第87話:対する術は
完全な漆黒が、一瞬。光が失われたのでなく、
それほど僅かな間の後、見えた景色は一変していた。
倒れた
膨れる濃い朱の光に照らされ、夫と息子を庇って立つ
遠目にも色を失い、倒れた。庇う手を出すこともなく、顔面から。
「母ちゃん!」
立ち上がった
ぎりぎりと不快な音がする。何かと思えば、
隙間から覗く
「おい、悪ィのか」
すぐ下からの、低く通る声に驚いた。通らぬ息を強引に呑んで答える。
「――はい。千の手がたくさん」
「影だ」
「えっ?」
「影を見て
棺桶の中、
(影って)
直に見ることのできない千の手を相手に、双龍兄弟は鏡を使って失敗した。しかしそうでなく、影を見れば大丈夫らしい。
歴戦の男が言うのだ、間違いはなかろう。だが四角い広間の壁沿いを、千の手はぐるり囲む。壁に映る影を見ようとすれば、どうしても本体を視界に入れねばならなかった。
まして包囲が少しずつ縮まる。聞いたまま伝えるのは簡単だが、それでは彼らの救いにならない。
「早くしねェか」
なぜ伝えない、と急かす
(あっ)
そうかと思いつき、置いたままの
「天の常道、人も獣も等しくその下を行く。ただ、立ち塞ぐ闇も在り。今ここに苦難を割く光をお貸しください——
たちまち、眩い光球が生まれた。操り、蹲った
盗み見るに、それだけで千の手の怯む様子はなかった。だがくっきりと黒い影が落ちる。
いや、浮かんだと言うべきか。蠢く影が映るのは、天井にだ。
「
呼ばれて振り返った男は、呆然と表情を凍らせていた。だがそれで、諦めて良いとは言えなかった。
「早く。あなたも
彼の男でさえ、妻の死には思考を止めてしまうらしい。再び動かすのには、嗚咽に震えた呼吸が二度必要だった。
涙を押し出すように固くまぶたを閉じ、再び開いた瞳には炎が見えた。
暗い、恨みの色だ。しかしこのまま朽ちてしまうよりは、百倍も良かろう。
「お前に言われるまでもないよ」
手鼻を飛ばし、毒吐き、
我が子と妻に、指一本たりと触れさせぬ。という気魄が鎖を伝って見えるようだ。
千の手の影は、足踏みを始めた。見てとると直ちに、
絡めた鎖を引き、柄付きの大針を突き立てた。
途端、蒸気の噴くのに似た音が聞こえた。しゅうしゅうと弱々しく、さらに小さく消えていく。
一つ、千の手の影が光に呑まれた。
「
空いた隙間を走る影があった。人の形だが、黒くない。極めて薄いものの、牡丹の色だ。
長い髪を振り乱し、ひと際大きな影の山に近づく。
見れば、伏せた
動かぬ
文字通り、手刀で紐でも断つようにだ。以前に
僧の神通力とは違う。でもあれで命を繋げるに違いない。
じっと見守る中、
まさか手遅れだったか。あっさりと離れる素振りに、不安がよぎった。
「……なんだい。あたしは夜まで寝過ごしちまったのかい」
もごもごとくぐもった声は、皮肉の効いた
強がりではあるのだろう。巨躯が飛び退いても、すぐには動かなかった。
「か、母ちゃん!」
「大丈夫。
覗き込んだ息子の顔を、母は撫でた。つらそうに息を切らすが、しっかりと動く。
「
熱い、父親の叫び。千の手を前に、
「母ちゃん、休んでろよ」
呼ばれた息子は細い身体を抱き、
そしてすぐさま、父とは反対の千の手に錘を向ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます