第91話:当てなき当て

春海チュンハイ、そんなこと。当てがあるのかい?」


 至極当然の問いに、声を詰まらせた。


「も、もも、もちろん。私に任せて」

「ええ……?」


 訝しむ目から、顔を背ける。

 当てのないわけではなかった。確実性が皆無で、実行の方法を思いつかないだけで。


「お母様と人形は、一心同体なのですね?」

「ええ。何かしようというなら、私に言っては駄目」

「分かりました。どうか私を」

「信じるわ」


 破蕾ポーレイの声は優しかったが、首肯に力なかった。期待や希望など欠片も孕んでいない。

 どうでもいい、ということと理解した。

(それでも、お母様を放ってはおけない)


「どうか」


 もう一度、最拝礼で頼む。が、答えはない。


「母さん待って」

「もう人形わたしが——」


 顔を上げると、破蕾ポーレイの姿が薄く消えかかった。破浪ポーランのつかむ腕だけが、くっきりと見える。


「可愛らしい彼女のことを信じます。それでも叶わなかったら、これきり私を忘れなさいね」

「母さん!」


 笑んでいるか泣いているかも、もう区別がつかない。白い紙が薄墨で染まるように、破蕾ポーレイは消えた。最後まで見えた腕も、泡が弾けたかに。


 破浪ポーランと話さねばならない。

 そう思うくらいの間はあった。しかしそれだけで、いずことも知れぬそこ・・から追い出された。


「憎い! 憎い!」


 声を刃とせんがごとき絶叫。景色を見失った春海チュンハイの後ろから。

 目をしばたたかせ、視覚を取り戻す。と、まず映ったのは迫る美丈夫の顔。


「どけ春海チュンハイ!」


 その声より明らかに、彼の腕のほうが速かった。抱きしめようとでも言うのか、と勘違いする暇もない。


 荒々しく押し退けられ、勢い余って転んだ。次の瞬間、硬い衝突音が響いた。たった今まで春海チュンハイの居た、その場所で。


「そこは危ない。下がれ」

「え、ええ!」


 人形の貫手を、斧で止める。反対から襲う蹴りを蹴り返す。そんな破浪ポーランの忠告に逆らう理由がない。


 四つん這いのまま、跳ねるように離れた。するとそこに、人形の空いた手が降り注いだ。


鬼徳神ゲド鬼徳神ゲド!」


 棺桶の偉浪ウェイランと、起き上がろうともがく烏鴉ウヤ。その脇へ置いた天界の門シャンタンへ走る。


 背中に負える小さな祭壇に抱きつき、改めて据え直した。

 僧院のない土地へ赴く僧が、職人に作らせる物だ。銭がなければ自分で作ることもあると聞く。


 春海チュンハイのこれは、父から譲り受けた。いつの物か分からないが、しっかりした造りで、安くはないだろう。

 だがそれも、今は門扉の一つが失われた。不完全な祭具で祈るのは、神への不敬に当たるだろうか。


(そんなことない。大切なのは、祈る心)

 強く動悸を打つ己の胸に言い聞かせ、両手を合わせた。使命を与えた当の神に、撤回さすため。


鬼徳神ゲド。冥土を統べる、安息の守り手。鬼徳神ゲド、もう一度だけ私と声を交わしてください」


 既に話したことが、幾ばくかの自信であったかもしれない。呼びかければ答えてくれると信じられた。

 しかし天界の門シャンタンを通し、見える物は変わらない。脈打つ地面と、腐臭漂う薄墨の景色だけ。


「憎い!」


 人形が荒ぶる。破浪ポーランを目の前に、左の腕を広げた。

 白鳥の羽ばたくようであって、美しいとも言える。焼け爛れたかの肌に目を瞑れば。


 右の腕も掲げ、いよいよ飛び立つのかと思う。だが違う、それはきっと合図のようなもので、答える相手があった。


「おいおい、もう一度ってのかい……」


 嘆いたのは黒蔡ヘイツァイ白蔡パイツァイと背中合わせに座り込み、まだ息が整わない。


 もう一度、の意味も明らかだ。広間の壁、四方が見えなくなった。

 かぶった白い布を妖しく揺らし、数えきれぬ手を垂れ下げる千の手によって。

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