第90話:選ばれた者
言葉の通り、
「憎い。
大きく広げた口腔に牙はない。けれども幻に見さすくらい、剣呑と唸る。
まだ離れて這う
「それ、どういうこと?」
美丈夫は揺るがない。喜怒哀楽のどれも感じさせぬ平坦な顔色で、僅か寄った眉間の皺と、傾けた首が感情を知らせる。
「
存在しない牙を突き立てんばかり、
だが足を止め、「くっ」と苦しげに頭を抱える。咄嗟に
「ごめんなさい。どうも境が分からなくなって」
「いや、ええと……」
「そう。あなたは知らないのね」
何ごともなかったように、元通り向き直る。さすがに
「あなたは私の子。私の亡骸から、旦那様が取り上げてくれた。あなたが育ってくれて、私は嬉しいと思っているわ。本当にね」
「でもこの人形は、身体を奪われたと思っている。それは
「使命?」
「千の手を率いて、迷宮で死んだ人間の魂を集めること。千の手を率いて、強い肉体を集めること」
さっと、
「そんなのは母さんの仕事じゃない。帰ろう」
「それは、無理なの……」
「どうして。使命と言ったって、母さんに与えられたわけじゃないだろう? 母さんは巻き込まれただけだ」
何度も「ごめんなさいね」と。腕の中で否定に首を振る。
同じだけ「帰ろう」とも繰り返された。頑なさと優しさと、
「もう無理。私はどこまでが私か、分からなくなっている。そして
「じゃあ」
じゃあ肉を喰わなければいい。
「私は
「そんなこと言わないでくれ」
同じく
「でももう少しで、使命から逃れられそうなの」
(あんなに無理って言ったのに?)
気張った風に、
「えっ、どうやって?」
「私が
(駄目よ、そんなの)
一、二歩と見える距離が果てしない。
この迷宮で、嫌と言うほど叩き込まれた。見たままが真実であるほうが珍しいと。
ゆえに剥れかけた爪も、その痛みも幻に違いない。
「それ、呑み込まれかけてるってことじゃあ——?」
きっとそうだ。
「駄目だ!」
突然の怒声に慄いた。耳の近い
「連れて帰る。じゃないと父さんが悲しむ」
「お願い、分かって。あなたたちと会うたびに、意識がはっきりとしてしまうの。もう私を眠らせて」
「俺と、父さんが?」
こわごわと、
しかし伝えねば、
「迷宮へ潜ってなかったら、母さんは苦しまずに済んだ? 人間を喰うこともなかった?」
「ええ。ええ。でも仕方ないわ、そういう旦那様だから選ばれたの」
「どういうことさ、選ばれたって。喰われたのは母さんで、ええ?」
もう黙って聞くのは限界だ。こんな出歯亀のような位置より、いっそ聞こえぬところまで追い出されたほうがましと思う。
(いい加減に届いて!)
苛立ちを勢いに乗せ、手を伸ばす。と、
「痛っ!」
「あっ
辿り着いた。珍しく分かりやすい、驚きの
振り返ってみたが、這いずった跡はもうない。握られた手も痛まない。
「お母様、初めまして。
「ええ、知っているわ。初めまして可愛い人」
最拝礼を向けると、
「私にも教えていただけますか?
「あなたに隠す必要はないわね」
憂いを帯びた笑みに、これなら
とはさておき、ここまで盗み聞きをしていたのを詫びる。
「
それでも息子以外を前にしたからか、話すうちに声が凛々しく張っていく。
「どこまでも追ってくるような、執着で結ばれた者同士。
(誇りに思っていらっしゃるのね)
だからこうして、強く見せかけられるのだ。ここまで信頼できる誰かを持てることが羨ましく、同時に痛ましい。
「お母様、分かりました。僭越と承知してはいますが、どうか私を信じていただけませんか」
「信じる? あなたを疑う理由はないけれど、何をかしら」
何ごとも焦るな。僧の修行も、人の信頼を貰うのも。
僧見習いになる前、よく父から聞いた言葉だ。だがそう言えば、近年はまったく聞かなくなった。
(嘘吐き)
呪いの言葉は、もちろん表情にも出さない。
「お母様を解放します、この人形から。そして迷宮から」
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