第90話:選ばれた者

 言葉の通り、破蕾ポーレイの面が怒りの色に歪む。引き剥かれた眼は血走り、楚々とした佇まいとかけ離れた。


「憎い。永久とこしえに縛られた私の下へ遊山に来るお前たちが。愛しい我が子さえ奪ったお前たちが!」


 大きく広げた口腔に牙はない。けれども幻に見さすくらい、剣呑と唸る。

 まだ離れて這う春海チュンハイさえ、そのまま後退を始めたくなった。


「それ、どういうこと?」


 美丈夫は揺るがない。喜怒哀楽のどれも感じさせぬ平坦な顔色で、僅か寄った眉間の皺と、傾けた首が感情を知らせる。


人形わたしは——」


 存在しない牙を突き立てんばかり、破蕾ポーレイは我が子につかみかかろうとした。

 だが足を止め、「くっ」と苦しげに頭を抱える。咄嗟に破浪ポーランが手を差し出したが、「大丈夫」と穏やかに押し返した。


「ごめんなさい。どうも境が分からなくなって」

「いや、ええと……」

「そう。あなたは知らないのね」


 何ごともなかったように、元通り向き直る。さすがに破浪ポーランは、眉間の皺を深めたが。


「あなたは私の子。私の亡骸から、旦那様が取り上げてくれた。あなたが育ってくれて、私は嬉しいと思っているわ。本当にね」


 破蕾ポーレイ自身の腹を撫で、同じ手を息子に伸ばした。破浪ポーランは無言で受け取り、頷く。


「でもこの人形は、身体を奪われたと思っている。それは鬼徳神ゲドに与えられた使命に反するの」

「使命?」


「千の手を率いて、迷宮で死んだ人間の魂を集めること。千の手を率いて、強い肉体を集めること」


 さっと、破浪ポーランは踏み出した。母の手を静かに引いて、広い胸板に全身を収める。


「そんなのは母さんの仕事じゃない。帰ろう」

「それは、無理なの……」

「どうして。使命と言ったって、母さんに与えられたわけじゃないだろう? 母さんは巻き込まれただけだ」


 金魚ジンユと同じく、破蕾ポーレイ春海チュンハイよりも背が高い。それでも破浪ポーランに抱きすくめられては、親子が逆さまに見えた。


 何度も「ごめんなさいね」と。腕の中で否定に首を振る。

 同じだけ「帰ろう」とも繰り返された。頑なさと優しさと、春海チュンハイはどちらもに頷いた。


「もう無理。私はどこまでが私か、分からなくなっている。そして人形わたしが滅びることはないわ。人間の肉を喰い続ける限りね」

「じゃあ」


 じゃあ肉を喰わなければいい。

 春海チュンハイも同じことを言いたくなった。しかしやはり、破蕾ポーレイの首は水平に動く。


「私は人形わたしに逆らえない。弱くて申しわけないけれど」

「そんなこと言わないでくれ」


 破浪ポーランの苦しげな声が、食いしばった歯の間から漏れる。

 同じく春海チュンハイも食いしばる。あと少しで、母子に手が届きそうだ。


「でももう少しで、使命から逃れられそうなの」


(あんなに無理って言ったのに?)

 気張った風に、破蕾ポーレイの声が強まる。だがそれが、胸をざわざわとさせた。


「えっ、どうやって?」

「私が人形わたしで居る時、何だか分からなくなるの。前は何もかも覚えていたのに、意識にない時間が増えているの」


(駄目よ、そんなの)

 一、二歩と見える距離が果てしない。破浪ポーランから見えているだろうに、なぜ気づいてくれないのか。


 この迷宮で、嫌と言うほど叩き込まれた。見たままが真実であるほうが珍しいと。

 ゆえに剥れかけた爪も、その痛みも幻に違いない。


「それ、呑み込まれかけてるってことじゃあ——?」


 きっとそうだ。春海チュンハイも同じ理解をした。

 破蕾ポーレイ自身もだろう。縦にも横にも首が動かない。


「駄目だ!」


 突然の怒声に慄いた。耳の近い破蕾ポーレイなど、かわいそうなくらいに身を縮ませた。


「連れて帰る。じゃないと父さんが悲しむ」

「お願い、分かって。あなたたちと会うたびに、意識がはっきりとしてしまうの。もう私を眠らせて」

「俺と、父さんが?」


 こわごわと、破蕾ポーレイは頷く。言うまいと決めていたのかもしれない。

 しかし伝えねば、破浪ポーランは折れない。だから残酷な事実を口にした。


「迷宮へ潜ってなかったら、母さんは苦しまずに済んだ? 人間を喰うこともなかった?」

「ええ。ええ。でも仕方ないわ、そういう旦那様だから選ばれたの」

「どういうことさ、選ばれたって。喰われたのは母さんで、ええ?」


 もう黙って聞くのは限界だ。こんな出歯亀のような位置より、いっそ聞こえぬところまで追い出されたほうがましと思う。


(いい加減に届いて!)

 苛立ちを勢いに乗せ、手を伸ばす。と、春海チュンハイの平手は硬い筋肉を打った。


「痛っ!」

「あっ破浪ポーラン、ごめんなさい」


 辿り着いた。珍しく分かりやすい、驚きの破浪ポーランが引き起こしてくれる。

 振り返ってみたが、這いずった跡はもうない。握られた手も痛まない。


「お母様、初めまして。姜春海ジャオチュンハイと申します」

「ええ、知っているわ。初めまして可愛い人」


 最拝礼を向けると、破蕾ポーレイも拝礼で返した。所作も笑みもぎこちなかったが、気持ちを嬉しいと思う。


「私にも教えていただけますか? 鬼徳神ゲドの使命のことを」

「あなたに隠す必要はないわね」


 憂いを帯びた笑みに、これなら偉浪ウェイランも守りたくなろうと納得させられた。

 とはさておき、ここまで盗み聞きをしていたのを詫びる。


鬼徳神ゲド杭港ハンガンへ迷宮の口を開いたのは、ただの偶然よ。でもそこで、人形を預ける人間を捜したの」


 破浪ポーランの母と言え、見た目に春海チュンハイより少し上としか見えない。

 それでも息子以外を前にしたからか、話すうちに声が凛々しく張っていく。


「どこまでも追ってくるような、執着で結ばれた者同士。鬼徳神ゲドの見立てた通り、旦那様は冥土まで来てくださった」


(誇りに思っていらっしゃるのね)

 だからこうして、強く見せかけられるのだ。ここまで信頼できる誰かを持てることが羨ましく、同時に痛ましい。


「お母様、分かりました。僭越と承知してはいますが、どうか私を信じていただけませんか」

「信じる? あなたを疑う理由はないけれど、何をかしら」


 何ごとも焦るな。僧の修行も、人の信頼を貰うのも。

 僧見習いになる前、よく父から聞いた言葉だ。だがそう言えば、近年はまったく聞かなくなった。


(嘘吐き)

 呪いの言葉は、もちろん表情にも出さない。


「お母様を解放します、この人形から。そして迷宮から」

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