第92話:断罪

鬼徳神ゲド、どうかお言葉を。鬼徳神ゲド!」


 何度繰り返しても、天界の門シャンタンに変化はない。

 どうにも徒労の気がしてくる。そもそも留守の家の戸を叩くような。


鉄槌ジィジュウ


 まさかこの門と、神の世界との繋がりが断たれたのか。たしかめるのに、人形の胸へ術を放つ。

 白い小さな光球が飛び、あっけなく弾ける。


 試み程度。練った神通力に相応しい、正しい結果と言えた。

 祈りは通じている。生命の泉ホゥチュアンから人界を見下ろす神々に、嫌われたのではなさそうだ。


 始徳神サイド生徳神シィド終徳神スゥドが顔突き合わすのをこの目に見たわけでない。

 だが父に教わり、経書で読んだままを鬼徳神ゲドも言った。


 洒掃の釜チンリィフゥからも地上を覗けるのか。

 清めの炎を点く、火打ち石を両手にした鬼徳神ゲドの姿を思い描く。


(……あの時、どうして?)

 父はさておくとしても、経書は偉大な先人たちの残した物だ。その上に神そのものと会い、疑う事柄などこれっぽっちもなかった。


 しかし改めて思うと、一つ引っかかる。

 いや、神の世界を垣間見ただけだ。人間の自分には理解の及ばぬ何かがあるのかもしれない。


 そう思い込み、祈りを続ける。

 だがやはり、届いている気がしなかった。神通力を用いた時の、神と繋がる感覚がすっぱりと消えてしまう。

 まるで鬼徳神ゲドの側から、見えない壁で塞がれているように。


「まさか」


 内に湧いた推測が形を成す前に、否定の言葉で打ち消した。何をとも考えず、畏れ多いと自信を戒める。


「父ちゃん、どうした!」


 白蔡パイツァイの慌てた声。咄嗟に目を向け、危うく千の手を見るところだった。

 俯き加減に盗み見ると、黒蔡ヘイツァイの足が止まり、呆然と立ち尽くす。


リージャン……」


 ここには居ない誰かの名を、うわ言のごとく。信じられないという驚き混じりなのが、声の調子だけでも分かる。


「父ちゃん危ねえ!」


 雑草を刈るように。大鎌と見紛う長い脚が、黒蔡ヘイツァイを巻き込んで振るわれた。

 と。たった今までそこへ居た地面に、赤黒い塊が飛び込む。


 長く硬い大顎が地面を打ち、火花を上げる。同時に「きえぇぇ」と、覚えのある啼き声もした。

 百足だ。浅層で出遭ったのと同じく、人間の顔を持つ。

 転がる黒蔡ヘイツァイはのそり立ち上がり、唾を吐く。


「馴染みを連れてくるなんて、気の利いたことをしてくれるじゃあないかい」

「父ちゃんの友達か?」


 問うより先、唸る錘が百足を吹き飛ばした。二匹纏めて。

 窺う口調の息子に、背を丸めた父親は「ハッ」と答えた。


「ケンカ別れした奴と再会するとかね、死んだ奴がまた起きてくるのと変わりないさ。まやかしだよ」


 低く笑い、黒蔡ヘイツァイは鎖の先を握る。二つ折りにし、それを振り回した。

 硬い百足の殻が、煎餅のごとく罅割れる。

 ただ、百足は次々と数を増した。


「まったく、忙しいったらありゃしない。今日はとびきりの厄日だね!」


 突出した百足を黒蔡ヘイツァイが砕き、追いつかぬものは白蔡パイツァイが弾き飛ばす。


 流れ作業のような中、巨漢の戦士は父の軽口に答えなかった。

 代わりに、手を止めて破浪ポーランを眺める。それはほんの一瞬のことだが。


「騒がしいじゃねェか」

「あっ、お父様」


 ぼそっと声のした時、偉浪ウェイランは棺桶から身を乗り出していた。

 言う通り。ひしめく百足の啼き声と、甲羅の軋みがやかましい。

 いつ、どこから湧いて出たものか。何でもないと、ごまかせる状況では到底ない。


「何だァ? 千の手が産んでやがる」

「えっ」


 もはや千の手は、百足の波の向こう。偉浪ウェイランは目を細めて何を言っているのか、訝しみながらも倣う。


 すると見えたのは、聞いたそのままの光景。

 赤黒い波の合間に、千の手の白布は目立った。さらに裾から落ちる赤黒い塊も。


 解けた百足が、波の後ろを押す。千の手は縮むでもなく、十を数えるくらいでまた百足を産み落とす。


マーラウチャオ……」


 黒蔡ヘイツァイ親子だけでは、手が足らない。偉浪ウェイランは呟きながら、棺桶を出た。

 膝までの両脚を引き摺り、軽やかとは程遠い。


 その手に大鉈を握りかけた。が、放して銅の鉱石を握る。もう一方には、小指ほどの刃渡りの短刀を。


「お父様——」


 鉄槌や安息の術で、春海チュンハイでも数匹ほどは退けられよう。けれどもそこまでだ。

 行く末が明らかに過ぎ、偉浪ウェイランの無謀を止める言葉がなかった。


ワンウーチョウ


 向かってくる三匹に銅塊を掲げ、じっと待つ。先頭の大顎とすれ違いに突き出し、首の根本を折る。


 入れ替わりの二匹目。眉間に短刀を立て、三匹目の大顎を銅塊で圧し折った。

 抜いた短刀で三匹目の後ろ頭を突き、また入れ違えて銅塊で二匹目の顔面を潰す。


 体液が飛び散っても、ずり落ちる大顎が着物を破いても、偉浪ウェイランは怯まない。

 触れればたちまち凍りそうな視線を、次に襲い来る百足へ向ける。


「どうしてこんな、人の魂を弄ぶようなことを……!」


 偉浪ウェイランの追いつかなかった一匹を、鉄槌の術で打つ。ぎゅっと胸が痛んでも、ここに居る生きた者を死なせたくはなかった。


「あなたは罪ある魂を裁き、清め、最後に安息を与える神様ではないのですか」


 耳に届く己の声を、最初は誰の声か分からなかった。神を断罪するなどと、畏れ多いにもほどがある。

 しかし否定もまたできないと。


「私はずっと、神は尊いと。少しの曇もなく、ただ信じれば良いと教わってきました」


 私、と言いながら胸に手を当てた。やはり無意識だったが、それで気づいた。

 鬼徳神ゲドを貶す声が誰によるものか。


「でも——違ったようです」


 けれど、口を噤もうとは思わない。


「いったい幾つの命を利用したのですか。これからも際限なく、続けるつもりですか。神にとって人の命とは、どうして数えるものですか」


 確証はない。もしかすると感情のまま、決めつけているだけかも。

 そう思うとほんのひと息、言葉を詰まらせた。


「——きっと大きな器に一杯、二杯。いえ、それでも足らないのかもしれません。それほどとるに足らぬものなのでしょう」


 どうか持ち堪えてくれと偉浪ウェイランに頼み、天界の門シャンタンに向き合う。

 残る一枚の門扉に拳を叩きつけ、もぎ取った。


「あなたは嘘を吐いた」


 両手を合わせ、ただ祈る。どこにあるかも知れぬ冥土にまで、神通力を到達させんとして。


「なぜ私を皇都から呼んだか。もうそこから嘘だったのですね」


 腹が立った。怒りと言うと、少し違う。

 白い布を白く、黒い布は黒く。洗濯をするには、あるがままの姿を取り戻させる。

 だのに汚れた上から、顔料を塗りたくってごまかした。そういう不正を見つけた気分だ。


 教えてくれたのは、飛龍フェイロン。数拍前に産み落とされた百足に、その顔がある。

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