三日ほどもかかったか。逃げ延びた彼の倒れていた時間もあるだろうが、二日前後は案内をした計算になる。


 遊山の旅でなし、そんな偶然はあり得なかった。何かの意図を持ち、狙って破浪ポーランを死地まで誘った。


 即ち鬼徳神ゲドの手による。そう考えて矛盾はないか、決めつけでないか考えたが、やはり間違いないと思えた。


「それは。でもそんなこと、誰が」


 連れた奴がという言い方で、すぐに思い浮かべたのは小龍シャオロン

 けれども黒蔡ヘイツァイ一家に連れられたと聞いていて、候補から消す。


 その黒蔡ヘイツァイ一家も同時にだ。となると残るは人間以外。

 魔物が? と首をひねりかけ、フォウに行き着く。しかしあれほど懐いていたのに、と納得とまではいかない。


「いや今は居ないし、どうしようもないけど」

「ううん。鬼徳神ゲドの息が直にかかっているなら、これから見つける意味だってあるわ」


 やはりそうだったのか。予想の的中したことが残念でならない。それでも項垂れる暇はなく、すぐに広間の出口へ視線を走らせた。


 数えるのも難しい百足の海と、波間に見え隠れする千の手。捜すのなら、あれを越えねばならないとは肝が冷える。

 だが手の空いているのは春海チュンハイだけだ。臆病に駆られた自身を戒め、叫ぶ。


「わ、私が捜してくる! あんな大きな子だもの、すぐよ。どうにか鬼徳神ゲドと話してくるわ」


 覚悟の萎えぬうち、天界の門シャンタンを運ぶために背負い袋を下ろした。

 その間に人形の手足が、何度襲っただろう。破浪ポーランはなるべく脚に構わず、残る左腕を押さえたいようだった。


「大きい?」


 ゆえに、なのか。問い返すのに、若干の間があった。

 大きいと言ったのに疑問があるなら、フォウではないのかもしれない。いかに破浪ポーランが長身でも、あの赤犬を大きくないとは言うまい。


「いや、かなり小さいだろう? あの蛇は」


(蛇?)

 一瞬、疑問を浮かべるだけの間はあった。ぞくっ、と悪寒に震えるのも。


「くっ、くかっ……!」


 まさかそれは、と問う時間は与えてもらえなかった。声もまともに出せぬほど強く、首が絞まる。


 怖気に従い、払い落とそうとはしたのだ。考える前に、身体が勝手に。

 それも間に合わず、襲われた。細い体躯が音を立てて締まり、指を挟む隙間もない。


「あ……ぐ……」

春海チュンハイ?」


 呻く声が聞こえたのか、破浪ポーランが振り向く。人形と対峙しつつだ、瞬間にも満たぬほど僅かに。


春海チュンハイ!」


 人形の脚を空かし、同じ軌跡の貫手に頬を裂かれ、彼は叫ぶ。

 しかしこちらを向くことは叶わない。


 膝立ちでいた春海チュンハイも、見ていることができなかった。

 吸う息がまったく足りない。薄墨色の景色が朱に変わっていき、朦朧と地面に倒れた。

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