第87話:対する術は

 完全な漆黒が、一瞬。光が失われたのでなく、春海チュンハイ自身のまばたきだったのかもしれない。

 それほど僅かな間の後、見えた景色は一変していた。


 倒れた白蔡パイツァイに寄り添う黒蔡ヘイツァイが「大癒ダァユ」と。

 膨れる濃い朱の光に照らされ、夫と息子を庇って立つ烏鴉ウヤ


 春海チュンハイが千の手に招かれた直後。一日以上もあちら・・・へ行っていたはずが、異様なほど鮮明に記憶が繋がった。


 烏鴉ウヤの対峙するのも千の手。振るいかけた笞が地面に落ち、迷宮に潜る強者とも思えぬ痩けた身体が揺れる。

 遠目にも色を失い、倒れた。庇う手を出すこともなく、顔面から。


「母ちゃん!」


 立ち上がった白蔡パイツァイが母に駆け寄り、その巨躯で全身を覆い隠す。遅れて、黒蔡ヘイツァイも脇へ膝を突いた。

 ぎりぎりと不快な音がする。何かと思えば、春海チュンハイの奥歯からだ。


 隙間から覗く烏鴉ウヤと、飛龍フェイロンの姿が重なる。延いては手の届かぬ場所に居る己の無力さも。死んだ者を生き返らす術は、知る限り存在しない。


「おい、悪ィのか」


 すぐ下からの、低く通る声に驚いた。通らぬ息を強引に呑んで答える。


「――はい。千の手がたくさん」

「影だ」

「えっ?」

「影を見てるんだよ」


 棺桶の中、偉浪ウェイランは暴れた。そのまま出て行きそうなのを、慌てて止める。


(影って)

 直に見ることのできない千の手を相手に、双龍兄弟は鏡を使って失敗した。しかしそうでなく、影を見れば大丈夫らしい。


 歴戦の男が言うのだ、間違いはなかろう。だが四角い広間の壁沿いを、千の手はぐるり囲む。壁に映る影を見ようとすれば、どうしても本体を視界に入れねばならなかった。


 まして包囲が少しずつ縮まる。聞いたまま伝えるのは簡単だが、それでは彼らの救いにならない。


「早くしねェか」


 なぜ伝えない、と急かす偉浪ウェイラン。板に囲まれた中でも、鋭い眼光の衰えることはなかった。向ける先は真上しかないけれど。


(あっ)

 そうかと思いつき、置いたままの天界の門シャンタンを引き寄せる。開いた門に収めるのは、絶体絶命の黒蔡ヘイツァイ一家。


「天の常道、人も獣も等しくその下を行く。ただ、立ち塞ぐ闇も在り。今ここに苦難を割く光をお貸しください——光輝グェンフォア!」


 たちまち、眩い光球が生まれた。操り、蹲った白蔡パイツァイの足下へ置く。

 盗み見るに、それだけで千の手の怯む様子はなかった。だがくっきりと黒い影が落ちる。

 いや、浮かんだと言うべきか。蠢く影が映るのは、天井にだ。


黒蔡ヘイツァイ、上を。影を頼りにしてください!」


 呼ばれて振り返った男は、呆然と表情を凍らせていた。だがそれで、諦めて良いとは言えなかった。


「早く。あなたも白蔡パイツァイも、夫人おくさんも喰われてしまうわ!」


 彼の男でさえ、妻の死には思考を止めてしまうらしい。再び動かすのには、嗚咽に震えた呼吸が二度必要だった。


 涙を押し出すように固くまぶたを閉じ、再び開いた瞳には炎が見えた。

 暗い、恨みの色だ。しかしこのまま朽ちてしまうよりは、百倍も良かろう。


「お前に言われるまでもないよ」


 手鼻を飛ばし、毒吐き、黒蔡ヘイツァイは跳んだ。両手の袖から伸びた鎖が、縦横無尽に暴れる。

 我が子と妻に、指一本たりと触れさせぬ。という気魄が鎖を伝って見えるようだ。


 千の手の影は、足踏みを始めた。見てとると直ちに、黒蔡ヘイツァイは手近な一体へ襲いかかる。

 絡めた鎖を引き、柄付きの大針を突き立てた。偉浪ウェイランの助言に従い、天井だけを見てだ。


 春海チュンハイの目にも、千の手の頭と針、それぞれの影が深く交わったのが見える。

 途端、蒸気の噴くのに似た音が聞こえた。しゅうしゅうと弱々しく、さらに小さく消えていく。

 一つ、千の手の影が光に呑まれた。


金魚ジンユ


 空いた隙間を走る影があった。人の形だが、黒くない。極めて薄いものの、牡丹の色だ。

 長い髪を振り乱し、ひと際大きな影の山に近づく。


 見れば、伏せた白蔡パイツァイの脇から彼女は手を差し入れた。

 動かぬ烏鴉ウヤの手を引き出し、脈を診るように手首を握る。するともう一方の手が、さっさと空を切った。


 文字通り、手刀で紐でも断つようにだ。以前に春海チュンハイが凍えさせられた時、そんなことを聞いた。

 僧の神通力とは違う。でもあれで命を繋げるに違いない。


 じっと見守る中、金魚ジンユ烏鴉ウヤの手をそっと置く。

 まさか手遅れだったか。あっさりと離れる素振りに、不安がよぎった。


「……なんだい。あたしは夜まで寝過ごしちまったのかい」


 もごもごとくぐもった声は、皮肉の効いた烏鴉ウヤのもの。

 強がりではあるのだろう。巨躯が飛び退いても、すぐには動かなかった。


「か、母ちゃん!」

「大丈夫。白蔡パイツァイ、あたしを守ってくれてたんだねえ。大好きだよ」


 覗き込んだ息子の顔を、母は撫でた。つらそうに息を切らすが、しっかりと動く。


白蔡パイツァイ!」


 熱い、父親の叫び。千の手を前に、烏鴉ウヤが息を吹き返したのも知っているようだ。


「母ちゃん、休んでろよ」


 呼ばれた息子は細い身体を抱き、春海チュンハイの前まで運んだ。

 そしてすぐさま、父とは反対の千の手に錘を向ける。

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