第89話:私は私
「
地面を蹴る。ほぼ無心で、今度は自身を砲弾として。
皮膚を害することなく体内にだけ、という技術を耳にしたことがある。
だとすれば
「
呆然と上向いた顔を覗き込む。目の前へ人形の居ることなど忘れていた。
己の顔で視界を塞いでも、頬を強く叩いても、彼は魅入られたように動かない。遠い一点を見据えた眼は、まばたきも忘れている。
ただ、小さく唇が動いた。耳を寄せると、誰かと話しているように聞こえた。
内容はよく分からないが、母さんと言ったのは間違いない。
これは
「あなたと話してるの?」
振り返り、人形を睨む。細く長い腕が頭上へ蓋をし、隙間に覗く青白い顔面が睨み返して見えた。
けれども動かない。当たり前の彫像として、ずっとここへあったように。
全面に火傷をしたかに見える肌。青く光る眼。それらをじっと見ていると、人形であると忘れそうになる。
自分の頬を張り、正気をたしかめた。
それから考えた。この人ならざるものに、問うべきことを。
「……あなた、
声に出たのは問いと言うより、非難になった。
この人形の行いが神の意志に沿うのなら、
しかしそれにしても、残酷が過ぎるだろうと。
「答えてよ」
問い重ねても、答えはなかった。どころか人形も
お前に関わりないこと。そう言われた気がして、喉の奥がきゅっと縮む。
「ええ、そうね。でも関わりたいのよ、
これでは駄々だ。自覚しつつも、言わずにおれない。
強く発した言葉が何度か跳ね、すぐにまったくの静寂が訪れる。虚しさに、どうして良いやら分からなくなった。
(あなたは——)
優しい美丈夫に助けを求めた。向き合い、身体を揺すろうとした。
けれど、できない。激しい頭痛が、思わず目を瞑らせる。
最初はそれどころでなかったが、自身がそちらへ吸い寄せられる感覚があった。
辺りを覆う白い靄。どこかから
そこへ向かい合う男と女。一人は
もう一人、女のほうは分からない。背格好や褐色の髪が、
「お母様——?」
根拠はない。直感的にそう思った。でなければ
「私を殺して、戻りなさい。あなたたちの住む場所へ」
人形の声と違う。
「どうしてさ。父さんは母さんを地上へ戻したいんだ、帰ろう」
「私には無理なの。分かって」
「だからどうして。理由を教えて」
「忘れてほしいの」
「忘れる? 母さんを? そんなの無理に決まってる。俺はまだしも、父さんが」
駆ければ、ふた息で届く距離。漂う靄以外に遮る物もないのに、
何度か
「私は人を喰ったの。そうしないと、この身体が保たないから。そんな私が一緒になんて、行けるはずがないでしょう」
「
(私のことなんて)
名を出しても、
という誹りも、やはり声にならなかった。
それなら字に書いてでも伝えよう。這いずる手に力を籠めるが、なかなか進まない。
「可愛らしいお嬢さんね。とてもお似合いと思うわ」
「似合い?」
「あなたによ。好いてるんでしょう?」
「そりゃあ……」
こんな時に何を。場違いな会話への怒りか、身体じゅうを熱く感じた。
同時に恥ずかしくもあり、何やら
「いや、そんなことより母さんだ。父さんはずっと、母さんを連れ戻そうとしてる」
「知っているわ。あなたの産まれたことも、一緒に迷宮へやってきたことも。ずっと見ていたもの」
(そう。私なんて、そんなことよ)
二人に気づかれないことを、この時ばかりは良かったと思う。
だがこれから顔を覗かせば同じとは、考えないようにした。
「でも、もう無理なの」
「どうして」
「この身体が
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